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ヘイトスピーチに対する考え

 「我々は政治において政治を見ず、時折その間から発せらるる生のうめきに鋭敏でなければならない。政治や経済を「現実」と見るのは誤りである。現実とはそれらの根元に流るる人間のぢかの生命に他ならない。」(『亀井勝一郎全集』第十三巻46頁)

 ヘイトスピーチに対するわたしの考えをこのブログで以前書いたことがあると思っていたが、断片的に触れていたものはあったものの、見つけることができなかったので今回取り上げたい。最初に掲げた亀井の言葉は当然この問題とは全く関係ない文脈で発せられたもので、たまたま見つけたものであるが、この問題に対するわたしの考えをよく示していると思うので掲げておく。

 結論から述べると、わたしはヘイトスピーチに対して「許されてはならない」という意見である。ヘイトスピーチは侮蔑的、低俗的発言であるのみならず、言行不一致の極みであり、顧慮するに値しない。
 ただし、移民政策によって外国人が押し寄せることで現地生まれの住民ともめ事が起きるというのは世界的に見ても珍しいことではない。個人対個人はともかく、集団対集団はそう簡単に分かり合えるものではない。ヘイトスピーチはそうした人間の偽らざる醜い本音という部分も否定できないのではないか。そして「ヘイトスピーチは良くない」と言いながら裏では低賃金労働者を得るために更なる移民の流入を求める大企業、富裕層がいて、それの走狗となる政治家、官僚がいる。住民どうしの摩擦がその原因を作ったこれらの連中に向かわず、お互いへの罵声にしか向かないとしたらそれはなんと悲しいことであるか。ヘイトスピーチ問題で最も非難されるべきは移民流入肯定論者である。移民流入肯定論者はまったく許せない存在である。奴隷商人として社会的に非難されるべきだ。歴史も伝統も文化も日本語も破壊し、市場だけ残そうという輩である。いま日本に残るもっとも反日的な分子ではないだろうか。「国民戦線」創設者のルペンはフランス人にはフランス人の、イスラム教徒にはイスラム教徒の伝統があるのだから、互いに尊重し合って、互いの場所に入り込んではいけないと言ったという。この部分に関してはまさにその通りであろう。

 日本は移民を「外国人労働者」と名を変えて誤魔化している。「研修」と称して当然守るべき最低賃金などの決め事を無視した労働がまかり通っている。ひいては、日本人労働者の賃金の低下圧力にもなっている。摩擦が起こるのは当然である。たびたび述べるように、その憤りの感情が根本原因を作った側に向かないことが問題なのだ。
 研修による移民は不法滞在の温床になっている。不法滞在をしているかもしれない外国人でも雇うのは、企業は外国人なら低賃金で働かせることができるからだ。その意味では外国人労働者の増加は、雇う側が招いているといえる。企業が生き残るために日本社会を破壊し、到底生活できない、今後の仕事にも結びつかない仕事をさせているという点で外国社会をも破壊していると言える。今の日本は3Kと呼ばれる仕事が、発展途上国の国民によって担われる事態となっているが、その社会は、先進国住民の生活を発展途上国民が底辺で支えるという構図である。そして途上国は人材の流出に悩まされるのである。日本の企業努力が移民の増加と国際的階級格差を促進し、アメリカの一人勝ち体制とともに国境概念は薄れ、人々は不安、社会秩序の乱れ、混乱の中で日々生活していくことになる。これを未然に防がねばならない。それには国境の壁を厚くするほかないだろう。民族・国家という安定した心理基盤を絶えず求め続けることこそが本当の国益である。

