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折本龍則「新しい国家主義の運動を起こそう!②津久井龍雄の権藤成卿批判」(『維新と興亜』第2号)

国家と社会の反目
 前号では、明治草創期において矛盾なく調和していた「国家」と「社会」が次第に乖離をきたし、従来の国家主義運動が行き詰まりに直面したなかで、津久井龍雄によるような、新たな国家主義運動が出てきたことを述べた。すなわち、かつてにおいては、尊皇を蝶番として国権と民権は結びついていたが、やがてマルクス社会主義者によって、国家は資本と結託して人民を搾取抑圧する権力装置と見做され、こうした傾向は、治安維持法で「国体の変革」と「私有財産制度の否認」が結びつけられたことで決定的になった。国家は資本の軍門に降ったのである。
 また対外的にも、日露戦争に勝利したころまでは、我が国の国権伸張は、欧米に侵略支配されたアジアの解放と結びついていたが、やがて我が国が大陸での権益を獲得するにつれ、それは欧米帝国主義への追従、アジアの資本主義的近代化の様相を強めていった。かくして国家主義と社会主義は相いれざるものとされ、旧来の国家主義運動は、国家の内外において行き詰まりの様相を呈していた。こうしたなかで、津久井龍雄は、高畠素之の門下として、社会主義インターナショナリズムと、国家と結託した資本主義(現代でいうネオリベラリズム)の双方を排撃し、天皇中心政治の旗印のもとに新しい国家主義を標榜して、国家と社会の総合止揚を図ったのである。

権藤成卿の農本自治主義
 こうした津久井の国家社会主義思想との対比で面白いのが権藤成卿の農本自治思想である。権藤は、農本主義の思想家であり、5・15事件など昭和維新運動にも少なからぬ影響を与えた人物である。権藤の思想と人物については、筆者も執筆者の一人に名を連ねた『権藤成卿の君民共治論』(令和元年、展転社)をご参照頂きたい。
権藤成卿
 権藤は、薩長の有司専制による明治国家体制はプロシア式の官治制度であると批判し、これに対置される理想として、農村を中心とした社稷自治を唱えた。権藤にとって「社稷」とは、農を中心とした国民の衣食住であり、「宗廟」としての国家は、社稷を守るためにあるのであって、その逆ではない。
 彼は『君民共治論』で曰く、〈日本は国初以来皇室と国民と共に社稷を尊奉し、自然而治の成俗を保持漸化させ、継体朝に至りさらにこれを具体的に「宗廟を奉じて社稷を危うすることを獲んや」と宣命されたのである。ほんとこれ社稷民人を安泰ならしむるがために、宗廟朝廷を尊奉するのである。それが宗廟朝廷の尊奉は慴服となり、阿附となり、臧官涜吏に屈従して功利を競うようになれば、たちまち社稷民人の生存は危殆に陥いる。当時千秋万歳を叫び続けて国を滅ぼした司馬晋もあれば百済もあった。由来、宗廟朝廷を尊奉するのは、臣民としてもとより当然のことである。しかもその宗廟朝廷の鞏固なる基礎は社稷民人衣食住の安定にある。いわゆる衣食足りて礼節を知るということにあれば、宗廟朝廷の威服のみを拡充して社稷民人を馭御誅圧すれば、その国の根底基礎はたちまちにして決壊する。ゆえに孟子はこれを「社稷を重しとなし、君を軽しとなす」と喝破しておる。この深意は各人の考慮思索をもって会得すべきもので、一々これを引証的に講述することは宜しく慎まねばならぬ。要は我社稷体統の国性をプロシア式国家学説に附会せし官僚学者の謬妄を理解さるれば事自ら分明である。〉
 権藤によると、我が国の建国以来の国性は、社稷自治の体統にこそあり、社稷は国家の成立以前から自律的な共同体として成立していた。したがって、国家即ち宗廟は、社稷を補完する制度としての消極的二義的な役割しか認められていない。曰く「凡そ国の統治には、古来二種の方針がある。其一は生民の自治に任せ、王者は唯だ儀範を示して之に善き感化を与うるに留むるのである。其二は一切の事を王者自ら取り仕切って、万機を綜理するのである。前者を自治主義と名づけ得べくんば後者は国家主義と名づけ得べきものなのである。我肇国の趣旨は全く前者の主義によったもので、東洋古代の聖賢の理想は総て此に在った。」
権藤が社稷自治の体統の歴史を記した書に『君民共治』の名を冠したのは、大化二年の詔書に
 「それ天地の間に君となり万民を宰る者は独制すべからず。すべからく輔翼を仮るべし。これをもって我皇祖卿等が祖考と共治す。朕また神明の保祐により卿等と共治せむと欲す」(傍点筆者)とあるのに基づき、この詔書に示された大化の改新の理念こそが明治維新の本来的な理想であったにも関わらず、薩長藩閥による明治国家は官治主義的な専制によって社稷自治を破壊し、明治維新の理想から背馳したと権藤は断じるのである。 続きを読む 折本龍則「新しい国家主義の運動を起こそう!②津久井龍雄の権藤成卿批判」(『維新と興亜』第2号)

