越前藩士・中根雪江が藩主・松平慶永の事歴を記録した『昨夢紀事』には、嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航から安政五(一八五八)年七月に至る間の重要記事が収められている。慶永側の立場に立って書かれているが、史料的価値は高い。
安政五年四月三日、日米修好通商条約をめぐる慶永と徳川慶勝のやりとりは、以下のように記されている。
「尾公ト討論 一、四月三日今朝辰半刻比より尾張殿へ御入あり御対面の上追々御論談に及はれしに尾張殿の御説は 天朝とは君臣の義あり 幕府とは父子の親あり国家艱難の秋に当つては父子の親を棄て君臣の義は立へき事なれは当今幕議に随ひては 叡慮にも不応れは今となりては専ら
天朝へ奉仕の外はなし徳川家康を失はゝ又得る人あるへし其時こそ天下は治平に属すへけれなといへる暴論を発し給ふ故 公は 神祖の三親藩を被置たるは宗室を固くし給ふ御遠略なれは夫か首坐なる尾張殿の御事なれは紀水の二藩と共に宗室の羽翼となりて幕府を扶けて
天朝を御推戴ありて夷狄の難をも攘はるへきを 神祖の貽謀にも背かせ給ひて宗室の危きをも扶け給はす惟 天朝へ忠を尽さんと宣ふは守株の孤忠にして真忠にあらさる由を激切に論究し給へと尾公曾て同し給はねはさらは当今の神州の利害をも論せす只管 叙慮の侭に征夷の任を立られんに指当り戦闘の御用意は御充分侯裁と問はせ給へは其心構は更になけれと唯大和魂ありと宣ふ故左候はゝ其大和魂もて徳川家の御後見なれ御執権なれおほさん様にて宗室に御成り代りあつて尊王攘夷の御功業を立られない御忠孝共に全かるへきものをと論し給ふに不才にして当り難きとの御遁辞にて更に帰宿なき御論故猶種々に御講究あつて漸くに思召通り閣老へ御談しあるへきの御結句にて末過て御退散なり御帰殿の上尾張殿如斯固陋にては諸侯を合せ 宸襟を安んし奉る事難しと御歎息を極められたり
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徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より
●「幕義に従っては叡慮に反する」
嘉永六(一八五三)年六月のペリー来航からまもなく、慶勝は斉昭へ宛てた書簡で、異国船の即時打ち払いを主張した。
しかし、翌七月に慶勝が幕府の諮問に応じて提出した建白書では、アメリカの要求に対しては、手荒な対応は避け、信義を正してほどよく断るべきだとの考えを示した。ただし、万一アメリカが承服せず、攻め寄せてきた場合には、国力を尽くして一戦を交えることも致し方ないとした。また、「ご決着」は「天朝」へ奏達した上でなされるべきだと説いた。
斉昭は、安政元(一八五四)年三月十日、海岸防禦筋御用を辞任した。慶勝が江戸城へ登城し、老中阿部正弘をはじめとする幕閣に面会し、詰問状を突き付けたのは、その直後の四月一日のことであった。慶勝は、外国勢力に対する幕府の弱腰を痛烈に批判し、斉昭の登用を強く要求した。ところが、幕閣たちは慶勝の要求を受け入れようとはしない。そこで、慶勝は同月十一日、十五日と立て続けに登城し、幕閣を繰り返し詰問した。
これに対して、幕府は、慶勝の幕閣への謁見謝絶、外様諸大名への面会遠慮を命じる内諭を報いた。これに対して、慶勝と幕閣の間を取り持ってきた若年寄の遠藤胤統(たねのり、慶勝の父方の叔父遠藤胤昌の養父)は、正論とはいえ「御激論」は避けるべきであり、自身が尾張藩の正統(生え抜き)ではないことを自覚すべきだと慶勝をたしなめた(「嘉永・安政期の尾張藩」)。
同年七月、慶勝は国元に戻り藩政改革に取り組もうとした。そこで早期の帰国を幕府に願い出た。ところが、幕府はこれを認めず、慶勝は翌安政二年三月に帰国した。 続きを読む 徳川慶勝の隠居謹慎─『名古屋と明治維新』より
徳川慶勝の藩主就任─『名古屋と明治維新』より
●押し付け養子に抵抗した金鉄党