 故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化がアメリカの手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。自分の企業の都合で外国人や日本人の貧困層の人生を振り回す連中は国賊と言ってよい。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。特に欧州では、その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。コスモポリタンもどきが多いこの日本国では、そういうことに鈍感で、安穏としているのである。
今、世界各地でホームグロウンによるテロ行為が発生しているが、グローバリズム、資本主義がホームグロウンによるテロをもたらした根本原因であることを認めることである。移民の子孫が自国社会に適応できず疎外され、低賃金労働につかざるを得なくなっている。移民一世では本国よりは生活状態が良くなることや、本国への仕送りの使命感から労働に甘んじることができるが、二世以降はそうではない。言葉もセミリンガル化し高度な事象を理解することは難しく、将来の展望もない彼らが過激思想に染まることも不思議とすべきではないのである。もちろん外国人が即犯罪者であるかのような偏見は慎むべきなのであろうが、それは問題の根本原因をおおい隠すことになってはならない。
 資本主義の発達はグローバリズムをもたらしたが、このグローバリズムは人々を故郷喪失の憂き目にあわせた。それは移民により故郷から引きはがされた人々を指すのはもちろん、資本主義的開発で故郷が様変わりし、すっかり民族の面影を破壊されてしまったことをも示す。祖国の共同体が機能しなくなってきたことが、資本主義即ちグローバリズムがもたらした負の側面である。ホームグロウンの問題はその極端な事例として注目されるべきであろう。
 移民も二世、三世と定着してしまえば、低賃金労働を生まれながらに押し付けられなければならない理由を持たない。その不満にテロ組織が忍び寄り、心の隙間を利用するのだ。大事なのはその「心の隙間」をもたらしている資本主義、グローバリズムに対する疑念を持つことである。

 ときおり新自由主義的な政治家などが「日本人の若者はハングリー精神を失った」「外国人の方が優秀だ」といい若者バッシングを繰り返した揚句「若者を甘やかすな」とか「移民の積極化」などを叫んだりする。しかしその背後には大企業の「注文」に合うように軍隊教育まがいの「指導」を受けさせられている外国人労働者の実情がある。そして本国に逃げ帰れないように労働者をだまして多額の借金を背負わせたりする不当な輩もいる。人身売買、奴隷貿易も同然なのだ。奴隷売買のようなことが現に行われていて、それらをダシに甘い汁を吸うものがいることは確かだ。奴隷貿易化した外国人労働者は本人の希望とは無関係に使い捨てられている。長期的には外国人に対して行われているような劣悪な待遇が日本の下層民に対しても当たり前のように行われる日がやってくるだろう。かといっていま日本政府がたくらんでいるような、「数年働かせて本国に返してしまおう」という働かせかたも、人の人生を馬鹿にしているとしか思えない。人間は経済成長のために翻弄されるだけの存在ではない。

 最後に少し抽象的な理論を述べておきたい。わたしが理想とするのは、各民族が自らの伝統、文化、民族の誇りを保持しつつ互いに共生し、切磋琢磨することである。そのためには世界を画一化させる思想に反発し、世界各国をそれぞれの土着文化に回帰させなければならない。移民政策はその土着文化をかき混ぜて破壊させる行為である。土着文化こそ人間の魂、生命である。土着文化は一身を超えて、歴史的にわれわれの過去・現在・未来をつなぐ一本の流れである。それへの敬意が必須なのである。