金子宗徳「金子彌平―興亜の先駆者④」(『維新と興亜』第2号)

シティ・オブ・トウキョー号
 シティ・オブ・トウキョー号に乗り込んだ彌平(二十九歳)の傍らには、弟・謹三(十八歳)の姿もあった。謹三は元治元(一八六五)年十月十日生まれ。明治九年(一八七六)六月、東北地方御巡幸中の明治天皇が花巻に立ち寄られた折、里川口金城小学校を代表して天覧授業に出席する栄に浴する〔『花巻市史(近代編)』102~105頁〕など、幼い時から優秀であったようだ。その後、彌平を頼って上京し、明治十五年十二月五日付で兄と同じく慶應義塾に入社した〔『慶應義塾入社帳(第二巻)』537頁〕謹三は、米国への留学を志したのだろう。
 シティ・オブ・トウキョー号には、彌平・謹三兄弟のほか、フランス・リヨンに総領事として赴任する藤島正健のほか、大倉喜八郎や濱口梧陵など数名の日本人が乗船していた。
越後国蒲原郡出身の大倉(四十六歳)は、大倉土木組(現・大成建設)、大倉火災海上保険(現・あいおいニッセイ同和損害保険)、日清豆粕製造(現・日清オイリオ)、札幌麦酒(現・サッポロビール)などを創業し、大倉財閥を築き上げたことで知られる。また、自邸の敷地内に大倉商業学校(後に大倉高等商業学校)や大倉集古館を設けた。このうち同校は大東亜戦争における空襲で被災して国分寺に移転し、敗戦後の学制改革で東京経済大学となる。現在、虎ノ門の旧跡地にはホテルオークラが建つ。
 彌平との関わりで特筆すべきは濱口(六十四歳)である。紀伊国有田郡出身の濱口は安政南海地震における「稲むらの火」の逸話で知られるが、ヤマサ醤油の前身である濱口儀兵衛家の当主として醤油醸造業を行う事業家、和歌山県会の初代議長を務める政治家としての一面も有する人物だ。
 彌平が濱口と同船したのは偶然でなく、示し合わせてのことであった。後年、彌平は次のように振り返っている。
濱口梧陵

  明治十六年私が外国へ行く少し前の事でした。京橋區金六町の自宅に居りますと、福澤先生から御手紙で、直ぐに來て呉れとの事でありましたから、早速お宅へ參上したのであります。先生がお前は今度米國へ行くさうだが、もう定まつたかと云はれるので、決定した旨を申し上げると、それなら相談したい事がある。實は自分の友人の濱口君も米國へ行く計畫をして居るのだがと云つて、種々濱口さんに關する話を聞いたのです。濱口さんの事は此の時初めて聞いたのですが、若い時分の事業、官歴、それから栖原角兵衛を助けた話なども詳しく聞いて、隠れたる偉人だと思ひました。
  此の時分濱口さんの渡米するに就て、陸奥宗光も一緒に行かうとの話があつたやうですが、先生は君が行くなら陸奥の方は斷つて君に同行して貰ひたいといふのでした。何でも陸奥さんは私共よりも一船さきに出發された樣に覺えています。
〔杉村『濱口梧陵傳』241頁〕 続きを読む 金子宗徳「金子彌平―興亜の先駆者④」(『維新と興亜』第2号)