以下、羽賀祥二・名古屋市蓬左文庫編著『名古屋と明治維新』に基づいて、徳川慶勝が尾張藩第十四代藩主に就任する過程について整理しておく。
慶勝は、高須松平家十代義建(よしたつ)の二男として、文政七(一八二四)年三月十五日に生まれた。
高須松平家は、尾張藩二代藩主の光友が二男の義行に作らせた分家だが、義建の父義和(よしなり)は、水戸藩六代藩主の治保(はるもり)の二男である。また、慶勝の母もまた、水戸藩第七代藩主治紀(はるとし)の娘である。つまり、慶勝の血筋は水戸徳川家とつながっていたということである。水戸藩第九代藩主の斉昭は、慶勝の叔父にあたる。
尾張藩では、九代藩主・宗睦(むねちか)が寛政十一(一七九九)年十二月に没し、初代義直から続く男系の血統が絶えた。
尾張藩十代藩主・斉朝(なりとも)は、徳川十一代将軍家斉(いえなり)の弟・一橋治国(はるくに)の息子である。ここで、血縁関係による大名統制強化を意図した家斉の意図に注目する必要がある。家斉には、五十三人の子供(息子二十六人、娘二十七人)がいた。昭和女子大学講師の山岸良二氏によると、家斉には正妻である第八代薩摩藩主、島津重豪(しげひで)の娘の広大院を筆頭に、側室が二十四人、彼女らの使用人として働く女性の中からも「お手付」がさらに二十人以上いたとされる。
文政十(一八二七)年に尾張藩第十一代藩主に就いた斉温(なりはる)は家斉の十九男、天保十(一八三九)年に第十二代藩主に就いた斉荘(なりたか)は家斉の十二男であり、家斉の実父・一橋治済(はるさだ)の五男・田安斉匡(なりまさ)の養子である。そして、弘化二(一八四五)年に第十三代藩主に就いた慶臧(よしつぐ)は、田安斉匡の十男だ。つまり、尾張藩では約五十年間、四代にわたって、将軍家の系統からの養子が藩主を独占していたのである。
この間、第十一代斉温が死去した天保十(一八三九)年三月、即日斉荘が後嗣に決まった際、大番組や馬廻組など、国元の中堅藩士らの不満が一気に高まった。
同年四月、馬廻組の大橋善之丞は上書を提出し、水戸家の先例を引きながら、尾張家が押し付け養子を受け入れれば、家中の「武威」が失われると嘆いた。さらに、田安家から「付人」が多く尾張家に入れば、家中の出費が嵩み財政に悪影響を及ぼすとした(木村慎平「嘉永・安政期の尾張藩」『名古屋と明治維新』所収)。
こうした不満が、慶勝擁立運動を支えていたのである。同年六月十四日には、四十七名が連署で竹腰正富に上書を提出している。連署に名を連ねた国学者の植松茂岳は、六月二十二日に慶勝擁立を周旋するために江戸に出発している。このときの慶勝擁立派が「金鉄」と呼ばれるようになっていく。
木村慎平氏は、植松宛の書簡にある「養君の件が真の目的なので、火中までも願い出るべきだと金鉄に心懸けている人もおります」を引いて、「信念や決意を曲げない意志の固さを表したものであろう」と書いている。
ただ、慶勝擁立運動は、まもなく急速にしぼんでいった。斉荘擁立を主導した成瀬正住が蟄居となり、これ以上幕府と事を構えるのは好ましくないという判断もはたらいた。さらに、かつて幕府による謹慎処分を受けたまま死去した七代藩主・宗春が赦免され、慶勝擁立派は不問に付されたため、騒動は一旦は収束した。
その後、弘化二(一八四五)年、斉荘は没し、第十三代藩主に就いた慶臧も嘉永二(一八四九)年に没した。江戸の年寄衆は将軍家近親から跡継を探そうとしたが、人材に乏しく、御三家同士の養子嗣の前例もなかったため、跡継は高須家当主の義建か慶勝にしぼられていった。結局、義建が五十一歳と高齢であったことから、慶勝継嗣が決定したものと考えられる。
塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』では、「嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた」と書いている。
尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議