地理と日本精神

 日本人の精神は「開発」と「経済成長」に毒され続けた。「自然」と「信仰」に対する敬意は、常に後回しにされた。その起源を探れば、冷戦も大きいと思うが、やはり文明開化にまでさかのぼっていかざるを得ないだろう。日本は生き残るために開国し、近代文明を受け入れた。それは他の選択肢を取りようがない状況だったが、結果的に物質的生存が重んじられて精神の生存が軽んじられた側面は否定できない。このことは常に指摘され、国粋主義者などによっても見直しが叫ばれてきたことも知っておくべきだ。大地に根差す思想でなければ日本の伝統を真に受け継いでいるとは言えない。グローバル化、消費社会化の今日の状況下で、文化、伝統を考えようとすれば、大地に根差す思想とは何かということを考えないわけにはいかないのではないか。
 「日本」と言う境界は、誰かが突然地図上に線を引いてできたものではない。さまざまな歴史的経緯によっていつの間にか生まれ、それを近代政府が追認していったものだ。つまり「日本国民」であるという条件は歴史的、伝統的に定められたものであり、我々はその大きな歴史的流れの中に乗っている存在である。柳宗悦は、日本の地図はいつ見ても見飽きないと言う。山も川も、平野も湖も、島や岬、港や町もすべて歴史を持っているからである。地図はいつでも祖国への愛着を呼び起こさせる。その国に生まれた運命に、感謝と誇りを持つことが務めではないか、と言う。柳のライフワークとなった民芸も、その土地の気候風土を離れて存在し得ないものであるとみていた(『手仕事の日本』岩波文庫版15頁)。
 地理は単に国籍や歴史を分かつ境界線ではない。地理的制約は文化的制約であり、生活的制約でもある。地理は文化を分かつ境界線でもあるのだ。江戸時代に『人国記』が著されるなど、風土と文化の関連は早くから関心がもたれていた。古くは『風土記』などもその一種と言えるのかもしれない。
 日本は古くは葦の生い茂る沼地だったという。それを少しずつ耕作地などに作り替えていったのが日本の歴史だった。日本人が米という田を必要とする作物の栽培を重んじたのもそれと無縁ではないだろう。松本健一は、「日本、台湾、中国南東部、インドシナ半島、ボルネオ島(カリマンタン島)、インドネシア、そしてバングラディシュ、スリランカ、東部インド」を「泥の文明」と見做す。「泥の文明」においては、「生命を生む、人智を超えた畏るべき力を持っている根源は泥である、という世界認識になる。人間も、その中から生れてくる」という(『砂の文明 石の文明 泥の文明』岩波現代文庫版105頁)。水分の多い泥土が多くの生命を育むことから、畏きものとして泥から神々が生まれてくるという世界観を持っているのではないかと指摘している。
 その他にも、風土を以て日本の文化的特徴やナショナリズムの根拠と為す議論は多く見出すことができる。浅羽道明は『ナショナリズム』で、『日本風景論』を使って国土、国民が運命共同体であるという物語が作り上げられたことを論じた(92~115頁)。志賀は確かに日本の風景を「夜郎自大」に誇っていたが、それは国籍のない客観的分析として誇っていたのではなく、一人の日本人として日本の風景に誇りを感じるという自己表現でもあったことを忘れてはならないのではないか。ただし、志賀のほうも、「日本人が日本江山の洵美をいふは、何ぞ啻にそのわが郷にあるを以てならんや、実に絶対上、日本江山の洵美なるものあるを以てのみ。外邦の客、皆日本を以て宛然現世界における極楽土となし、低徊措く能はず、自ら 花より明くる三芳野の春の曙みわたせば もろこし人も高麗人も大和心になりぬべし 頼山陽 の所あらしむ」(岩波文庫版14頁、改行略)と、「日本人だから日本の風景に美を感じる」という側面を自ら拒否して、日本人でなくとも世界的に素晴らしいものだと言いたがるところがあった。明治の国粋主義は、日本を国際的に位置付けなければどうしても気が済まない側面があった。それは日本の独立、存亡すら危うかった時代の不安、危機感の裏返しでもある。日本の美は「絶対的」に美であるはずなのに、外国人の評価を気にしないではいられない心情が隠されている。