浦辺登「歴史から消された久留米藩難事件」(『維新と興亜』第2号)

はじめに
 日本史年表では、明治七年(一八七四)の「佐賀の乱」。明治九年(一八七六)の「熊本神風連の乱」「萩の乱」「秋月の乱」。明治十年(一八七七)の「西南の役(西南戦争)」の文字を見て取ることができる。これらは、明治新政府に不満を抱く旧士族等の反乱として片付けられる。しかし、不思議なことに、明治四年(一八七一)の「久留米藩難事件」の記述はない。
 一般に、この「久留米藩難事件」は長州の大楽源太郎が久留米藩の同志を頼り、その大楽を久留米藩士が殺害した事件と見られる。実際に、大楽が久留米藩に逃げ、殺害されたことが引き金になっているが、当時の状況が詳細に検証された風はない。
 そこで、この久留米藩難事件の流れを辿ることで、事件の真相を検証してみたい。そこから、明治新政府が歴史から抹消した真実が浮かび上がるのではと考えている。この「久留米藩難事件」においては、大楽源太郎を殺害した川島澄之介が『久留米藩難記』という
一書を遺しており、これを中心に読み解いていきたい。
 もしかして、この「久留米藩難事件」とは、あの真木和泉守の意思を尊重しての、新政府を糺す事件ではなかったかとさえ思える。ゆえに、新政府は、歴史から抹消してしまったのではとさえ、訝りたくなる。
 回りくどい話の展開になると思うが、事件の中心人物である川島澄之介の人物像を知るためにも、お付き合いいただきたい。

一、「光の道」
 北部九州の神社には、参道が直接、海に繋がっているところが多い。これは、古くから北部九州が外海と結びついていた証拠と考える。福岡県福津市にある宮地嶽神社もその一つだ。その宮地嶽神社では、二月と十月、ダイナミックな「光の道」が出現するが、自然が織りなす雄大な光景に、人々は声を失う。
参道からの光の道
 その宮地嶽神社の日常は、どこにでもある神社仏閣と何ら変わりがない。参道には土産物店が並び、名物の「松ヶ枝餅」(太宰府天満宮の「梅が枝餅」に似ている)を焼く香ばしさに包まれる。ゆるゆると、その石畳を進むと、行く手を阻むかのように石段がそそり立つ。脇には「女坂」と呼ばれる坂道が備わっているが、あえて、「光の道」を体感するために石段を昇ってみたい。 続きを読む 浦辺登「歴史から消された久留米藩難事件」(『維新と興亜』第2号)

【巻頭言】グローバリズム幻想を打破し、興亜の道を目指せ(『維新と興亜』第2号)

■新型コロナウィルスの拡大が現代に突き付けた課題
 新型コロナウィルスの感染拡大が止まらない。本稿執筆時点(令和二年三月二十四日)で一七四か国で三十六万人以上が感染、一万六千人以上の人が亡くなっている。今回の新型コロナウィルスは、現時点ではスペイン風邪やコレラ、ペスト、天然痘など、世界史上繰り返されてきた人口構成が変わってしまうほどの凶悪な致死率には至っていない。しかし全世界に感染が一挙に拡大し、移動自粛ムードにより世界経済全体の後退を招いているという点で、前記の感染症とは異なる事態を招いている。これほどまでに世界中で感染が広まった背景には、ヒト・モノ・カネを自由に行き来することを無条件に肯定してきたグローバリズムの弊害がある。

■グローバリズムの失敗
 通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。グローバル化の結果は惨憺たる失敗に終わっているというべきである。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
 いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは一%にしか入らず、九十九%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。グローバル化によって株価やGDPが上がったとしても、それは富裕層、大企業の懐に入るばかりで末端の庶民には行きわたらないのである。経済成長が即国民全員の豊かさとなる時代は終わったのだ。
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小野寺崇良「「草とる民」の記 みくに奉仕団と皇居奉仕 ①」(『維新と興亜』第3号)

