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戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征


●戊午の密勅と安政の大獄
 安政五年三月十二日、関白九条尚忠は朝廷に日米修好通商条約の議案を提出した。これに対して孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にされ、参内した老中堀田正睦に対して勅許の不可を降された。
ところが、大老井伊直弼は、同年六月十九日、朝廷の勅許なしに日米修交通商条約に調印してしまった。これが尊攘派の激しい反発をもたらしたことは言うまでもない。
 八月七日の御前会議において、条約を調印しそれを事後報告したことへの批判と、御三家および諸藩が幕府に協力して公武合体の実を成し、外国の侮りを受けないようにすべきとの命令を含む勅諚が降されることが決まった。戊午の密勅である。同日深夜、左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居・鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交された。
病床にあった吉左衛門に代わり、その子幸吉が密使として、夜半に乗じて東海道を東下。八月十六日、江戸の水戸藩邸に密勅が届けられた。
 老中堀田正睦に対して孝明天皇が下された勅答は、梅田雲浜が青蓮院宮尊融法親王(久邇宮朝彦親王)に建白した意見書が原案になったとされている。青蓮院宮家臣の伊丹蔵人、山田勘解由人は雲浜に入門して師弟の交わりを結んでいた。雲浜は、伊丹と山田を通じてその青蓮院宮の信任を得ることに成功した。
 また「戊午の密勅」もまた雲浜の働きかけによるものと考えられる。雲浜は鵜飼吉左衛門・幸吉父子、頼三樹三郎、薩摩藩の日下部伊三次らと密議して、水戸藩主・徳川斉昭(烈公)を首班とした幕政改革を行うことを企図していたからだ。吉左衛門は烈公から「尊攘」の二文字を賜るほどの信任を得ていた。
 強い危機感を抱いた井伊は、尊攘派弾圧に踏み切り、まず九月七日に雲浜が捕縛された。安政の大獄の始まりである。九月十八日には、吉左衛門・幸吉も捕縛された。翌安政六年八月二十七日、吉左衛門と幸吉は、安島帯刀や水戸藩奥右筆・茅根伊予之介とともに伝馬町の獄舎内で死罪に処された。吉左衛門は死に臨み、幕吏に「一死もとより覚悟の上。唯心に掛かるは主君(徳川斉昭)の安危なり」と尋ね、恙無きやを知ると、従容として死に就いた。 続きを読む 戊午の密勅と尾張勤皇派・尾崎忠征