 内村鑑三はそんな志賀の議論を受けて、日本の風景は「園芸的」「公園的」美に過ぎないではないか、と批判し、外国の「偉大な美」には及ばないと論じている(『日本風景論』岩波文庫版付録367頁)。その内村は『地人論』で地理と文化の関連を論じているが、それは、日本に引き付けたものというよりは博物趣味的なところがあったように思う。むしろ日本に引き付けたのは志賀重昂の『日本風景論』であった。志賀は『日本風景論』で、古典文学から様々な引用をしつつ、それを地理的特徴と結びつけることでナショナルなものとして論じるという特徴があった。『日本風景論』はある種の「まとまりのなさ」を抱えた本である。日本の山々の特徴を述べたかと思えば登山を奨励し、日本の風景保護を訴える。統一的な主張はよくわからないがとにかく志賀が日本の風景を大事にしていることだけは伝わってくる。そういうつくりになっている。志賀は理知的に語っているつもりなのだろうが、結局は理知よりも人の情に訴えるところが強い、そんな不思議な本なのだ。先に引いた内村の批判も、批評家の任として触れざるを得ないが、志賀の愛国の情は高く評価するという調子であった。
 和辻哲郎は『風土』で、すべての文化、伝統は風土によって形成される面があり、それぞれ独自な価値を持つことを主張した。和辻は、ヨーロッパは夏の乾燥があり、雑草がない。したがってヨーロッパの自然は人間に従順であるのに対し、日本では自然に対峙しなければならないことを説いた(岩波文庫版74~89頁)。
 高山彦九郎は、日本の民族文化の固有性を考えるために、日本全国を歴遊し、この地方では何が取れるか、どんな人物が出たのかと言ったことを詳細に調べて回った(松本健一『海岸線の歴史』170頁)。各土地の文物を民族文化、日本精神にまで昇華させようとしたところに注目すべきであろう。同様に、例えば牧野富太郎は日本産の植物に漢名をつけることを激しく嫌った。サクラを桜桃と書くことや、アジサイを紫陽花と書いてはならないと主張していた(『植物記』等)。ここに国学的な態度を連想するのはそう突飛な感想ではないだろう。牧野は植物の生態を民族文化にまで高める部分があったと言えるのではないか。
 五木寛之はセイタカアワダチ草に外来のものと日本との関係を見る。セイタカアワダチ草は外来の植物で、既存の日本の植物を駆逐して広まっていき、一時期はセイタカアワダチ草の駆除も行われたが、完全に絶滅させることはできなかった。しかし、セイタカアワダチ草そのものが馴化して、既存のススキなどと共生するようになったという。それに伴い、セイタカアワダチ草はその背丈も低くなり、他の植物を枯らしてしまうようなこともなくなったという(『人生の目的』幻冬舎文庫版188~198頁)。外来のものが、年月を経てその地になじむ過程を五木は植物に見出している。
 松本健一は、玄界灘の小島を見ながら、「あぁ、このように白い砂浜をもち、緑の林をもった島の風景がわたしの死後もずっと続くなら、わたしの魂はこの風景のもとに安んじて帰ってくるだろうな、とおもったのである」と言い、海岸線に「民族の心象」、「わが民族のふるさと」を求めた(『海岸線の歴史』202頁)。そして、テトラポットによって砂浜が失われた九十九里浜や、大型の船やタンカーが入るために再開発された、産業用の「人口の港湾」をあさましいとみなすのである(同204~206頁)。
 松本は『海岸線の歴史』で、志賀が『日本風景論』で火山を称え、海や海岸線をあまり取り上げていないことを批判する(201頁)。対照をなすかのようにも見える両者であるが、志賀が「小利小功に汲々とし」、「名木」、「神木」を斬り、「道祖神」の石碣を橋に使うような態度は、「歴史観念の聯合を破壊」すると批判した(岩波文庫版321頁)のに対し、松本は景観を考慮しないコンクリートの建造物を、「美しい調和をぶち壊す」「日本人が伝統的に培ってきた美意識や精神の豊かさをぶち壊す」「高度経済成長以降、特にバブル期の日本を象徴する風景」であると批判している(『海岸線の歴史』247頁)。両者とも風景に託しているのは「文化」であり、経済が文化の妨げになる光景を嫌うのである。そして、二人とも将来の日本人の感性の豊かさのために、景観を保護すべしと訴えている。
 ところで、松本健一は白砂青松の海岸線に日本のアイデンティティを見たわけだが、柳田国男が白砂青松の光景を批判していることに触れていない。柳田は海の歌、海の絵といえば松の木を点出しようとすることを「古臭い行平式」であると非難し、白砂青松という類の先入主を離れて、自在に海の美を説く必要があるという。海の風景は塩を焼く等で著しい歴史の変遷があるが、以前のほうが美しかった。今のような経済生活が続く限り、遅かれ早かれどこの海も似たような外貌になって、文学の単調を非難し得なくなるという(「雪国の春」『柳田国男全集 2』ちくま文庫版75~76頁)。私は小賢しい知識を振り回して松本を非難したいのではない。松本も必ずしも白砂青松の海岸線であればよいという言い草をしているわけではないからだ。それよりも柳田が経済的理由のために一様になっていく海岸線を見て文学的単調が起こるのではないかと嘆いたように、松本が白砂青松すらなくなってコンクリート化されていく海岸線に「化石となった物語」しか持てなくなる民族的アイデンティティの危機を感じた(『海岸線の歴史』235頁)ことに相似形を感じ、共感したためである。経済や軍事は自然を軽視し、破壊して国を守り、発展させていくためだという。経済や軍事が必要なのはもっともなことである。だがそういったものに常に置き去りにされる自然、そして文学を軽視してはならないのではないか。
