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澁川春海の尊皇思想

本稿はネット検索と私の事前知識だけで作ったものだが、今後文献研究も行い、良いものとしてまとまりそうならしかるべき媒体に活字化すべく努力したい。本稿は下書き、骨子案といったところである。

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澁川春海という人物
澁川春海(しぶかわ・しゅんかい または はるみ)は、江戸時代の天文学者として著名な人物である。また、近年では冲方丁『天地明察』の主人公としても有名であろう。日本で最初に地球儀を作った人物としても知られている。また、囲碁棋士としての側面も知られており、多彩な活躍をした人物である。だが、澁川春海は山崎闇斎から垂加神道を学んだ人間であり、尊皇思想家でもあったのだが、その一面はほとんど忘れ去られているといってよい。本稿ではそうした澁川春海の尊皇家としての一面を紹介したい。
皇紀二二一六年(寛永十六年)、澁川春海は江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。父の死とともに「安井算哲」の名を継ぐが、年少のため安井家は継ぐことができなかった。二三一九年、二十一歳の時幕府から初めて禄を受けるが、その年にはもうシナで元の時代に作られた授時暦の改暦を願い出ている。その時は、春海の改暦願いは受理されなかったが、春海はシナの暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張し、国産の暦の作製に尽力。ついに三度目の上表によって春海の暦が朝廷により採用されて、貞享暦となった。これが日本初の国産暦であった。この功により、二三四五年(貞享元年)に初代幕府天文方に任ぜられることとなった。

暦を作るということ
ところで暦というと、現代人はカレンダーのような実用的なものと思ってしまうが、実用性だけではなく、暦を採用するのは天子の専権事項であった。江戸幕府の圧迫下に置かれていた当時の朝廷においてすら、それは例外ではなかった。即ち春海は幕府の天文方として録を食むも、天使の専権である暦の採用をわが国風に基づいたものにすることに成功したのである。
余談ながら島崎藤村の小説『夜明け前』において、主人公青山半蔵は明治政府の太陽暦の採用に対抗して皇国暦の建白書をしたためるのだが、これも暦というものが単なる実用品を超えた存在であることを念頭に置いての行動である。
天子とは天地を総攬する存在であり、天を司るとは暦を定めるということであり、地を司るとは土地制度を定めるということである。したがって、古来政治においては暦の策定と土地制度は、単なる実用的な政策以上の意味合いを持つことになったのである。
春海は囲碁を打つ時も天文の法則をあてはめて、北極星を中心に天体が運行する発想から、初手は必ず碁盤の中央、天元に打ったという。ところで北極星、即ち北辰も、『論語』に「子曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし」(金谷治訳注)とあるように、天子のもたらす理想の統治を示すものであった。即ち、春海にとっては暦も囲碁も、天子を中心とした「あるべき秩序」を立証していく存在に他ならなかったのである。

皇紀のはじまり
神武天皇の即位した年を元年とする皇紀は、明治五年の太政官布告を以て定められた。西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定は、この時初めて公式化された。しかし皇紀は明治維新政府が日本書紀の記述を基にこの時突如定めたものではない。その前の江戸時代からの議論の積み上げがあったうえでの公式化であった。
その西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定を初めて行った人物こそ、澁川春海に他ならない。春海は『日本長暦』において、日本において暦が施行された以降の全ての暦を参照し、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を作成した。春海は垂加神道の説に従って、古暦復元と貞享暦編纂の意義を説いたのである。後に本居宣長は『真暦考』で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったと批判しているが、おそらく春海にとってそのようなことは大した問題ではなかったであろう。北辰(=天皇)を中心として天体が運行し、その秩序を以て時が定まることを立証することが目的であったに違いないからである。
春海の『日本長暦』に刺激され、様々な人物が『日本長暦』を補完、訂正し、日本古来の暦を充実させていった。藤田幽谷は、『暦考』の中で日本の最初の暦の頒布を、推古天皇十二年の元嘉暦(当時百済で採用されていた暦)導入とする説を唱えた。

おわりに
既に本文中にも述べた通り、澁川春海の事跡を想うに、天子を中心としたあるべき秩序を立証すべく奔走したと考えられる。春海にそのような強い尊皇思想をもたらしたのは、山崎闇斎の垂加神道と考えてよいであろう。

