『維新と興亜』編集長の坪内隆彦が、「知られざる尊皇思想継承の連携─尾張藩と水戸藩」を『日本』(日本学協会発行)3月号に寄稿しました。
その結論は、尾張・水戸両藩における尊皇思想継承が一本の線でつながっているように見えるというものです。
尾張藩初代藩主・義直の遺訓「王命に依って催さるる事」の継承と、義公以来の尊皇思想の継承とが連動していたのではないかとの仮説です。
水戸においては、義公の遺訓は第6代藩主・治保(文公)に継承され、さらに文公から第7代藩主・治紀(武公)に継承されましたが、『武公遺事』には「我等は将軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少(いささか)も将軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり」と書かれています。
この表現から直ちに想起されるのが、尾張藩における「王命に依って催さるる事」の継承です。尾張藩第4代藩主・吉通に仕えた近松茂矩が著した『円覚院様御伝十五ヶ条』には、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と書かれています。
皇學館大学教授の松本丘先生に、『国体文化』令和2年12月号で坪内隆彦著『徳川幕府が恐れた尾張藩』をご紹介いただきました。各章ごとに丁寧な紹介をしていただいた上、次のようにお書きいただきました。
〈本書は、尾張藩における勤皇思想を支へてゐたのは、崎門学・垂加神道を始め、国学・君山学派などの学問思想であり、「王命に依って催さるる事」といふ尊い精神は、「魂のリレー」によつて力強く継承されたと著者は述べる。これまで、同じ御三家において醸成された水戸学が、尊皇攘夷思想の発信源であつたことは語り尽くされてきたが、本書によつて、尾張学も大きな役割を果たしてゐたことが明らかになつた。
そして著者は、明治維新を薩長による権力奪取とする歴史観が近年横行してゐることに対しても、「尊皇排覇の思想は突然幕末になつて生まれたわけではない。江戸初期から思想家たちが命がけで築いた学問の発展と継承の上に、幕末の尊攘思想は花開いた。こうした精神的、思想的連続性を視野に置いた明治維新史を取り戻すべきではないのか。」と慨嘆されてゐるが、今後も著者によつて、維新に至る真の思想史が描き出されてゆくことを期待したい。〉
身の引き締まる思いです。誠に有難うございました。
〈徳川幕府を死守せよ(会津初代藩主、保科正之の遺言)を遵守した慶勝の弟ふたり
王権が優先すると尾張藩初代藩主は最初から家康政治とは逆さまの発想をしていた
♪
坪内隆彦『徳川幕府が怖れた尾張藩』(望楠書房)
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
副題に「知られざる尊皇倒幕論の発火点」とある。
それが徳川御三家の筆頭、尾張藩だという。
「えっ。?」
幕末の黒白を決めた戊辰戦争は鳥羽・伏見から始まり、薩長の田舎侍に惨敗した慶喜は大阪を捨てて、会津藩主、桑名藩主をともない船で脱走した。みっともない、サムライの美意識にもとると痛烈な批判を産んだ。慶喜は王権の前に怯み、偽の錦旗に震えた。
会津藩士も新撰組も幕府軍も戦場に置いてきぼりを食らった。
それにしても、徳川御三家の筆頭は尾張藩である。八代将軍吉宗は和歌山藩から十五代は水戸藩からでたが、尾張には将軍職は廻らなかった。だからその恨みから戊辰では最初に裏切って官軍に付いたと考えるのは短絡的であり、物事には心境の変化、情勢の激変、新状況へ対応がともなう。ましてや、思想戦の趣が濃厚だった。
こうした尾張藩の倒幕への傾斜が薩長の勝利をもたらす大きな原因となるのだが、何故か、近・現代史家たちは、この重要ポイントを軽視してきた
その理由として坪内氏は次の諸点をあげる
第一に薩長は自分たちが中心の薩摩史観を優先させ、徳川政治を過小評価した。
第二に幕府と尾張藩の長い軋轢は、水戸藩ほど評判とはならなかった。
第三に水戸は水戸学を確立していたが、尾張には尾張学がなかった。というのも慶勝が藩主となるまでの五十年にわたって幕府から押しつけ養子を強要された結果、国学が停滞した時期が半世紀のも及んだからではないか、とする。
しかし、評者、もう一点付け加えるとすれば、武士道に悖り、侍の美意識に反すると誤解を受けたことが尾張藩の過小評価に繋がったのではないか。
ともかく幕末の尾張藩主は徳川慶勝である。