幕末の尾張藩では、楠公崇拝の気運が高まっていた。こうした中で、文久二(一八六二)年、同藩の国学者である植松茂岳が、現在の中区天王崎町の洲崎神社境内に、楠公、和気清麻呂、物部守屋を合祀して三霊神社と称する社を設けた。
一方、慶応元(一八六五)年九月には、尾張藩士表御番頭・丹羽佐一郎が、東区山口町神明神社境内に楠公を祀りたいと寺社奉行所に願い出て、許可を得た。こうして、神明神社に湊川神社が設けられた。慶応三年には、佐一郎の子賢、田中不二麿、国枝松宇等、有志藩士発起の下に改築されている。
その勧進趣意書は次のように訴えている。
「夫れ人の忠義の事を語るや、挙坐襟を正し汪然として泣下る。是れ其の至誠自然に発する者、強偃する所有るに非るなり。楠公の忠勇義烈、必ずしも説話を待たず、其の人をして襟を正し、泣下せしめるものは則ち、唱誘の力なり。今公祠を修し、天下の人と一道の正気を今日に維持せんと欲す。あゝ瓶水の凍、天下の寒を知る。苟も此に感有るもの、蘋繁行潦の奠、その至誠を致し、以て氷霜の節を砥礪すべし」(原漢文、『湊川神社史 景仰篇』)。
こうした藩内の楠社創建を経て、慶應三年十一月八日、尾張藩藩主・徳川慶勝は、楠公社造立を建議した。将軍徳川慶喜が大政奉還を願い出てから二十日あまりのタイミングである。 続きを読む 尾張藩・徳川慶勝による楠公社造立建議
浅見絅斎の謡曲「楠」と尾張勤皇派
慶應三年十一月、尾張藩の徳川慶勝は楠公社造立を建議した。その背景には、尾張藩における楠公崇拝の一層の高まりがあった。それを牽引したのが尾張の崎門学派である。森田康之助の『湊川神社史 景仰篇』によると、以下に掲げる浅見絅斎の謡曲「楠」は、崎門学派蟹養斎門下の中村習斎の家に伝わっていた。『子爵 田中不二麿伝』には、「楠」が掲げられている。
正成、その時、肌の守りを取出だし、是は一とせ都攻めの有りし時、下し給へる令旨なり、よも是までと思ふにそ、汝にこれをゆづるなり、我ともかくも成ならば、芳野の山の奥ふかく叡慮をなやめ給はんは、鏡にかけてみるごとし、さはさりながら正行よ、しばしの難を逃れんと、家名をけがすことなかれ、父が子なれは流石にも、忠義の道はかねて知る、討ち漏らされし郎等を、あはれみ扶持し、いたはりて、流かれ絶たせぬ菊水の、旗をふたゝなびかして、敵を千里に退けて、叡慮を休め奉れ。
この「楠」を習斎門下の細野要斎が写し、富永華陽に贈った。華陽はそれを田中寅亮(田中不二麿の父)に示した。寅亮は、楠公崇拝者で知られ、楠流兵法にも精通していた。寅亮の弟でかつ門下生の神墨梅雪(富永半平)は、「八陣図愆義」二十九巻の著し、熱田文庫に奉納していたという。寅亮はまた、楠公の旗じるしの文「非理法権天」の文字の意義を解説した刷物を知友に配ったこともあったらしい。
そんな寅亮であったから、絅斎の「楠」に大変感動し、要斎に跋を請うた。安政三年に、名古屋市中区門前町にある長福寺は、この要斎の跋文を付して、絅斎の謡曲「楠」を一枚刷で発行している。要斎の随筆『葎(むぐら)の滴』には、以下のように書かれている。
〈(安政三年)五月十四日午後、田中寅亮来臨して曰く、往時君が蔵せし浅見(絅斎)先生作の楠の謡曲の詞を写して珍玩せしが、音節に伝写の誤りありて謡ひ難かりしを、甲寅の年(安政元年)東武に官遊して金春秦安茂に改正せしめ、一本を写して高須(義建)少将の君へ呈せしに、御手つから鼓の手を朱書して賜へり。こゝに於て又先哲叢談中の先生の伝を後に加へて邦君(徳川慶勝)へも献りしに、邦君も殊の外賞し給ひ、御酒宴の時にはしばしば楠を謡へとて歌はしめ給ふ。この謡は世に流布せざれば人未だこれを学ばず、助音するものなかりきと、金春の声律を協(ととの)へし一冊を示し、又毎年五月二十五日は楠河州(正成)の忌日なれば、曽て長福寺に納めし楠氏の肖像(田中氏往年志貴山に蔵せしを、写して同寺に納む)を掲げて、同好の士相会して神前に楽を奏して遺徳を敬仰す〉