 自然と人間の間には社会が介在している。自然と人間と社会は三者それぞれ影響を与え合って生きている。自然を軽視するのは社会や人間を軽視するのと同じである。目先の功利によって自然を破壊するとき、そこには社会や人間も忘れ去られており、人はただ利益に使われる存在でしかなくなる。
 経済、あるいは軍事などもそうであろうが、そういった政府の自己防衛、自己発展作用は時に文化や民族の誇りをも破壊することがある。なるほど文化や民族の誇りが経済力や軍事力なしに維持できると思うのは、あまりに甘い考えと言わなければならないだろう。だがそれは、経済や軍事による文化の破壊を、見て見ぬふりをする理由にはならない。土地土地の文物も一様化し、自然の心象風景も開発しつくされ、人間の文化や心の豊かさが失われた果てに、いかなる愛国心が描けるだろうか。それは経済力や軍事力を誇るだけのつまらないお国自慢の類ではないだろうか。我々が後世に伝えるべき物語は、このような陳腐化した物語でよいのだろうか。あるいは、すでに失われ化石化した物語を、見て見ぬふりをしてさもあるかのように伝え続けるのだろうか。
 政局に近づきすぎると、思想は堕落する。日本人の美意識を、コンクリートが無神経にぶち壊すさまを見ても、それでも経済成長や外国の脅威があるからやむを得ないと思うのであれば、その人は政局に近づきすぎている。
 確かに国際政治は結局力と力の衝突である。しかし美意識は我々の実存の問題であり、何を誇りに生き、何を次代に残すかということである。伝統と国益は時に衝突する。伝統、あるいは国粋はかけがえのないものだ。我々はこのかけがえのないものを失って、他に何を守るというのだろうか。
 故郷とは単に思い出深いといった正の印象ばかり抱いている場所ではない。泥臭くて、もう帰りたくない、飽き飽きするような嫌気すら抱える場所でもある。それは自分自身に対する印象とも似ている。自己への嫌悪感と似たような感覚で故郷に嫌悪感を抱く。ただ、その嫌悪感を一生切り離せないと達観しているのである。その意味で、今の日本人には「故郷」があるだろうか。たまらなく愛しく、それでいて許しがたい故郷。そんなものは近代画一主義のもと、跡形もなく吹き飛んでしまったのではないか。欧州には今でもコンビニエンスストアの進出を制限し、店舗の深夜営業を禁じている所があるという。地元の商店街を守るためである。故郷を守る気もなく、安直に自由競争経済を肯定しているものにはその論理は想像できまい。自由競争によって、耐え難い故郷の喪失と、どこに行っても同じ風景の悪しき画一化がなされたのである。そのことへの痛みや憤りを持っているだろうか。自由競争社会は故郷に根ざした真の民族主義を破壊してしまったのだ。もしくは、今でも電灯を嫌い、ろうそくの灯りの中で生活するイギリスの伝統主義者をせめて嗤わないでいただきたい。
 それは世界単位でも変わらない。いまやアフリカにも高層ビルが立ち並ぶ時代になってしまった。「これが日本だ」と世界に発信しようとしても、思い浮かぶのは高層ビルとマクドナルドと…。どこの国でもあるものばかりになってしまった。もはや故郷は故郷性を失いつつあるのである。それに対して、鋭敏に感性を張り巡らせている日本人が何人いるのだろうか。
 故郷の喪失は世界大で見ても民族主義の喪失なのである。地球規模の画一化が米国の手によって異常なまでに進んでいる今日、民族主義は危機に瀕している。徳富蘇峰は「俺の恋人誰かと憶ふ 神の造った日本国」と詠んだ。そうした熱烈な民族主義は、もはや出現しないのだろうか。もっとも、そうした危機状況への反動として、各国で民族主義が強調され始められたということもできなくもない。移民への反発、高失業率がそれに拍車をかけていることは確かである。日本に限らず、各国の「極右」団体は移民の排斥を主張しているのもそのためである。その排斥された移民が、原理主義と結びつきテロ行為に走るという哀しい現実もある。しかしそうした民族主義は自然と結びつくものではなく、単に血縁でだけ結びつく関係である。あまりにも混淆した世界の中で「血」にしかアイデンティティを見出せないのは悲痛な事態と言わざるを得ない。