藩主の弟君たちは会津若松の松平容保。もうひとりは桑名藩主、松平定敬。いずれも官軍と最期まで勇敢に戦い、大砲という近代兵器に叶わずに降伏した。しかし尾張藩は徳川御三家の筆頭。その尾張藩がなぜ宗家に楯突き、西郷、木戸軍の先頭に立ったのか。長い間、維新史の謎とされたミステリーを解いた。
著者の坪内隆彦氏は元日本経済新聞記者、マハティールとの単独会見などで知られ、現在は『月刊日本』編集長。かたわら意欲的な執筆を続け、歴史著作には『GHQが恐れた崎門学』など問題作がある。
尾張藩主初代は徳川義直。じつは、この人物が水戸黄門様に影響を与えた。徳川義直は家康の九男である。
幼い頃から学問が好きで尊皇思想に目覚め、「王命に依って催さるる事」という基本の政治思想確立するのだから、歴史は皮肉なのである。幕府が命じようとも勅命にしたがうことが優先するという遺訓である。
尾張藩主の哲学は水戸光圀に強烈な思想的影響を与え、江戸の幕府とは「尋常ならざる」緊張関係になっていた。ただし尾張藩での国学は本居宣長、賀茂真淵らが読まれたが、なぜか平田熱胤は軽視された。平田学はむしろ薩摩藩で圧倒的な影響力があった。
第14代尾張藩主・徳川慶勝は初代藩主の家訓を守る。
「王命に依って催さるる事」とは、幕府を自らが倒すことに繋がり、水戸藩の尊王攘夷派に同時並行した、基本政治哲学優先を貫いた。その結果が徳川宗家十五代の慶喜を蟄居に追い込み、電光石火のごとくに幕府を倒壊させる。
倒幕というより御三家それぞれの自壊作用が半分ほど官軍勝利に影響したのではないのか。
実際の倒幕に火をつけたのは水戸であり、あまりの過激さは井伊直弼を売国奴として、桜田門外の変で葬り、精鋭武士をあつめた水戸天狗党は反主流派の変節などで残酷な運命をたどった。
若き日の吉田松陰は、この水戸へ留学し、会沢正志斉の影響を受けて攘夷思想を固めた。おなじく水戸の藤田東湖は、西郷隆盛に甚大な影響を与えた。
水戸が維新爆発の発火点であり、尾張は最終のダメ押し、表面の事象をみれば、徳川御三家の内訌という悲劇になる。
しかし内訌は、水戸藩のなかでも、尾張藩のなかでも起きた。もっとも悲劇的な内訌は水戸藩で、「門閥派が水戸藩の実権を握り、天狗党は降伏、(中略)江戸幕府は武田耕雲斎ら二十余名を処刑、さらに諸生派が中心となって天狗党の家族らをことごとく処刑した」
その復讐戦も後日、行われ、つまるところ水戸に人材が払底する。
元治元年(1864)朝廷と幕府は長州征伐をきめるが、政党軍の総督に慶勝が任命されてしまった。
「そこで慶勝は西郷に籠絡されて長州藩を屈服させる機会を逃がした」と痛烈に批判されてきたが、当初から融和策の慶勝が、その構想を西郷とすりあわせ、長州藩の三家老斬で長州を許すことに決めていたのだ。
第二次長州征伐は慶勝が下交渉をしていた越前、薩摩の反対を押し切っておこなったため、幕府征討軍の士気がなく惨敗を重ねた。かえって大政奉還へと到る。すでに公武合体論は蒸発しており、薩長は倒幕路線に急傾斜していた。慶勝は、公武合体路線論者だったし、弟二人のこともあって、いきなり倒幕に傾いたのではなく、葛藤があった。
尾張藩では佐幕派の有力者が残っていたため偽の勅命だと言って、処断した。この「青松葉事件」によって尾張藩は倒幕で統一された。
尾張は、家臣団四十余名を勤王誘引斑として近隣の諸藩を周り、三河、遠江、駿河、美濃、信濃、上野など東海道沿道の大名、旗本領へ派遣し、この慶勝のオルグによって、薩長などの官軍は、東海道を進軍するに、なにほどの抵抗も反撃にも遭遇せず、山梨で新撰組の多少の抵抗はあったものの、すんなりと江戸へ進んだ。
尾張藩も、会津同様に悲運に見舞われたとしか言いようがない。
しかし明治十年の西南戦争では、会津旧藩士が「戊辰のかたき」として官軍の先鋭部隊、斬り込み隊として闘ったが、尾張藩士には、そうした動きもなかった。
筆圧を、その重圧を感じる一冊である。〉
『維新と興亜』(崎門学研究会・大アジア研究会合同機関誌)令和2年8月号に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は、大アジア研究会の小野耕資代表です。
〈尾張藩にとっての明治維新―。それは一言では語りつくせぬほどの苦悩の歴史である。尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面では当然幕府側についてもおかしくないだけの存在であった。だが、結果的に尾張藩は新政府側につき、徳川幕府に相対する側となった。それはなぜか? それを理解するためには、初代藩主義直が残した「王命に依って催さるる事」の言葉とその背景、そして徳川幕府との暗闘の歴史を見なければならない。そんな隠された歴史に迫ったのが本書である。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』書評(『維新と興亜』第3号) →