皇居勤労奉仕の発祥
 「皇居勤労奉仕」という行事がある。
 説明すべくもなかろうが、有志が皇居内の清掃作業などに従事するものである。現在は連続した四日間と定式化され、年間数千から数万人の規模で参加者がいるという。
 皇居勤労奉仕は,昭和二十年五月に空襲で焼失した宮殿の焼け跡を整理するため,同年十二月に宮城県内の有志が勤労奉仕を申し出たことが始まりであり,それ以降,今日まで奉仕を希望する方々をお受けしています。
宮内庁Hpにもこのように記される通り、皇居勤労奉仕の発祥が宮城県の人々であったとは、よく知られている所である。だが、昨年の今上陛下御即位に関連した勤労奉仕の人気過熱ぶりに相反して、「発祥」の物語は見過ごされてきたように思う。また、「勤労奉仕」の一面のみを見ており、彼らの考えにまで立ち入っていないものも多い。
 「宮城県内の有志」たちの、同郷の後輩として、微力ながら先輩方の事績を書き記しておきたい。

「スルスル」とあがった米国旗
 七十五年前、日本は戦争に敗れた。
 ミズーリ艦上での降伏文書調印から六日後、昭和二十年九月八日にマッカーサー一行は東京へ進駐する。八月十七日より、日本では東久邇宮内閣が発足していた。今回の主役の一人である長谷川峻は、首相と共に官邸にいた。
 「長谷川君、こちらへ来てごらん」と外を指さす首相に声をかけられた長谷川は、窓を覗き込んだ。
…指さされたのは、青い屋根が一部焼けおちたアメリカ大使館の白い建物であった。時あたかもその前庭では、数人の白い制服をきたアメリカ兵が、軍楽隊の吹奏にあわせて、国旗を掲揚しようとしていた。わたし達の見ているうちに、国旗はスルスルとあがって行ったのだ。
 マッカーサーが米国大使館に入ったこの日、占領国米国の旗が初めて東京に翻った。
 明治四十五年生まれの長谷川は、この内閣で国務大臣などを兼務した緒方竹虎の秘書官であった。中野正剛の書生として過ごしながら 早稲田大学へ進学、卒業後は中野の招きで九州日報に入り、編集局長を務めていた。
 長谷川は、敗戦国日本の首相と共に、いとも容易くあがってゆく米国旗を眺めていた。
 東久邇宮首相は国民の声を広く聞こうと、手紙での意見を募集する。一日平均数百通もの投書の整理と、首相への報告役を務めたのが長谷川だった。彼の胸中には、敗戦を契機に、反射的に「反天皇」へと転換してゆく国民の姿が印象付けられていた。
 きのうまで東条万万歳の狂騒曲が、今日からは国をのろい、皇室さえうらむ方向に転換するのをみて、連合軍は、世界は、なんと日本の国民性を評価するだろうか。(略)国のいのちといわれる皇室が目のあたり式微しているときに、涙をそそがざる国民の反射作用は、戦勝国民といえども、敗戦民族の卑屈さとしてわらうだろう。