尾張の勤皇志士・丹羽賢①─荻野錬次郎『尾張の勤王』より
荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、丹羽賢について、以下のように記している。
〈内には燃るが如き雄志を抱き、表には冷灰も啻ならざる静寂を粧ひ、竟に痼疾の為に殪れたる丹羽賢の薄命は、個人として深く之れに同情の涙を禁じ得ざるのみならず、国家又は社会としては彼れの早死を一大損失として歎惜せねばならぬ。
丹羽賢は倜儻駿邁にして気節高く、時に或は慷慨激越の風あるも、而かも識見卓絶、実に忠誠愛国の士たりしこと、彼れを知るものゝ斉しく認むる所にして之が代表の讃とも見るべきは、その友鷲津毅堂が華南小稿に序する所にて明瞭である。
嗚呼、英雄首を回らせば即ち神仙である、一位老公(尾張旧藩主徳川慶勝)が『回首即神仙』の句を彼れに与へられたるは、即ち彼れを英雄と認められたるに因るものであらう、然り彼れは実に天才的の人にして英雄の資質を具備せるものである、されど天彼れに年を仮さず、彼れをして大に英雄的手腕を振ふの機を与へざりしは、まことに遺憾である。
丹羽は幼時国枝松宇に親炙して忠孝節義の薫陶を受け又文久二年父氏常の祗役に従つて江戸に出で幕府昌平黌に学ぶ(年十七)。松本奎堂の知遇を得たるは此時にして奎堂を名古屋に迎へ学塾を開きて国史を講じ、尊王攘夷の説を鼓吹せしめたるは即ち其後のことである、又松本暢等の志士と親善となりしも当時のことである。
元治元年征長の役父氏常が総督に扈従するに方り丹羽は父に従つて広島表に出陣した(此時丹羽は白木綿にて陣羽織を製し其背に『肯落人間第二流』云々の一詩を大書して著用した、人皆其異彩に驚きたりと言ふ)其後丹羽は田中不二麿、中村修等と共に尾張勤王の巨魁田宮如雲の幕下に参し、東奔西走勤王の事に尽し明治維新の際田宮、田中等と共に徴士に選抜せられ尋いて新政府の参与と為り、明治維新の創業に貫献すること少なからざるものである〉
☞[続く]
「金鉄党」対「ふいご党」①─『愛知県の歴史』より
尾張藩の金鉄党とふいご党について、塚本学・新井喜久夫著『愛知県の歴史』は、以下のように書いている。
〈天保十年(一八三九)、一一代の藩主斉温(なりはる)の死去とともに、田安家の斉荘(なりたか)、実は将軍家慶の弟が尾張藩主をついだが、これは幕府からのおしつけ養子の感じがつよかった。
将軍家における御三家のように、尾張藩にも支藩があつた。そのなかで美濃高須藩四谷家の義恕(よしくみ、のち徳川慶勝)が、ちょうど幕政における徳川慶喜に似た役割をもってきた。将軍家からのおしつけ養子に反発する一部藩士たちは、この義恕に大きな期待をかけたのである。そういう彼らのなかから金鉄党とよばれる党派が成長していき、それがやがて尾張藩の尊攘派になっていった。
天誅組の松本謙三郎(奎堂)が刈谷藩家老の家に生まれたのにたいし、尾張藩の金鉄党はおもに下級の藩士たちを主体としていた。藩校であった明倫堂の学者・学生グループ、番士すなわち軍事専門家たちといった連中で、家格よりも自分の技能を自負している人びとのあつまりであった。彼らは斉荘の相続に反対し、江戸藩邸の執政、とりわけ幕府からの御付家老の一人で、犬山城主であった成瀬家の私曲を非難し、さらに嘉永元年(一八四八)には、米切手の引き換え問題をとりあげ、中・下屏藩士たちの利益を擁護するため陳情するなど、活発なうごきをみせていく。
将軍家相続事件の場合とちがうのは、外国問題がからんでいたいかわりに、対幕関係とむすびついていることであろう。したがって金鉄党が成長していく過程は、そのまま幕閣にたいして尾張藩の自主独立をもとめるうごきこすなわち幕府独裁制にたいする批判的な勢力の成長となっていった。
斉荘のあとをその弟慶臧(よしつぐ)がつぎ、嘉永二年(一八四九)、慶臧が病死すると、またしても幕府は斉荘の弟への相続をはかった。これにたいして、いまや一部の町人や村々の名望家たちをもふくんだ金鉄党の反対運動がおこなわれた。そして、慶臧が病没して二カ月たつと、彼らの待望する四谷家若殿の尾張藩襲封が実現する。一四代尾張藩主徳川慶勝であり、その動向は以後、中央政界に大きな影響をあたえていく。