福本日南『元禄快挙録』

 年末には毎年のようにテレビドラマになっている「忠臣蔵」。言わずもがなであるが、江戸時代に起きた赤穂事件を題材とした物語である。吉良上野介に切りかかったことに因り切腹させられた浅野内匠頭の仇を討つため、大石内蔵助らが決起し、吉良を打ち取り、浪士らも切腹となる話である。江戸時代、事件が起こった翌年から歌舞伎等の演目に取り入れられるほどの大きな話題を呼んだ事件であるが、実は江戸時代には幕府の弾圧を逃れるために室町時代の話であると偽装するなど、さまざまな潤色を加えざるを得なかった部分が多かった。大石内蔵助は大星由良助となるなど、登場人物の名前も変えられていた。

 現代のような史実に近い形での物語となった忠臣蔵のブームは、実は明治時代から始まっている。そのブームを作った人物の一人が、福本日南である。福本は福岡県出身。陸羯南と新聞『日本』を興した人物の一人で、三宅雪嶺などと並んで陸が不在、体調不良の時等に社説を担当できる人物の一人であった。陸の病気、死により『日本』の経営者が変わると、旧『日本』系の同人は一斉に同紙を離れることになった。多くは三宅雪嶺とともに『日本人』に合流、『日本及日本人』と改題することになるのだが、福本は地元の九州日報に行くことになる。この九州日報は玄洋社系の新聞で、古島一雄など『日本』関係者との縁も深い新聞である。この九州日報に連載されたのが、『元禄快挙録』であった。『元禄快挙録』は日露戦争後の武士道礼賛の空気に乗って大いに注目され、忠臣蔵が日本社会に根付くことになったのである。『元禄快挙録』は現在岩波文庫化もされている。

 『元禄快挙録』はその題からもうかがい知れる通り、赤穂浪士が主君の仇を討つために立ち上がった行為を義挙とたたえるものである。それは書き出しの「赤穂浪人四十七士が復讐の一挙は、日本武士道の花である。」(岩波文庫版上巻15頁)という一節からもうかがい知ることができる。だが一読してすぐ気づくことは、福本は義挙礼賛の信条を顕にしつつも、極めて冷静かつ正確に史実を記録し、伝えようとする立場を崩していないということである。現代史学の目からすれば間違いもあるようだが、俗論も多かった赤穂事件の実相を伝える書物として、原題でもその意義は薄れていない。

 『元禄快挙録』の筋は現代人には半ば常識化した「忠臣蔵」の物語なのでいちいち紹介していくことはしないが、読んでいてわたしの心に留まった部分をいくつか触れていこうと思う。

 一つ目は、赤穂浪士の決起に際し、山鹿素行の思想的影響を重視している点である。実際大石内蔵助は山鹿の門弟だったわけだが、山鹿とのかかわりや山鹿自身の思想の紹介に多くの頁を割いているのは印象深い。
 二つ目は吉良上野介を守るために戦って戦死した家来に対しても称賛を惜しんでいないということである。「吉良家名誉の士とも言うべきである」(下巻138頁)と短いながらも最大級の賛辞を送っている。一方で吉良上野介を見捨てて逃げた人間への評価は辛辣で、「卑怯を極めた」(下巻139頁)と罵っている。

 儒学的教養を基に書かれた書物は、自らの心魂をいかに作るか、いかに腹を決めるかという観点が自然に表れることが多い。本書もその例外ではない。印象的な一説をご紹介したい。

「天下の危険は、山にもあらざれば、川にもあらず。実に人情反覆の間にある。昨日までは肩を並べ、席を列ね、いずれ劣らぬ忠勤の士と見えた赤穂の藩臣らも、主家の断絶に会うて、魂魄を失い、会議のたびごとに、十人減り、二十人減り、寔に頼み尠ない有様を現出した。しかしながら志士は溝壑に転ずることを忘れず、勇士はその元を喪うことを忘れぬ。真の志士、真の勇士は、国家播蕩の際において見れる」(上巻129頁)

