菅田正昭氏は古神道各派の呼吸法について、以下のように述べている。
〈伯家神道の系譜につながる教派神道の禊教では〈長息(ながよ)〉といって伯家の息吹永世の伝とまったく同じ呼吸法を、お祓いをあげるまえにおこなっているが、こうした呼吸法はもちろん伯家や禊教だけの専売特許ではない。他の古神道系、教派神道系教団にも、独特の呼吸法を伝えているところが多い。
たとえば黒住教には、教祖の「天命直授(てんめいじきじゅ)」の体験をもとにした一種の丹田呼吸法がある。…黒住宗忠が重い病の床に臥しているとき、日輪が飛び込んだのを契機に全快したという故事にもとづいている。黒住教では、御陽気、すなわち太陽の気を吸うと称して、早朝の神拝のとき太陽を呑み込む仕草をしている。
神理教には、真気=神気を吸って体内の邪気を吐く「長呼吸法」というのがある。同教団では、朝は朝日に向かって直立し、手を合せ、夜は床の上に正座し、合掌し、「わが心清々し、天在諸神(夜は、うぶすねの神)守り給え幸え給え」と唱えながら、大きく長く呼吸し、腹の底まで入れて吐きだす、と教えている。
御嶽教の場合、朝、太陽に向かって立ったまま日拝と気吹をするのが重要な日課になっている。すなわち、静かに両足を揃え、太陽に向かって二拝二拍手一拝をしたあと、両足を大地に踏み開き、両手を斜め前から大空高くゆるやかに上げ、ゆっくりと気息を吸いこみ充分に胸を張るのである。そして、こんどはぐんと下腹に力を入れたまま、両手をゆるやかにおろしながら気息をはきだすのである。これを行なうと、前夜からの身心に充満していた汚れた悪気・毒気が吐きだされ、清浄な陽気=神気が全身にみなぎる。御嶽教では、これを攘禍行(じょうかぎょう)ともいっている。
御嶽教にはこのほか、神前で正座をして行なう「神人感応行」とよばれるものもある。まず正座をして、腰をのばし、背骨を正し、顎をひき、目は半眼にする。二拝二拍手一拝のあと、福徳円満の手契(印)を結び、それを下腹部、すなわち臍下丹田のあたりにおく。この福徳円満の手契の結び方は、右手を下に、左手を上にするようにして掌を上向きに重ね、あたかも玉をもつように両手の親指で円を作るようにすればよいのである。こうしてから、御嶽教では「神威如嶽(しんいじょがく)、神威如嶽」と念じながら、ゆっくりと息を吸い込み、充分に息が入ったところで、神人一体の境地をもって、ぐっと下腹に力を入れ、こんどは神恩に感謝する気持で「神恩如海(しんおんじょかい)、神恩如海」と念じながら、ゆっくりと息を吐きだすのである。
このように、伯家神道の永世と、他の神道の丹田呼吸法とでは、まず息は吐きだすのが最初か、吸うのが最初か、という相違があるが、二人以上で行なう場合、明らかに最初は息を吐いたほうが気が合いやすくなるし、心身の穢れを祓うという意味からも、最初は息を吐いたほうが良いと思う。ただし、伯家には〈神の息〉といって、まず口から吸って鼻から吐く、という呼吸法もあるが、これは永世を行じながら何かを祈念したとき、最後に一回だけ行なうものだという。さらに、伯家には、天津息吹といって、息を「ハッ、ハッ」と咳込むように、しかしまったく吸うことなしに息がつづくかぎり吐きだし、身体に付着した罪・穢れを一度にすべて吹きはらう、というのもあるようだ。
いずれにせよ、多少の違いはあるものの、神道では丹田呼吸法を、鎮魂法として大切にしているのである。〉(『古神道は甦る』270-271頁)
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本田親徳と白川神道の「十種神宝御法」
副島種臣に強い影響を与えたのが、神道霊学中興の祖・本田親徳である。本田が再編した神道霊学とはいかなるものだったのか。宗教学者の鎌田東二氏は、『神界のフィールドワーク―霊学と民俗学の生成』(創林社、昭和60年)において、次のように指摘している。