この慶勝の襲封は、徳川慶喜が将軍職につく一七年前のことである。慶喜が将軍となったときには、すでに安政年間に彼を推した勢力が尊攘派と公武合体派とにわかれていたのにたいし、慶勝は藩内の幕府独裁反対派の与望をになって登場することができた。尾張藩の藩内抗争がそれほどはげしいかたちをとらず、また下級藩士を主体とした金鉄党も、いわば微温的な勤王派として、慶勝の公式合体策をささえる態度をとるようになったのは、さしあたってはそうした事情によるであろう。
だが、尾張藩に内部抗争がなかったわけではない。安政四~五年の幕政をめぐる争論では、慶勝は当然、改革派のがわにたち、井伊政権によって隠居・謹慎を命じられる。したがって、慶勝が名実ともに尾張藩主であったのは、一〇年にみたない歳月であった。そしてこの慶勝の引退は、ただちに藩内での金鉄党の勢力後退となってあらわれた。慶勝が藩主の地位をしりぞきながら、やがて実権を回復していったころ、〝金鉄〟をもとかすという意味をもたせた〝ふいご党〟と名のる一党が反対勢力として登場してくる。そして勢いのおもむくところ、尾張藩の二大名門で、ともに創業以来、御付家老としての権威をほこった成瀬・竹腰両家がこの抗争にまきこまれていく。はじめ、竹腰家とのむすびつきをはかった金鉄党は、竹腰家のそっけない態度に失望し、以後、成瀬家との接近をつよめていくのである。たよりとした重臣にみすてられた藩内改革派の中・下士が、一藩改革のわくをつきやぶっていくのが、他藩にしばしばみられる傾向であったのに、尾張藩ではもう一方の重臣とのむすびつきをはかるという方向をたどったのである〉
「依王命被催事」の継承─近松矩弘から徳川慶勝(文公)へ
尾張藩初代藩主の徳川義直(敬公)の尊皇思想は、彼が編んだ『軍書合鑑』末尾に設けられた一節「依王命被催事(王命に依って催される事)=仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず」に集約される。その詳しい内容は歴代の藩主にだけ、口伝で伝えられてきた。その内容を初めて明らかにしたのが、第四代藩主・徳川吉通(立公)である。死期を迎えた立公は、跡継ぎの五郎太が幼少だったので「依王命被催事」の内容を、侍臣・近松茂矩に命じて遺したのでる。それが『円覚院様御伝十五ヶ条』だ。
「依王命被催事」の精神は、尾張藩勤皇派に脈々と受け継がれ、維新に至る十四代藩主・徳川慶勝(文公)の活躍となって花開く。以下に挙げる近松矩弘の事跡(『名古屋市史 人物編第一』)には、その精神の継承が跡付けられている。
「矩弘、性質温克弁慧、世々軍学の師たり。其高祖茂矩、藩主吉通の遺命を蒙り、藩祖義直の軍書合鑑の末に「依王命被催事」とある一条、其他十一箇条に就いて勤王の主義の存する所を世子に伝へんとす。世子早世して其事止む。矩弘に至りて其遣訓を守り、之を慶勝に伝ふ。爾来田宮如雲・長谷川敬等と謀り、遺訓を遵奉して勤王の大義を賛し、力を国事に尽す」
尾張勤皇派・田宮如雲③
尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
[②より続く]〈爾後、長州再征の失敗、将軍大坂城の薨去、時局は更に一転して又復如雲の天地となつた、茲に於て如雲は前藩主慶勝を奉じ幾多の神算鬼謀を抱きて従容京郡に出でた、此時如雲の眼中には最早将軍なく幕府なく、只管宿昔の規画計図を秘め慶勝の帷幄に参し、苦心惨憺朝幕の間に斡旋し遂に幕府の政権返還、王政復古の大号令の実施を見、即ち維新々政府の職員として慶勝は議定、如雲は参与の職に任ぜられ維新創剏の鴻業を翼することゝなつたのである。