「ここに至って自分は長嘆してやむ能わざるものがある。彼八人の逃脱連といえども、ここに至るまでには、他の尊敬すべき忠義の諸士と異ならざる幾多の辛酸を嘗めてきたに相違ない。殊に毛利小平太のごときは、一挙の前日までも、衆と労苦を分ち来たのである。而うしていざ討ち入りという場合に臨み、その節を失うたので、ついに永く不忠不義の人となった。けだし彼らはこれによって五年か十年か生き延びたであろう。しかしながらこれがために永く歴史上に光輝ある生命を喪い、しかのみならずその五年か十年の残生の憂苦、懊悩、悔恨、慚愧のうちに悶え、この世からして焦熱地獄の底に陥った。『元禄快挙録』を読んで、士の最も留意すべきところは、実にこれらの辺にある」(中巻307頁)

 福本日南の『元禄快挙録』は忠臣蔵を掘り起こすことになったわけだが、明治時代の国粋主義者たちがこうした歴史や日本文化の掘り起こしに大きく貢献した例は多い。富士山を「日本の山」と称えた志賀重昂、日本美術の岡倉天心などが有名どころである。福本日南の「忠臣蔵」もその一つとして数えることができる。国家は「想像の共同体」であるという議論がある。だがそれは標準語やマスコミの力で無から生み出されたかのようにみなすのは誤りである。特に日本のような国家の場合はそうである。近代国民国家はある日突然人工的に模造されたものではない。前近代の大きな遺産と準備過程を経て成立したものである。そこに西洋近代の影響は否定できないだろう。だが同時に日本の伝統を踏まえ、移行していくことにこだわったのもまた明治時代の特徴である。西洋近代に倣わなければ生き残っていけなかった時代にあって、いかに日本の伝統を残しながら生き残っていくか暗中模索した時代でもあった。

崎門の矜持

 崎門は君臣の絶対的忠義を重んじた。それは師弟関係や親子関係にもおよび、上位者に尽くすべきことを説いた。それだけだとしたら、崎門は陳腐極まりない学問であろう。師匠さえいれば弟子は必要ない、その程度の存在であっただろう。だが、そのような思想が世に大きな影響力を持つはずがない。変革のエネルギーにもなりえない。崎門には上位者への献身的精神とともに、上位者をも恐れない強い心を問うたと考えるべきではないだろうか。

 ここで思い出されるのは崎門の三傑と言われるうち、浅見絅斎も佐藤直方も山崎闇斎から破門され、葬儀への出席もかなわなかった人物だということだ。二人は師匠の説に従わなかったからということで破門されたように、崎門は師匠の考えに弟子は従うことを要求される。だが同時に二人に限らず、崎門の有名な人物には師匠の説に従わなかったことで破門された人物もまた多いのである。
 崎門は理論としては師弟間の序列を示したが、一方で、一介の思索者が自ら大義と信じたことは、たとえ師の説と違ってもそれを貫くという生き様を見せた。この両方の側面を考えなくてはならないのではないか。

 山崎闇斎は「たとえ敬愛する孔子、孟子が攻めてきたとしても(日本人として)孔孟と戦うべきだ」という教えを説いた。通常この逸話は国家への忠、日本精神の唱道として受け取られてきた。だが違う読み方も可能ではないか。
 山崎闇斎は朱子にかぶれて常に赤いものを身に着けていたような人間だった。当然、儒学を篤く信じていた。その闇斎が「孔孟とも戦え」と述べたのは、「たとえ自らが道を教わった師匠であっても、己の信念に反するならば対峙しなければならない」と説いたとも言える。崎門は君臣師弟親子の上下関係を説いたが、同時に一介の思索者としての矜持を、その生きざまで示していたのである。

 だからこそその思想が後に世を変革する力ともなったのである。

フェノロサ伝説

 フェノロサといえば岡倉天心などとともに日本美術の復興に努めたお雇い外国人という印象を持っている人も多いだろう。フェノロサは西洋崇拝の時代の中で見捨てられてきた日本美術を高く評価した「恩人」であるという。だがその俗説は本当だろうか。

 フェノロサはたしかにお雇い外国人として日本に来た。だがその専攻は政治経済学であり、美術は学生時代にかじったことがある程度でしかなかった。ただしフェノロサは美術品の収集には熱心だったようで、フェノロサによって欧州に転売された日本美術品は数多く、それによりフェノロサは巨利を得ていたようである。
 フェノロサが岡倉天心らに日本美術の素晴らしさを説明し、感化させたのではない。その逆で、岡倉らがフェノロサという看板を担ぎ上げたのである。そもそも明治十年代から欧米崇拝への批判は少しずつ広がりつつあった。そんな中で「外国人も日本美術の素晴らしさを認めている」という傍証に担ぎ上げられたのがフェノロサであった。フェノロサが日本美術について書いたものには、その「秘書」役たる岡倉天心の手が入っている。「秘書」がゴーストライターとして書き上げた可能性も否定できないのである。