〈……安政四年(一八五七)頃に、本田親徳は神祇伯白川家の最後の学頭であった高浜清七郎と交わっているので、高浜より伯家神道の神事秘法について教示された可能性もある。かつて平田篤胤も伯家の古学方教授やのちには学頭に就任したことがあるが、この伯家神道すなわち白川神道には「十種神宝(とくさのかんだから)御法」という行法が伝わっている。……文久二年(一八六二)の八月一日付で、その頃備前国岡山に住んでいた高浜清七郎は、「十種神宝御法口授」の認可を受けたことが『白川家門人帳』に「高濱清七郎(源政一) 右今般依願、十種神宝御法被口授訖。万事正路之心得を以、可令修行。伯王殿被命処也、仍執達如件」と記されている。本田親徳はこの高浜清七郎について、「三十年来余と友人たり」とある書簡に記しているから、高浜より伯家神道の祭式や修行法を教わった可能性はかなり高い〉
では、「十種神宝御法」とはいかなる行法なのか。鎌田氏は次のように続ける。
〈「十種神宝」については、平安時代にまとめられた物部系の伝承を伝えたとされる『先代旧事本紀』に出てくる。物部氏の祖神饒速日神が天降りするとき、高天原で天照大御神より授けられた瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・生玉(いくたま)・足玉(たるたま)・死反玉(まかるかへしのたま)・道反玉(ちがえしのたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品物比礼(くさぐさのもののひれ)の十種の天爾玉瑞宝を、「もし痛む処有らばこの十宝をして、一二三四五六七八九十(ひふみよいつむななやここたり)といひてふるへ。ゆらゆらとふるへ。かくせば死人も反り生きむ。これ即ち布瑠(ふる)の言の本なり」といわれるごとく、揺すり振るいながら生命のさきはいを祈ったのが物部系鎮魂祭の初めとされる。この祭祀は宮中の鎮魂祭祀に吸収されたが、伯家の「十種神宝御法」には、そうした古代祭祀や呪術に加うるに、吉田神道の行法の影響があったのではないかと私は思う。菅田正昭によれば、この「十種神宝御法」の行は「目をつぶったままで行なう幽祭修行で、十種神宝を十個の徳目にみたて、自分の魂を磨くことによって、その階梯を一歩ずつのぼっていこうというもの」とされる。また、そこでは手かざしによる浄霊(鎮魂)が行なわれていたという。そのほか、伯家には気吹の法や永世の法なる一種の呼吸長生法が伝わっていた。
こうしてみれば、本田親徳の再編した「鎮魂帰神術」は、物部石上系の魂の医療技術としての鎮魂(招魂)法と、神功皇后が厳修したといわれる神教を請う方法としての神懸り(帰神)の法とを合体させ、それを導く「霊学」原理として「審神者」の法を確立した点にその特徴があるといえよう〉
「皇教(すめらきょう)」の「教義・儀式・行事」
昭和21年4月8日に文部大臣に提出された教派設立届に基づき、すめら教の教義などを紹介する。
まず、「教義・儀式・行事」は以下のように定められている。
〈第三条 宇宙創造、万有展化、生成発展ノ根源にして其ノ本体タル絶対的絶対神格者『天之御中主神』が宇宙創化ノ為メノ自己内展ニヨリテ神生リマセル皇神集ヲ信仰ノ対象として『すめらぎノ御霊』トシテ奉斎シ其ノ御議ヲ以チテ神界ニ事始事依サシ給ヘル宇宙創化ノ神業『天津宮事』ヲ観ジテ天地ノ大道ナリト諦観シ其ノ原理原則コソ実ニ神々ニヨリテ示サレタル吾人々類ノの則ルベキ人生ノ至道ナリトシ其ノ『天津御手振』を吾人々類ノ原則生活トシ乏シキ神習ヒ本教管長ノ著作物ヲ以て教義トス
第四条 教憲ト原諦
(一)顕界(現実界)ニアリテハ我ガ『神ながら』ノ明徴広闡ニ精進シツヽ各人至心修養其ノ本然本有ノ真姿態ニ帰正シ原則生活ノ実践ニヨル表現トシテノ吾人ノ文化生活体系ヲ展開シ幽界(霊界)ニアリテハ宇宙創化ノ皇神等ニまつろひツヽ其ノ真実想ヲ諦観シ其ノ神業ニ息吹キ其ノ御手振ニ雄叫ビ霊界体一如、顕幽一体以テ地上ニ於ケル万民協和ノ真ノ文化境タル全世界ノ全平和ヲ理想トスル神ノ御国ヲ展開セシメムトス〉
吉田神道と伯家神道─小野清秀『神道教典』
小野清秀は『神道教典』(大聖社、大正四年)で、以下のように書いている。
「神祇官の頭領神祇伯王たる白川家にては、一方には時代の趨勢に促され、一方には其の下僚たる卜部家の跋扈するより、自衛の必要上、伯家神道なるものを組織した、其の神道通国弁義に、左の如き説がある。