如雲は丹羽、田中、中村等が曩に彼れの傘下に馳せ来れる時、君等年少者が余を援けむとするは余の深く喜ぶ所なるも、之と同時に余は『子』と事を共にする能はずして『孫』と事を共にするを悲むと言へりとぞ、蓋し其意は藩内に如雲と志を共にする老練恰好の輩少なく、孫の如き丹羽、田中、中村等の青年と事を共にするの窮境を吐露せしものにして、大に彼れの心事を諒とすべきである。
田宮如雲は多年勇気を鼓して国事に尽瘁し意気壮者を凌ぐの概あるも、実は常時最早還暦に瀕し老境に入れるものにして若し尋常一様の生涯に在らしめば已に午睡を貪る一老翁なるべかりしも、学識経験に富み幾多の艱難困厄に堪へ老練円熟せる一事は参与十九名中一人も彼れと比肩すべきものなく、随つて咄嗟の間輦轂の下に民政を掌り安寧秩序を保たしむべきもの、彼れを除きて又他に適任者なく、為に彼れの固辞するに拘らず彼れをして京郡及伏見の民政総裁に補し、事実上彼れを皇城の鎮護に任じたたのである
(中略)
如雲の初めより永く参与の職に止るを欲せざりしも亦故ありである、されど維新々政府創建の際輦轂の下に騒擾を発生せしめざることは、慶勝苦衷の存する所にして如雲も亦深く之を憂慮する所なるのみならず自己が京都在留の間尾張城下の佐幕党を誅滅することは予て如雲の計画する所なれば此二事を全うしたる上初志に従ふことゝし、即ち暫く参与の職に止り後ち之を辞して徐ろに帰藩したのである〉
尾張勤皇派・田宮如雲②
尾張勤皇派として明治維新の実現に挺身した田宮如雲について、荻野錬次郎『尾張の勤王』(金鱗社、大正11年)は、以下のように書いている。
[①より続く]〈戊午の変に遭ひてより以来、如雲は厭迫の下に蟄伏して鋭気を養ひ、後ち綏宥を得て或は慶勝の側近に国事を議し、或は出でゝ朝幕間に遊説する等深く皇国の隆興に肝胆を砕き大に将来の活躍を考慮しつゝある折柄、遂に形勢は前項の如く推移して逾々長藩問罪の師を発せらることゝなり、即ち征長総督として前藩主慶勝を起用せらるゝことになつた。
如雲は初め慶勝をして絶対に其召命を固辞せしめ尚ほ姑く天下の形勢を観望せむとする意志なりしが深思熟慮翻案幾回、此時に際し尾藩たるもの立つて手腕を振ふにあらざれば、慶勝多年の哀懐至誠を世に実現するの機なく又此時立たざるに於ては尾藩の鼎の軽重を問はるゝ怕あり、随つて自己積年の抱負も亦之を実地に行ふに由なきことを慮り、断然慶勝をして征長総督の大命を拝受せしむることに決定したのである。
されど翻て藩の内情を顧れば、多年の疲弊に依り財用充実せず加ふに人物寥々如雲と志を同うするものに乏しく、其実極めて危殆の有様なりしが、如雲は是等情実の如何に関せず敢然策を決して立ちたのである、而して其策たる戦へは必ず勝ち、和すれは更に大功利を収め、和戦何れにせよ此一挙に由り国内の内訌を一掃し兄弟牆に鬩ぐの跡を絶ち、幕政を革新し政令一途、皇国を安全の地位に置き、外国の軽侮を防ぐを目的とするにあつたのである。
既にして如雲は和戦両様の用意を蔵し総督慶勝を奉じて出征したのである、先是、吉田松蔭存生中如雲は屡々松蔭の来訪に接して防長の形勢を看取する所あるのみならず、其後の状勢に於ても亦大に得る所あり、這次長藩の進退に就ては一種の興味を有したのである、然るに長藩は大義名分を明かにし服罪の実を示し、大に誠意を披瀝して和を請ひ、総督は之を容れて帰東し速に勅裁を仰がむとせしに、図らずも中途幕府の抗議に遭遇したのである、此無謀なる幕府の処置は如雲をして竟に幕府の済度すべからざるを悟らしめ、最早此上は根本的に幕府を解体し、新たに日本国の政治機関を設くるにあらざれば皇国を泰山の安きに置く能はざることを確信せしめたのである。
されど形勢は更に一変して長州再征の実行となり如雲は又幽閉の処分を受け新たに厭迫を受くることゝなつた、此時所謂佐幕党なるもの尾藩内に勃興して大に勢力を得、如雲は恰も俎上の肉の如き有様であつた、而かも此時丹羽(賢)、田中(不二麿)、中村(修)等の如き年少者が時事の非なるを慨して窃かに如雲の傘下に馳せ加り、勤王党は是等年少気鋭の輩に依り隠然其勢力を養ふことゝなつた〉
☞[続く]