結論のようなもの

 志賀が火山に見出し、松本が海岸線に見出した日本の美。その他さまざまな人間が日本の国土、地理、風景に美を見出してきた。そこに私のようなものが付け加える余地などないのだが、ふと感想のように思うのは、日本の雑草についてである。私は植物に精通しているわけではないが、日本は多湿であり、四季も鮮やかであることで様々な雑草が生育しているということくらいは知っている。
 「雑草という草はない。必ず名前がある」という言葉もあるが、あえて私は「雑草」と呼びたい。名など知られぬ草木であっても、そこには生きる場所があるということだからだ。誰も気づかないような場所に咲く花であっても、片隅で懸命に生きる花を摘まない世であってほしい。現代ではどこもかしこもまるで花壇のように、「名のある」草しか生育を許さず、名のない雑草の生きる場所を奪ってきた。しかしそうした「名のある」草しか生きられない世界はきっと生き苦しいに違いない。私が都市部に住むからそう思うのだろうか。それとも、私が雑草を見つける余裕がないだけで、雑草は私の見えないどこかでちゃんと息づいているのだろうか。そんな気もする。
 気づけば「小利」に使役せられ、路傍の草花に心動かされるような日常を失っている。そんな日常を失ったとき、私の生命力の強さも失われ、生きるひたむきさを忘れ、ただこなすべきことをこなすことにばかり頭がいっぱいになっている。他人に怒り、絶望し、嘆くばかりで、己の弱さに目をつぶっている。それを文明のせいにするのは不遜な態度なのかもしれない。それでも、この世界ですれ違う人々に路傍の草花を眺める余裕があるようには見えない。そんな余裕があるならもっと働け、もっと稼げ、そうやって文明は発展してきた。人々の人生を、自然を、社会を、文学を置き去りにして。
 生きるのはしんどいことではあり、世間はせつなさに満ち溢れている。しかしどこに行こうとも生きられる。道端に雑草が生えている限り。

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望―

・伝統と信仰

・皇室中心の政治論

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・秩序とは何か

・世界文明のために

・武士と商人

 やはりどうしても文献を多く参照するものは時間がかかる。引用するのは大変だし、そもそも文献を買い集めるのだって資金的余裕からつくらなければならない。
 愚痴めいたことを書いてしまったが、要するに反資本主義的内容ばかりになってしまっているブログ原稿を反省している。引用が少ないために書きやすいのだ。反資本主義もまた私の考えではあるのだが、そればかりに偏るのは問題だと思っているがなかなか改められない。次の投稿も、今の所ほとんどできていない「秩序とは何か」「武士と商人」あたりのほうが先に出来上がってしまうような気がする。