「学問について」カテゴリーアーカイブ

学問の道と孤独に耐えること

学問は出世や生活のためにするものではない。己を磨くためにするものである。家族や世間から「もうやめろ」と言われて学問をやめるならば、その人はやはり出世や生活のために学問をしている人である。ある意味そういう人はまっとうな人だ。そういう人が多数でなければ社会が回っていかないことも確かである。しかし、「あなたが死んだらどうするの」と説教されて、それでも学問をやめない変わった人だけが知者たる資格がある。

そうした知者に焦がれる人間であっても、難しいのは人間関係である。

学問をするからには、現代の日本、将来の日本に何かを遺したいという大欲を持つ。それには、他者と積極的に交流しなくてはならない。ひとりでは何も変えることができない。しかしそうした人間関係が自らの学問を縛ることがある。誰かと群れて、何かを成した気持ちになって、自分を慰めてしまう。

亀井勝一郎は「人間は真理より世評を恐れる。ほんたうに、いつでも真理を恐れるようになったら偉い。」と言った(『亀井勝一郎全集』二巻442頁)。意見が異なる人や対立する人の悪評を恐れないのはむしろ易しい。難しいのは自らを良く評価していただいている人の意見に寄り添わないようにすることである。これを言うとあの人は不快に思うかもしれない。敬愛しているからこそ、そういうことが気になって仕方なくなる。

誰かと群れなければ人は何も成すことはできない。しかし、最後は一人で自らの考えを練り上げらなければならない。勉強会で切磋琢磨するのはよい。しかしそれでも学問をする者は独りでいることに耐えなければならない。独りで虚心になって先人の言葉に向き合う時間が自らの学問の土台になる。

頭山満の有名な言葉に、「太陽の光が輝けば蛍の光は消えてしまう 火種が強ければ火は燃え上がる 一人でいても寂しくない人間になれ」というものがある。独りでいても寂しくない人間。群れても己を失わず、恥じることがない。それにはやはり勉強量が必要だ。自らの確信となるまで深く学ばなければならない。

学問と生活

 学問は出世や生活のためにするものではない。己を磨くためにするものである。このことは深い真理であるが、口で言う以上に行うことは難しい。

 親などの家族は学問を功利的動機のために行うことを期待する。学問は給料の良い会社等に入ってもらうためのものであって、決してそれ以上ではない。家族は、己を錬磨するような学問を行うことを期待しないし、あらゆる手段でそれを行わないよう妨害するものである。さらには、人が学問しているにもかかわらずカネを稼げない存在だとわかった瞬間、人をごくつぶしとしか見なさなくなる。「浮世の沙汰も金次第」と言うが、家族の縁もカネ次第である。嘘だと思うなら無職になってみるがよい。家族がどういう態度を取るか、わかるはずだ。「家族なのだから助けてくれるはずだ」と薄甘い期待を抱くのは、大きな間違いであったことに気付くはずだ。

 友人は名利を求めて派閥を作ろうとする。コネを作ってその縁で何か自分に有利な方向に動いてもらおうと期待する。これまた人は利用価値や肩書で判定されがちであり、そういうものが無くなった人間には誰も見向きもしない。

 いささか悲観的なことを書いてしまったが、人間にはそういう冷酷薄情な面があり、そこから逃れるのはとても難しいということだ。
 おそらく無職になってしまった人に対して、赤の他人のほうがごくつぶし呼ばわりはしないだろう。腹の底でどう思っていようが、他人に対してあえて波風を立てるような人は多くないだろう。むしろ家族という、一生無関係ではいないという親愛の情が、かえって人を傷つける言葉を放つきっかけになってしまう場合もある。心配、不安な感情が自分と違うことだと突き放してみることを許さないのである。
 友人も同じである。コネを期待すると言っても、おそらくほとんどの人は完全に利害関係だけを念頭にコネを求めたりはしない。利害の計算以前に何らかの理由で親しみを抱いている人を選んだうえで、つながりを求めていくはずだ。あくまでコネクションの構築は二の次であったはずが、いつしか自らの欲望に取り込まれてしまう。
 人の心の弱さが、利害を超えていたはずの感情を利害関係に引き戻すのである。

 亀井勝一郎は「人間は真理より世評を恐れる。ほんたうに、いつでも真理を恐れるようになったら偉い。」と言った(『亀井勝一郎全集』二巻442頁)。悪評を恐れないのはむしろ易しい。難しいのは自らを良く評価していただいている人の意見に寄り添わないようにすることである。つい筆を曲げて、読者の意見に寄り添ってしまう。嘘をつこうと思って寄り添ってしまうのではない。自らが読者の側に引きずられてしまうのである。それは悪影響ばかりではない。それによって世界が広がる場合の方が多い。それでも、いつか耳障りのいいことばかり言っていられなくなる。
 それだけではない。なんだかんだ言っても家族や友人はかけがえのないものである。しかし、かけがえのない存在だからこそ、それらの意見に引きずられないことも難しくなっていく。

 人間社会に渦巻くのは悪意ばかりではない。だが善意ならばすべてがうまくいくとも限らないのだ。そして人の善意が学問の励みになる場合もあるが、妨げになる場合もある。人が生きるということが既に真理から遠のくきっかけにすらなる。

※3月7日少々追記致しました。

本を読むとき、学びの中に発見がある時

 清水幾太郎は『本はどう読むか』の中で、「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである」(114頁)と述べている。私もそう思う。

 読むということは単純に情報を仕入れるということではない。著者と語り合い、感性で交流するということである。したがって、自らが考えていたことそのものを揺さぶる力を持つ。著者の観念の流れを追体験するということである。

 本は手あたり次第読むべきである。乱読の弊害など信じない。「「乱読」は私の人生の一部で、人生の一部は、機械の部品のように不都合だから取りかえるというような簡単なものではない。「乱読」の弊害などというものはなく、ただ、そのたのしみがあるのです」(加藤周一『読書論』岩波現代文庫版まえがきⅤ頁)。

 学問的発見は、人間が努力して見つけるといった類のものではない。もうすでにそこにあるはずなのに気づかれないでいたものを見つけていく作業だ。学問は砂金掬いとか、考古学の遺跡発掘作業に近い。学問的発見のためには、論理より情緒とか感性が必要だ。学問的発見は、世間的に見ても初めて知ると言ったものもあるが、解釈の裏返しもある。今までこう解釈されてきたけど、実はこうだったのではないか。そう思うのは決して論理ではない。読書の過程で、著者が自分に語り掛けてくるのである。その言葉を、そのまま文字にしているに過ぎない。

 世界を一色に塗りつぶすことはできない。ありとあらゆる過去があり、著者と対話することで新たな小さな発見が生み出され続ける。利害関係にばかり目が行くと、世界は一様になれそうな気がするが、人間は利害関係だけで動いているわけではない。新たな発見は人類全体にとっても発見であるかどうかはわからない。でもそれはあなたにとってかけがえのないものだ。あなたの心に芯を一本入れるものだ。そんな発見が随所で生み出されれば、世界は一様でいられるはずがないではないか。