「初代義直から幕末の慶勝まで、様々な紆余曲折を経てゐるが、本書では、徳川御三家の家格にありながら、『尊皇倒幕』路線に大きく寄与した尾張藩の知られざる一面を浮彫にしてゐる」
『不二』(不二歌道会機関誌)令和2年10月号(10月25日発行)に、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』の書評を載せていただきました。評者は『敗戦復興の千年史』の著者・山本直人氏です。
令和2年9月6日に都内で開催された崎門学研究会において、拙著『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』について、同研究会の折本龍則代表にインタビューしていただいた。
★動画は崎門チャンネルで。
尾張藩は徳川御三家筆頭であり、明治維新に至る幕末の最終局面で幕府側についてもおかしくはなかった。ところが尾張藩は最終的に新政府側についた。この決断の謎を解くカギが、初代藩主・徳川義直(敬公)の遺訓「王命に依って催さるる事」である。事あらば、将軍の臣下ではなく天皇の臣下として責務を果たすべきことを強調したものであり、「仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」と解釈されてきた。
この考え方を突き詰めていけば、尊皇斥覇(王者・王道を尊び、覇者・覇道を斥ける)の思想となる。その行きつく先は、尊皇倒幕論である。
義直の遺訓は、第4代藩主・吉通の時代に復興し、明和元(1764)年、吉通に仕えた近松茂矩が『円覚院様御伝十五ヶ条』として明文化した。やがて19世紀半ば、第14代藩主・慶勝の時代に、茂矩の子孫近松矩弘らが「王命に依って催さるる事」の体現に動くことになる。「王命に依って催さるる事」の思想がその命脈を保った理由の一つは、義直以来の尊皇思想が崎門学派、君山学派、本居国学派らによって継承されていたからである。
実は初代義直以来、尾張藩と幕府は尋常ならざる関係にあった。幕府は尾張藩に潜伏する「王命に依って催さるる事」を一貫して恐れていたのではないか。何よりも幕府は、鎌倉幕府以来の武家政治が覇道による統治とみなされることを警戒していた。 続きを読む 『徳川幕府が恐れた尾張藩─知られざる尊皇倒幕論の発火点』インタビュー →
◎国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能な書籍
庵原小金吾『名古屋史談』東壁堂、明治26年
井上哲次郎・有馬祐政編『武士道叢書 中巻』(特に兵要録抄録等)、博文館、明治39年
荻野錬次郎『尾張の勤王』金鱗社、大正11年
河村秀根『書記集解 首巻』国民精神文化研究所、昭和15年
近松彦之進編『昔咄 抄録』国史研究会、大正4年
近松茂矩他著『円覚院様御伝十五箇条』名古屋史談会、明治45年
佐賀楠公会編『楠氏余薫』木下泰山堂、昭和10年
佐藤堅司『日本武学史』大東書館、昭和17年
佐野重造編『大野町史』(特に第18節「勤王と大野」)大野町、昭和4年
山本信哉編『神道叢説』国書刊行会、明治44年
山野重徳『国会請願者列伝 通俗 初編』(特に荒川定英)博文堂、明治13年
手島益雄『愛知県城主伝』東京芸備社、大正13年
小菅廉編『尾参精華』秀文社、明治32年
西村時彦『尾張敬公』名古屋開府三百年記念会、明治43年
天野信景『塩尻 上』帝国書院、明治40年
天野信景『塩尻 下』帝国書院、明治40年
田部井鉚太郎編『愛知県史談』片野東四郎等、明治26年
徳川宗春『温知政要』秋廼屋秋楽、天保7年
名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店、昭和9年
名古屋市編『名古屋市史 人物編 第2』川瀬書店、昭和9年
名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市、大正4年
名古屋市教育会編『済美帖』名古屋市教育会、大正4年
名古屋市立名古屋図書館編『郷土勤皇事績展覧会図録』郷土勤皇事績展覧会図録刊行会、昭和13年
野村八良『国文学研究史』(特に13 吉見幸和及び河村秀穎、同秀根)、原広書店、大正15年
『越中史料 巻3』富山県、明治42年
『吉見幸和集 第1巻』国民精神研究所、昭和17年
『吉見幸和集 第2巻』国民精神研究所、昭和17年
道義国家日本を再建する言論誌(崎門学研究会・大アジア研究会合同編集)