「みくに奉仕団」の誕生
 東久邇宮内閣が発足から二か月足らずの昭和二十年十月五日に総辞職すると、長谷川は郷里・宮城県栗原郡の若柳町に帰った。
 後に長谷川も参加することとなる「みくに奉仕団」発祥の地である、栗原郡(現栗原市)は、宮城県北西部に位置している。内陸であり岩手県と隣接する地域だ。海産物がない分、現在でも多くの農産物が名物となっている地域である。
 そのころ、長谷川の十六歳年配で、もう一人の主役である鈴木徳一は、具体的な行動に移っていた。青年団運動の幹部として活動していた彼は、終戦直後の皇居前を訪ねる。
土堤には雑草がぼうぼうと生え、お堀の水は古池のやうに、よどんで、青松越しに拝した神々しい宮殿の緑青色の瓦も爆弾で炎上して、穴のあいたやうに、青い空だけが光つてゐた。
 占領軍のMPが立ち、荒れ果てた皇居を見た鈴木は、愕然としながら、郷里へと帰る。
 「勤労奉仕の発端は、宮城県の青年が皇居の瓦礫撤去をしたことから」と一般に言われているが、彼らの当初の予定は瓦礫撤去ではなかった。
 鈴木は、「青年たちによる草刈」を構想する。大正年間、明治神宮外苑の造園にあたって、地方の青年たちの奉仕が大きな力となったことが、鈴木の脳裏には浮かんでいた。「全く生活の目標といふものを失つてしまつた青年たちに、少なくとも何か精神的な基盤なり拠りどころを与へるだらう…といふ切なる願ひ」もあったと後に記している。
さらに栗原郡は、戦時中に行われていた、堆肥増産促進のための草刈コンクールで、全国優勝するほどの地域。草刈りならば、彼らも腕に自信があった。
 鈴木は、隣村の鈴木惣一志波姫村村長、同村に塾を開いていた菅原兵治らと共に奉仕団結成を議論し、激励を受けたうえで、愈々実行に移る。
 このタイミングで、名称は「みくに奉仕団」と決まった。「みくに」の名には、「御国」「皇国」などの漢字があてられる案もあったが、時局に留意し、且つ分かりやすさを優先した形となった。
 このころ、東京から帰ってきた長谷川も合流する。
彼ら奉仕団を記録したエピソードとして著名な、侍従次長の木下道雄の文章には、「(筆者注:奉仕当日に)皇居の坂下門の門外に、何の前ぶれもなく、突然六十人ばかりの青年の一群が現れた」(「皇居勤労奉仕発端の物語」)と記している。だが、実際には、その前月である十一月には鈴木と長谷川が宮内庁を訪ねて許可を得ており、段取りは整えていた。
 この時の願い出も「外苑の草を刈らしてほしい」というもの。ここでは、筧素彦総務課長が応対した。父は、東京帝大で憲法学などを講じた、筧克彦である。
 許可を得ることができた後は、団員集めに移る。
長谷川の郷土若柳町にて、折しも開催されていた青年学校長会議で、鈴木らは教員たちに参加青年の推薦を依頼するも、だれも口を開こうとしなかった。奉安殿の破壊、教科書修正などが当然に実行されていた当時の社会環境は、「皇居奉仕」などと言い出せる空気ではなかったのだ。
 だが数日後、「是非この青年たちを…」と申し込みが相次ぐ。鈴木の回想によれば「その中の一人は、教師を追はれてもいいから参加させてくれ…と血書まで副えて申込んで来た」という。
また、長谷川によれば、このような申し出もあった。
 さらにある老人は、もう日本には武器もない、自分の倅も軍人として行くことは出来ない、平和の日本において、宮城に詣でることが悪いとてお叱をうけるむきがあるならば、それこそ平和時代の戦死、陛下からおほめの言葉なき殊勲です、骨はこの老人が拾いますから是非おともさせて頂きたいと申出るものさえあった(傍点部引用者)
結局、志願者は予定していた六十名を優に超える。
 しかし、ここで喜んでもいられない。前月には徳田球一ら政治犯の釈放、同月には財閥解体に向けて政府とGHQが動き出すなど、まさに占領軍は「何をするかわからない」状況下である。どこまでも、その目を気にしなければならなかった。そのため、後に咎めを受けることのないよう、教員らには「そもそも計画自体を知らせなかった」という体裁をとることとなる。
 この時、五人の教え子を派遣した高橋小一は、後にインタビューに応じている。公教育に関わる立場から、自身は参加を見送った高橋だったが、「万一のときには、生涯かけて教え子たちのたちの骨を拾ってやろう」。その覚悟のもとの派遣であったという。
 昭和二十年十二月六日、出発にあたって参集した彼らの服装はばらばらであった。「団体行動」として注意をひかないよう、服装は統一せず、多くの青年たちは家族と水盃を交わした上で駅に集合した。
 長靴、地下足袋、学生服にジャンパーなど、皆が不揃いの姿格好で、水盃を交わして上京するとは、今となれば滑稽な話といくらでも言えよう。だが、「平和時代の戦死」を果たしても皇居に向かおうとした彼らの覚悟とはいかなるものだったか。ここに想いを致さねばなるまい。
 このようにして誕生した、みくに奉仕団員六十二名。最年長の鈴木が四十六歳、長谷川が三十五歳で続き、他に数名の三十代のほかは、殆どが二十代前半の青年男女であった。ここに、記録係として早稲田大教授の木村毅が加わった計六十三人で、皇居坂下門へと向かった。