 岡倉とともにフェノロサを担ぎ上げた人物に狩野芳崖がいる。芳崖は後に「非母観音像」を書いて有名になるが、当時は明治維新で落ちぶれた江戸幕府御用絵師の家柄、狩野家の末裔に過ぎなかった。山師的雰囲気のある天心と没落絵師の芳崖が、西洋崇拝見直しの機運に乗じて一発逆転を狙ったのが、「フェノロサ担ぎ上げ」なのである。フェノロサ一派は文人画などの復興には反対で、日本画を強く推奨した。その人脈から考えても勘ぐってしまうような評価である。

 フェノロサと天心は後年仲たがいする(その時芳崖は既にこの世を去っている)。国粋主義の復活のために担ぎ上げられたフェノロサであったが、志を一定程度果たしてしまえば彼ら外人の力など無用というわけである。フェノロサはお払い箱にされ、ロンドンで客死している。

 「フェノロサという稀有な感性を持つ外国人により日本美術が再評価され、復興された」。これは天心と芳崖が描いた神話である。その実は本人は美術品の転売にいそしむ人間であったし、日本美術に関する発言は天心のものの可能性が高い。フェノロサ伝説を信じているうちは、まだ天心と芳崖という二人の男の掌の上で踊っているようなものである。

権藤成卿についての覚書

 権藤成卿は以下のように書いている。

 富力の集中により、貧富の懸隔が甚しくなり、従って社会的不安とともに人心は動揺し、大戦前においてすでに萌芽せる左傾思想は、ほとんど全国に瀰漫するに至った。この頃より社会事業なるものが興って来たが、この社会事業に投ずる経費の増加と、社会の非違者と認むる者及び失業者の増加との比例を見るに、後者は前者の約二倍になっている奇現象を生じ、一部の人は、社会事業は社会の非違者をものとさえ、立論するに至ったのである。―かつてかのビスマークでさえ「国は第一にその人民の弱者の幸福に注意するの義務がある」と論じたのであるが、我が国のドイツ崇拝者として権要に居る人たちで、これ等の点に注意せしものが幾人あるであろうか。(『血盟団事件五・一五事件二・二六事件その後に来るもの』書肆心水社編『権藤成卿批評集 行き詰まりの時代経験と自治の思想』35頁)

 私が権藤のこの言葉を書き留めておかなければならないと思ったのは、権藤が「社会事業」、おそらく弱者救済の事業だと思われるが、その弱者救済事業が増えてきているにもかかわらず、それ以上に失業者等が増えていることに注目しているからである。
 政治は弱者の救済を旨として行われなければならない。だがときに社会福祉が弱肉強食の経済競争の隠れ蓑になる場合がある。現代で言えば、社会保障を「セーフティネット」として位置付ける議論がそれだ。安倍首相が良く言う「再チャレンジ」もそれに含んでよかろう。要するに強烈な経済的弱肉強食政策への批判をかわすために社会福祉の充実を求めるのであって、貧富の格差が生まれた根本原因を正そうともしないし、かえって格差が広がることにも何の痛痒も感じていないのである。
 権藤は先に引用した事態を引き起こした原因に国民精神の弛緩や、宗教の堕落、貨幣万能的発想の蔓延に見ているようであるが、問題の根本原因を見据える目を持たずして、弥縫策的な態度に終始すれば、いかなる政策であれうまくいくことはない。