神道は天地の中気循環して、万物生々化々するの名にして、和漢竺は勿論、四夷八蛮、万国一般の大道なり、天地広しと雖も、万物多しと雖も、一つも其化に洩ことなく、天地も其循によらざる所なし、知る者も神道裏の人、知らぬ者も神道裏の人、鳥獣蟲魚、草木砂石の非情、皆其化に出入し、人々其神の分賦を受けて、これを心の蔵に容て魂と為ながら神の所為たることを知らざる、実に神道の大なる所なり」
神道の百科全書をまとめた真野時綱
神道の百科全書とも呼ばれる『古今神学類編』をまとめた真野時綱は、慶安元(一六四八)年、津島神社(津島牛頭天王社)の神官家太郎太夫家に生まれた。
時綱は寛文三(一六六三)年、わずか十五歳で白川神祇伯家の門に入り、吉田神道で説く理法の一つ「十八神道」の伝授を受けている。京都に上ったのは、その二年後の寛文五年のことである。京都では、右大臣久我広通の兄(東愚公)の門に入った。ただ、時綱は当時未だ十七歳であり、基礎的学業が不足していたので一旦尾張に帰国し、名古屋東照宮の祠官を務めていた吉見直勝(幸和の祖父)の門に入り、神道国学を受けた。
寛文八(一六六八)年、再度上京し、久我雅通に師事した。また、吉田神道派の卜部兼魚について神道国学を学んでいる。以来、天和二(一六八二)年に帰郷するまで、十四年間京都で学問を続けたのである。
時綱は、若い頃から伊勢神宮の外宮祠官出口延佳にも師事していた。矢﨑浩之氏が指摘するように、延佳が元禄三(一六九〇)年正月に没すると、時綱はその半年後には『神代図解』を著して、先師顕彰の意を表明した。この『神代図解』は、延佳が明暦二(一六五六)に著した『神代之図』と、天和三(一六八三)年に著した『神代図鈔』を解説したものである。
つまり、時綱は吉田神道と伊勢神道の両方を学んだということである。また、天野信景や松下見林とも交流していた。
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伯家神道─清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より
以下、清原貞雄『神道沿革史論』(大鐙閣、大正8年)より伯家神道の部分を引く。
〈伯家神道は元、神祇伯の家に伝はつた神事から来たもので、白河家のものである、所謂神祇四姓(王氏即白河、中臣、忌部、卜部)の一で、花山天皇の皇子清仁親王の御子、延信王の神祇伯に任ぜられて以来、代々伯職を相続し、永く王氏を称したので、共儀式の事等に就ては伯家部類に詳しく見えて居るのが今一々述べぬ、其職掌は宮中及神祇官に於て神事を掌るもので、従来、神道説等に関係は無かつたのである、然るに吉田神道が段々盛になり、吉川神道、垂加神道が唱へらるゝに至つて、其風潮につれて伯家でも遂に神道説を起す訛に至つた。其神道説を覗ふべきものは多く遺つて居らぬが、神道通国弁義二巻、及び神祇伯家学則に依りて大体を知る事が出来る。神道通国弁義は神祇伯資顕王家の学頭森昌胤の名を以て書かれたもので、資顕王は宝暦九年に神祇伯となり、天明五年に薨じた人である(白河家系譜)。此学頭なるものは何時頃からあつたものか詳で無いが、伯家部類には白河家学頭臼井帯刀なるものが八神殿の御霊代を盗んで一条兼香に奉つた事が見えて居るのを見ると、遅くとも元禄か宝永頃にあつたものである。今其説の大要を述ぶれば、神道は天地の神気循環して万物生々化々する名であつて万物一般の大道である、神といふは大素の無の所から、有と天地開闢する運をなす活気を神といふので、共外に体が有る者では無い、凡て天地の万物は神化に出る、其神化の妙遷、理気質形と次第して見ると、理気の無形の幽隠と云つて目に見る事が出来ず、質形は有実の顕露と云つて目に見るの実である、幽隠は心に観じて見る所を云ひ、顕露は現在に見るといふのである、儒教に大極動て陽を生じ、静々して陰を生ずるとあるが、陰陽二気の神と云ふは諾冊二尊の事である。三は神道の成数で、事物皆三つを以て分るゝ、理と気と形が無ければ見る事が出来ず、質から目に見る者が出来て物我の別がある故に、皆天地にして日月星と分れ、又人は君臣と分れて居る。
