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尾張藩における国学の浸透─岸野俊彦『幕藩制社会における国学』より

 
 岸野俊彦氏は、『幕藩制社会における国学』(校倉書房、平成十年五月)に基づいて、尾張藩における国学浸透の過程を追う。
 天明(一七八一~一七八九年)・寛政期(一七八九~一八〇一年)の状況について、岸野氏は次のように書いている。
 〈尾張地域の国学は、安永期に田中道麿が名古屋桜天神で国学を開講し、やがて道麿が宣長に入門すると、急速に宣長学が名古屋を中心とした尾張地域に浸透する。天明・寛政期、宣長在世中の門人は、約九十名を数え、名古屋の書肆永楽屋東四郎での『古事記伝』の出版をはじめとした種々の出版を行い、本居国学の重要な基盤を構成していった〉
 では、尾張藩における国学の担い手はどのような層であったのか。
 岸野氏は、藩の国奉行所・町奉行所の役人、名古屋の商人、尾張農村部の豪農・医者・僧侶らであったと指摘している。
 商人の場合には、伝統的特権商人を追い落とし、新たに藩と結びつきつつあった新興商人であり、横井千秋がその中心にいた。
 宣長は、享和元(一八〇一)年に亡くなるが、その後、国学はさらに尾張藩に浸透していく。岸野氏は次のように指摘する。
 〈宣長死後、本居春庭・大平門人は約百二十人、名古屋の書肆の出自で大平の養子となった本居内遠の門人約百三十人と、化政期・天保期をつうじて、国学門人は拡大していった。この外、名古屋を基盤とした、鈴木朖・植松有信・植松茂岳らの門人を合わせれば、嘉永・安政期には数百人の規模になっていた。……国学が、量的に拡大したばかりでなく、尾張藩の上級藩士や、天明期以降、新たに藩と結びつき、特権化した御用商人を基盤とし、藩校明倫堂を舞台に藩論の一方の重要な構成要素となった〉

尾張藩国学派・横井千秋に対する宣長の感謝

 尾張藩国学派の先駆者は田中道麿であり、それを継いだのが横井千秋である。彼は道麿が没した翌年の天明五(一七八五)年に、宣長に入門した。
 漢学主流の尾張藩の藩政思想を改革せんとして、国学を導入しようとした。千秋は、天明七(一七八七)年には、建言書『白真弓』を藩に提出、国学館を建てて、宣長を藩に迎えるよう献策している。ただし、千秋の試みは成功しなかった。とはいえ、千秋の思想が尾張藩内の國體派に影響を与えた可能性はある。
 いずれにせよ、国学の発展における千秋の功績は、宣長の『古事記伝』刊行を支援したことにある。最初の二帙の経費を出資したのは千秋である。また、宣長に『神代正語』(かみよのまさごと)、『古今集遠鏡』を執筆するよう宣長に依頼したのも千秋であった。
 平成三十一年二月、本居宣長記念館を訪れ、吉田悦之館長から千秋についてご教示いただいた。吉田館長は、宣長に宛てた千秋の書簡が残されていたいのは、尾張藩の藩政改革を改革しようとした千秋の思いの強さのあまり、記録するのを憚られたのではないかとの推察を語ってくれた。
 一方、宣長から千秋に宛てた書簡は残されている。以下の書簡は同記念館に所蔵されているもので、『古事記伝』の最初の五冊が刷り上がったの寛政二(一七九〇)年九月に、宣長が千秋に宛てた書簡である。届いた本を手にした宣長の礼状であり、その喜びを表現されている。
 「記伝開本、此節出来仕候ニ付、兼々申上候通、清浄本三帙外ニ貳帙被下置、千万忝仕合ニ奉存候、右清浄本三帙ハ、当地神社へ方々奉納仕、別而大慶不少、忝奉存候……御厚志ニ依而、一帙成就仕、板本相弘メ中候段、返々生涯之大悦難申尽、忝奉存候」
 この書簡について、『新版 本居宣長の不思議』は、「神社に奉納する清浄本(特装本)が届いたこと。また遷宮の祝賀歌会に参加するため神宮の林綺文庫を訪れたら、奉納本として名前が記されていた事を報告する。その後には、千秋からもらった知多郡の菜種や、むべについても礼と報告が書かれていて、学問だけに留まらない師弟の交わりがうかがえる」と解説している。