『昆虫記』余話

 アンリ・ファーブルの『昆虫記』は、大変有名な本の一つであるが、意外にその中身を知らない人が多い。ファーブルの『昆虫記』は昆虫の観察に関する回想録であるが、その中に折々ダーウィンの進化論に対する批判が挟み込まれている。そしてまさにこのことこそが、ファーブルが『昆虫記』を執筆した動機とも思われるのだ。ファーブルはおそらくキリスト教的発想から進化論を批判し、昆虫は本能によってその社会を形作っているということを研究した。その成果が『昆虫記』なのである。その成果は日本でも早くから注目されている。
 ファーブルの『昆虫記』を日本で初めて紹介したのはキリスト教的社会運動家賀川豊彦だと言われる。だが、賀川の叙述の段階からすでに『昆虫記』を適者生存弱肉強食批判として読み替えている。実際に自然界の摂理から弱肉強食を批判したのは、戦前発禁されていたクロポトキンであり、ファーブルはそのクロポトキンの文脈で理解され紹介されてきたという歴史的経緯がある。
 ところで、ファーブルの『昆虫記』を初めて全訳したのは賀川ではなく無政府主義者の大杉栄である。先ほど書いた賀川がファーブルの日本での最初の紹介者だというのは、大杉訳の『昆虫記』の序文に依っている。大杉はファーブルに関する情報を賀川から得て、初めて読んだファーブルの著作も賀川から借りたものだという。しかし、大野正男氏はファーブルを日本で初めて紹介したのは賀川ではなく、他にも先例があるという。詳しくは氏の研究を読んでいただきたい(大野正男「大杉栄『昆虫記』までの日本ファーブル史」日本古書通信平成23年9月号~10月号)が、結論を言えば明治43年の三宅恒方、内田清之助「ふをるそむ氏昆虫学」が最初だという。ただしここでは断片的に触れられているのみのようだ。他にも大野氏が何名かファーブルの紹介例を挙げているが、まとまったものは賀川、大杉の時代まで待たなくてはならないようだ。ところでこれまで、『昆虫記』と当然のように述べているが、原題は「Souvennirs Entomologiques」というそうで、直訳すると「昆虫学的回想録」となるそうだ。これを『昆虫記』と訳出したのは大杉の感性の賜物で、古事記や太平記などの書名を背景とした命名であろうと先行研究でも指摘されている。この『昆虫記』という人の耳目を引く題名は他の訳にも利用され、シートンの著作は『動物記』と訳され、牧野富太郎は自らの著作を『植物記』と名付けるなど日本社会における影響が大であった。
 『昆虫記』で批判されたダーウィンの進化論であるが、その進化論は、当時の日本では、資本主義を肯定する者にも否定する者にも広く受け入れられていた。そして、その生物進化の法則を社会的に適用したダーウィニズムが、立場を超えて様々な論客の間にも浸透していた。徳富蘇峰の「将来の日本」は武力社会から平和社会に進歩すると論じていたし、陸羯南も『国際論』で、欧米の文化一色になっては世界の文化の進歩は望めない、として東洋文化を護っていくことを主張している。資本主義者は競争の結果を「適者生存」とみなし正当化し、共産主義者は「資本主義から共産主義に進歩しなければならない」と考えていた。
 不思議なもので、大杉は『昆虫記』の訳者でもあるのだが、ダーウィンの進化論、『種の起源』の訳者でもあるのだ。大杉は丘浅次郎(実は丘も『昆虫記』の初期紹介者のひとりである)の『進化論講和』の愛読者であった。明治期の社会主義者にとって、『進化論』は社会主義と矛盾するかということは大きな関心事であったし、日本社会全体がこのダーウィンの進化論から発展した俗流の社会進化説に賛同・反発両面で大いに囚われていた時代でもあった。「社会進化説」は封建主義から資本主義を経て社会主義に進化するものとして、唯物史観にも使われたくらい社会主義と縁が深いものであったが、同時に適者生存、弱肉強食を正当化する理屈でもあり、真正面からこれを唱えることは社会主義者にとっては抵抗があったに違いない。こうした矛盾した両面の影響の中で進化論とその批判は受け取られたのであった。大杉がダーウィンの『種の起源』を翻訳したのは大正三年から四年にかけてであり、『昆虫記』訳出の時期(大正十一年ごろ)より早い。余談ながら進化論に関しては、昭和天皇が生物学者の姿を持つことが、戦後から世に広められたと誤解されているが、実は戦前からマスコミを通じて積極的に広められていた。「科学者としての天皇」は戦前社会が求めた一面でもある。ただし「現人神」としての天皇と「科学者」としての天皇が特に進化論関連について矛盾しないかということについては敏感な問題だったようで、天皇の研究が生物の形態研究にとどまっており、進化論の哲学的理論に進んでいないかは西園寺公望なども注目している(右田裕規『天皇制と進化論』163頁)。そういえば北一輝は昭和天皇を「クラゲの研究者」と軽蔑するように呼んでいたという話が渡辺京二などによって語られ、北が尊皇的でなかった証として語られる。それはあたっているかもしれないが、進化論と現人神の関係を見るとまた別の側面もあるように思える。