天御中主尊は理天地の理神、国常立尊は気天地の理神である。天地の開闢する理、気、質、形の次第、乾坤、陰陽、天地といふ差別をよく得心すれば、神代紀の旨自ら明かになるのである。天地の間は皆自然の神化あつて、神化即ち神道である、其神と云ふは聖にして知る可らざるもの、而も自然を主どるものである。神道の中に養はれて神を知らぬから身を知らず、身を知らぬから忠孝も知らぬのである、万国一般の神道から云へば、仏は迫害供養を行事とする天竺の神道、儒は五常五倫を行事とする唐の神道、日本は祈祷祭祀を行事とする日本の神道で、只其行事勤めかたの替があるばかりである。
以上は其神道説の一班であるが、大体に於て之も又宋学の理気説等から脱化して属る事が判る。其外に従来の神道者流の秘伝口授等を設けた事を攻撃し、殊に吉田、吉川、垂加等の諸派を罵つて居る。
神祇伯家学則は伯王殿御口授、御門葉等謹承、として書き出し、終りに神祇伯家四十二代文化十二年の奥書がある、四十二代は資顕王である、此学則は従来あつた所の伯家条目なものゝ最初に、「夫神道者万国一般之大道、古今不易之綱紀、神武一体法令之出処也、とあるのを始めとして、孝徳紀の惟神者謂随神道亦自有神道といふ言葉、古事記の序にある乾坤初分云々の文等を掲げ、之等を説明敷衍し、且つ固く体してよく守るべき旨を述べたものである。〉
伯家神道関連書籍
編著者 | 書名 | 出版社 | 出版年 |
清原貞雄 | 神道沿革史論 | 大鐙閣 | 大正8年 |
山田忠孝編 | 神道宝鑑 | 国教学館出版部 | 大正11年 |
小野清秀 | 両部神道論 | 大興社 | 大正14年 |
岸一太 | 神道の批判 | 交蘭社 | 昭和4年 |
清原貞雄 | 神道史 | 厚生閣 | 昭和7年 |
神祗ニ関スル展覧会目録 | 石川県図書館協会 | 昭和8年 | |
曽根研三編 | 伯家記録考 | 西宮神社社務所 | 昭和8年 |
田中義能 | かむながらの神道の研究 | 日本学術研究会 | 昭和8年 |
佐藤三郎 | 神道概説・諸祭神名総覧索引 | 明文社 | 昭和12年 |
加藤玄智編 | 神道書籍目録 | 明治聖徳記念学会 | 昭13年 |
清原貞雄 | 神道史講話 | 目黒書店 | 昭14年 |
宮地直一 | 神祇史大系 | 明治書院 | 昭和16年 |
高橋梵仙 | 佐久良東雄 | 新興亜社 | 昭和17年 |
丹羽保次郎 | 惟神の大道 | 東洋図書 | 昭和17年 |
河野省三 | 近世神道教化の研究 | 宗教研究室 | 昭和30年 |
天理図書館編 | 吉田文庫神道書目録 | 天理大学出版部 | 昭和40年 |
近藤喜博編 | 白川家門人帳 | 白川家門人帳刊行会 | 昭和47年 |
神道大系編纂会編 | 神道大系 論説編 11 | 神道大系編纂会 | 平成元年 |
鬼倉足日公 | 生命の甕 | 山雅房 | 平成3年 |
羽仁礼 | 伯家神道の聖予言 : 宮中祭祀を司った名家に伝わる秘録が今明らかになる! | たま出版 | 平成8年 |
富士吉田市史編さん委員会編 | 富士吉田市史 通史編 第3巻(近・現代) | 富士吉田市 | 平成11年 |
堀川智子 | 神代より伝う「龍宮臨行の儀」考 | 文芸社 | 平成18年 |
佐々木重人編著 | 天皇祭祀を司っていた伯家神道 : 秘儀継承者七沢賢治がえがく新創世記 : 地球コアにまで響き渡るコトダマ (「超知」ライブラリー ; 38) | 徳間書店 | 平成20年 |
大野靖志 | 言霊はこうして実現する : 伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界 | 文芸社 | 平成22年 |
金光英子 | 白川家の門人 | 金光英子 | 平成23年 |
保江邦夫 | 伯家神道の祝之神事を授かった僕がなぜ : ハトホルの秘儀inギザの大ピラミッド | ヒカルランド | 平成25年 |
古川陽明 | 古神道祝詞CDブック | 太玄社 | 平成28年 |