折本龍則「新しい国家主義の運動を起こそう!③ 内田良平翁の親子主義」(『維新と興亜』第3号)

国家社会主義の危険性
 前回までに、明治国家における宗廟と社稷の乖離について書いた。すなわち、明治の草創期においては宗廟と社稷は牧歌的に調和し、不平等条約の改正と国会の開設が民党において不可分の目標であったように、国権と民権の主張は両立していた。その際、両者の蝶番となっていたのが尊皇という基軸であった。国権─尊皇─民権の三位一体である。そのことは、社稷自治を唱えた権藤成卿が国家主義者内田良平翁率いる黒龍会の同人であったことにも象徴的に示されているように思える。
 しかし資本主義的近代化の進行につれて国家は資本と結託し、社稷を疎外し出したため、両者は齟齬乖離を来たした。そのことは、権藤が関東大震災に際して政府が無政府主義者の大杉栄を虐殺した大杉事件に関して、内田翁が「国家のためによろこばしい」と発言したことに激怒し決別したことにも象徴的に示唆されているように思える。資本主義的近代化は、国内においては急速な都市化と農村の荒廃、都市における労使対立の激化を招き、対外的には、資源獲得を求めた国家の帝国主義的性格を強めた。かくして宗廟と社稷は相克するに至ったのである。
 こうしたなかで、玄洋社・黒龍会的な伝統的国家主義に対して、新たな国家主義を提唱したのが津久井龍雄であった。津久井は、社稷を宗廟に前置する権藤の農本自治思想を厳しく批判しつつも、これを完全に否定し去るのではなく、国家主義との綜合止揚を図ることによって、「正しき日本主義」としての国家社会主義を目指したのであった。また津久井は行動の上においても、「実力はあるが理論がない」(津久井)玄洋社・黒龍会系の伝統的国家主義と握手するため内田良平翁率いる大日本生産党に入党すると共に、社会大衆党の赤松克麿等と共闘することで、国家・宗廟と社会・社稷の再統一を図ったともいえる。
 とはいえ、理屈の上でそういうのは簡単であるが、逆の立場から言えば、津久井の国家社会主義は下手をすると無機質な官僚支配やファシズムに転化し、彼の意図に反して、国家と個人の中間にある地方社会や家族といった伝統共同体としての社稷を破壊しかねない危険性を孕んでいた。大日本生産党における内田良平の門下で、神兵隊事件に連座した大東塾の影山正治塾長は、自身の自叙伝である『一つの戦史』(展転社)のなかで、国家社会主義者を次のように評している。
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玉川博己「三島由紀夫と天皇論」(『維新と興亜』第3号)

一、三島由紀夫の天皇論
 三島由紀夫の国体論、言い換えると天皇論に関する主要な著作は『英霊の聲』、『文化防衛論』その他晩年に「論争ジャーナル」や「日本及び日本人」などの雑誌に発表した諸論文がある。三島由紀夫の天皇論の要点をまとめると以下の通りであろう。