 さきほど社会ダーウィニズムについて書き、大杉が『昆虫記』の訳者であると同時に『種の起源』の訳者でもあることを不思議だと書いたが、実はダーウィンの進化論は、強いものが勝つというよりは環境に適用したものが勝つという内容であった。その意味では、「進化論」と『昆虫記』の両立も可能だったのかもしれない。
石川三四郎もまた『昆虫記』を部分的に訳出しているが、そこでは「彼等は淘汰だの、隔世遺伝だの、生存競争だのを持ち出して論証する。成る程堂々たる言葉だ。が、私には寧ろ幾分かの、つまらない事実のほうがいゝ」と述べ、生存競争を否定的にとらえた(「昆虫哲学序論」『近代日本思想体系16 石川三四郎集』196頁)。これは抄訳だからこそ石川の関心がどこにあったかが伺えるのである。
 現行版岩波文庫の『昆虫記』を訳した林達夫と山田吉彦(きだみのる)は思想的信念から『昆虫記』を訳したのであろうか。二人ともフランスびいきであったようだが(『歴史の暮方』中公クラシックス版38頁)、それだけであろうか。
 林達夫の妻は和辻哲郎の妻の妹だった。和辻と林は戦後『思想』という雑誌でともに活動した。林はマルクス主義からの脱皮を自力で行おうとした。少なくとも我が国では、『昆虫記』はアナキズム的思想を持った人物に愛されてきた。アナキストは資本主義への批判者であることと同時に共産主義への批判者でもあった。林がアナキストであったかはわからないが、少なくとも「資本主義への批判者であることと同時に共産主義への批判者でもあった」ことは間違いないだろう。
 きだみのるは友人関係にアナキストを持ち、旧制中学のころから幸徳秋水に関心を抱くなどの思想遍歴をたどっている。ただしきだ自身がアナキストであったかどうかはよくわからないし、それが『昆虫記』の訳と関係するのかどうかも不明である。以下わかったことだけしばし書き留めておきたい。
 きだは「『昆虫記』のファーブル先生が教えてくれること」として、「虫は本能をモーターにして動く機械」であると言う(『人生逃亡者の記録』21頁)。また、人々は「考えないで行動するときは人間らしい行動を、即ち社会を勘定に入れた生活をなし、考える動物として行動する場合、人間の尊厳を失った動物となる」と言う(『気違い部落周遊紀行』113頁)。きだは、伝統にのっとり相互扶助をしながら生活することを「人間らしい行動」とし、自己利益に基づいて行動することを「人間の尊厳を失った」行動だとみなす。考える、考えないを本能に基づくか理性に基づくかの対比と同様に考えてもおそらく問題あるまい。きだが『昆虫記』に託したのは理性(=自己利益)ではない本能(=相互扶助)の生活だったのかもしれない。
 ほとんど連想ゲームでしかないが、片山杜秀は『日本の右翼思想』で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』を使いながら、脳ではなく体全体で考えることが必要であると考える思想があったことを論じ、それが近代個人主義に反発するものであり、共同体みんなが生々しくつながりたいという願望を持っており、ファシズムと親和性が高いとまで言う(196頁)。片山はそれを踏まえて三井甲之など「右翼」思想家の身体論に結びつけていくわけだが、果たしてそれは「右翼」のみの思想的特徴だったのだろうか。
 『昆虫記』を思想書として読む人は少ない。だが、近代の日本におけるある種の思想において、理性ではなく本能に基づく秩序の模索の関係から、『昆虫記』が注目されたことは間違いない。この問題につては今後も関心を持ち続けていきたいと考えているが、ひとまず中間報告としてここまで論じた次第である。

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◆今後の更新予定

 今書き進めている長編物のブログ原稿は以下の通り。

・地理と日本精神

・陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望―

・伝統と信仰

・皇室中心の政治論

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

・秩序とは何か

・世界文明のために

・武士と商人