三島由紀夫

① 文化概念としての天皇、すなわち天皇は日本の歴史的連続性、民族的同一性、文化的全体性を象徴する存在である。また日本においては天皇のみが革命原理たりうる。すなわち大化の改新から明治維新まで、また挫折したとはいえ昭和維新も天皇を革命の原理として実行された。
② 国防の根幹としての天皇、すなわち日本を守るということは天皇と天皇に象徴される日本の文化を守ることである。従って天皇は自衛隊に対する軍旗の授与など名誉を与える栄誉大権を回復しなければならない。三島由紀夫にとって天皇と国防は同義でもあったといえる。
③ 戦後の象徴天皇制は見直されなければならない。天皇の「人間宣言」の否定。すなわち『英霊の聲』における二・二六事件を鎮圧し、大東亜戦争で特攻隊の犠牲が出たにもかかわらず戦後「人間宣言」を発した昭和天皇への批判。青年将校や特攻隊員の声を借りての天皇に対する怨嗟ともいうべき「などてすめろぎは人となりたまひし」の痛烈な言葉。 続きを読む 玉川博己「三島由紀夫と天皇論」(『維新と興亜』第3号)

【巻頭言】河上肇の生き様―愛国心と愛政権の境目(『維新と興亜』第3号)

■河上肇のナショナリズムとマルクス主義
 昭和八年十月、マルクス主義者河上肇は懲役五年の思想犯として小管刑務所に着いた。このとき五十五歳。この年にして三畳一間の生活に甘んじることになったわけだが、意外にも河上は明るかった。
 ありがたいことに便所は水洗だ。この便器をイスにして、洗面台を机にして河上は日々の記録をつけ出す。
「これが向こう三年間のおれの幽閉所か。よしよし持ちこたえてみせるぞ!」
 獄中で河上が愛読したのは陶淵明の漢詩であった。繰り返し繰り返し低唱し、その詩の韻律を味わった。その後は陸放翁(陸游)の詩を愛す。陶淵明も陸放翁も愛国詩人とも呼ぶべき存在である。同郷の吉田松陰を生涯敬愛した河上にとって、マルクス主義と愛国主義は両立するものであった。
 河上は晩年、『自叙伝』で「私はマルクス主義者として立っていた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌ったりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴィエト組織に改善せんことを熱望したのである」という。
 河上にとって、ナショナリズムとマルクス主義は両立可能なものであり、最後までナショナリズムを捨てることはなかった。
 「愛国心というものを忘れないでいて下さい」。
 河上はかつて島崎藤村にこう説教したこともあった。藤村に留学先で出会って、藤村に「もっとよくヨーロッパを知ろうじゃないか」と話しかけられた時に、答えたのがそれである。ヨーロッパに憧れる藤村に、内心ムッとする河上の姿がよくわかる。
河上肇

■道徳と農業を重んじた河上肇
 振り替えれば河上肇は『貧乏物語』で、「人はパンのみで生きるものではないが、パンなしで生きられるものでもない。経済学が真に学ぶべき学問であるのもこのためだ。一部の経済学者は、いわゆる物質文明の進歩―富の増殖―のみを以て文明の尺度とする傾向があるが、出来るだけたくさんの人が道を自覚することを以てのみ、文明の進歩であると信じている」という。河上は、富さえ増えればそれが社会の繁栄であり、これ以上喜ぶべきものはないという考え方を批判した。道徳を衰退させる経済思想では理想の社会を作ることはできないのである。
 さらに遡れば河上肇は大学卒業後、農科大学の講師について横井時敬の指導を受けた。そのときに書いたのが『日本尊農論』である。河上肇はそこで農本主義的議論を展開していた。河上の原初は農本主義であった。

■財産奉還論の先駆け
 河上は若い頃から尊皇的発言を繰り返し、天皇への私有財産への奉還を主張する。河上は『貧乏物語』を書く以前に書いた「現の世より夢の国へ」と題されたメモの中では次のように語る。
 「ソコデ最後二話ヲ夢ノ国二引キ入レテ、然ラバドウシタラ善イカト云フニ、私ハ此ノ天下ノ生産カヲ支配スル全権ヲバ、凡テ 天皇陛下二帰シ奉ルコトニシタイト思フ。恰モ維新ノ際諸侯が封土ヲ皇室二奉還シタヤウニ、今日ノ経済界二於ケル諸侯が其事業ヲ国家二奉還シテ、世俗ニ謂フ三菱王国ノ主人モ、三井王国ノ主人モ、其他一切ノ事業家資本家ガ悉ク国家直属ノ官吏トナリ、カクテ吾々六千万ノ同胞ハ億兆心ヲ一ニシテ働ク、悉ク全カヲ挙ゲテ国家社会ノ為二働ク、其代リ其レゾレノ天分二応ジ必要二応ジテ国家ヨリ給与ヲウケテ、何人モ貧困線以上ノ生活程度ヲ維持スルト云フ、サウ云フ世ノ中ニシタイモノト私ハ切望シテオリマス」。
 こうした河上の思想は戦時中皇道経済学を主張した作田荘一や、『財産奉還論』の著書がある遠藤無水などにも影響を与えたのである。
 河上自身は同胞愛というところに異常なまでにこだわった人物であった。河上は常に同胞愛を説き、大学生の時などは足尾鉱毒事件での田中正造の演説に感激して、自分が着ている襟巻、外套、羽織まで寄附してしまう。
 「いかに無告の民を救うか」。
 そうした草莽の志が、河上の義侠心を支配していた。
そんな河上の説く経済が、貧富の格差を野放しにする「自由競争」に甘んじるはずがない。
 「人々の幸福に経済学をもって貢献しよう」。
 これが河上肇の志であった。

■マルクス主義に影響され…
 しかしそんな河上の人生は屈折していく。
 大正十四年には櫛田民蔵に、河上肇の「マルクス主義解釈は間違っている」と痛烈に批判され、マルクス主義を学ぼうと発奮する。その過程で初期の傑作『貧乏物語』を自ら絶版にし、京大教授を辞め、日本共産党に献金、入党する。日本共産党の検挙によって党員が逮捕され、河上は入獄する。冒頭の場面はそれである。
 もはやソ連が登場して以降、政治は資本主義陣営と共産主義陣営に染め抜かれ、どちらかを選ばねばならないような空気が社会を覆っていた。その中で河上の出処進退にも影響を与えられざるを得なかったのだ。
日本型の経済を目指す動きは戦時中の統制と愛国心高揚の時代を待たなければならなかった。もちろんこの時代も、軍部の影響下を否定できないゆがみを抱えた時代であった。
 ある意味ではソ連の登場は河上肇を財産奉還論者からマルクス主義者に移行せざるを得なくさせてしまったのだ。

■日本独自の経済論へ
 話は現代に飛ぶ。
 小泉内閣以降の新自由主義政策により、国内の貧富の格差は開き、社会は富める者と貧しきものとに分断されている。冷戦でソ連が崩壊して以降、資本主義を極限にまで推し進めようという動きを抑制する力は弱くなり、資本主義の弊害が露わになった形だ。そしてそれに今回の新型コロナウイルス感染拡大による経済の疲弊が重なり、国民経済は瀕死の重傷状態にある。
 ひょっとしたら中流層を厚くしていく経済政策よりも、一握りのアイデアに満ち溢れた企業家が経済を牽引し、残り大多数の人間は彼らの手足となって働く方が効率的で豊かになれるのかもしれない。だがそれで望ましい社会は手に入るだろうか。また、同胞愛はあるだろうか。同胞の窮状に心を痛めずして愛国が語れるのだろうか。同胞愛は自己利益を超えたところにある。単に物質的豊かさだけではなく、社会を構成する者として、各人が居場所を持つことは効率よりも重んじられるべきことだ。
 同胞愛のない人間が語る「愛国」など、政権への媚び諂いと何が違うのか。
 内田良平は大日本生産党の結党に際し、「今や国民はすべて餓えてゐる。経済は破綻している」と説き「非常時経済対策」として窮乏国民の負債の整理や公営事業による失業対策、一時的な生活必需品の配給にまで言及している。マルクス主義か資本主義かなどという冷戦期の古びた頭から自由になれば、いま取るべき経済政策が新自由主義ではないことは自明であるように思われる。
 河上肇の生きざまに共鳴できるか。これが「愛国」と「愛政権」を分けるカギであるかのように思える。
(小野耕資)