「社会について」カテゴリーアーカイブ

「言論の自由」と伝える覚悟

 自民党議員が、勉強会の中で「マスコミをこらしめる」、「沖縄の二紙はつぶさないといけない」などと発言した。これに対し国会に参考人として招かれた鳥越俊太郎氏が、「そのへんの居酒屋で酔っ払ってマスコミつぶしてしまえと言っているのとわけが違う」と批判したようだ。全くもってその通りである。

 ただ、鳥越氏が同時に「これほどマスコミに過敏に反応した政権はない。その結果、報道をやめておこうという一定の萎縮効果をうんでいる」と発言したと言う。このことを知った時、マスコミの側にもあるお上への依存体質、ぬるさを感じないわけにはいかなかった。

 「言論の自由」は重要なことだ。だがそれを所与のものとしすぎると、物事の本質を見失うことがある。

 人々は忘れてしまったかもしれないが、今年の一月、イスラム教を風刺する絵を掲載していたフランスの「シャルリー・エブド」紙がイスラム原理主義者に銃撃された事件があった。そのときフランスでは「言論の自由を守れ」という大合唱が起こった。佐伯啓思氏は、テロを擁護するわけではない、と前置きしたうえで、表現の自由を守れと口々に叫ぶほどのものか、という感想が湧き上がってくる、と述べた(『従属国家論』21頁)。同感である。
 何かを発言するからには相手がそれに反応するのは当然想定しうることで、それゆえ当然の覚悟を以て言論は行われるべきだろう。「言論の自由」「表現の自由」というイデオロギーは、時にこの当然の出来事を見えなくさせる。

 今回の自民党議員の発言問題も同様である。マスコミは政権批判を行うからには当然それなりの反応があるかもしれない、ということは当然想定しておくべきで、今更「委縮」する方もどうかと言わざるを得ない。
 もちろんこれは自民党議員も同様で、勉強会の場でこんな飲み屋の放談程度の議論をして国事を考えたつもりになっているとしたらとんだお笑い草である。ましてや沖縄の二紙をつぶすのに、「経団連にお願いして広告を引き上げさせよう」などと言うちんけな方法を取ろうというのだから嘆かわしい。せめて「私の政治生命をかけて二紙を廃刊させる」などと言えば悪役として映えるものを。それを経団連に揉み手しようというのだから、自民党だか文化芸術懇談会だか知らないが、きっとこの組織は経団連の下部組織に違いない。国会議員の権力の濫用にすら当たらない愚劣ぶりなのである。

 かつて「アンポハンタイ」と叫んでいた時代、岸信介はある種の人々にとって「倒すべき巨悪」であったに違いない。政治的に認めがたいと思っていただろうが、倒すべき相手であると認め、危機感を持っていただろう。
 だがこの議員や近頃の自民党には「倒すべき巨悪」であるというある種の畏敬の念すら生まれえない。沖縄の二紙をつぶしたいというのなら、協力はしないまでもこの議員たちのやりたいようにさせてあげたらどうだろうか。どうせこの程度の連中には何もできやしないのだ。

 言論の自由はあったほうが良いに違いないだろうが、なければないで構わない。権力がいくら弾圧しようとも人々の口を完全につぐむことなどできやしないし、人々の心まで操れるはずがない。そのようなことを権力がたくらもうとも、必ず義憤に駆られた志士が草莽より出でて、世を改めようとするに違いない。人に物を伝えるからには、そのような覚悟で物事を論じる人間でありたい。

企業経営者の世襲について

 大塚家具の騒動の際には、あまりにも創業者一家のことばかり考えているので批判する側に回り、織原さんとニコニコ生放送も行った。創業者一家が自分のことばかり考えている例は他にもある。例えばパナソニックでは、松下幸之助が細かい人事にまで介入し、ここも親子の対立(パナソニックの場合娘婿だが)があったために、人事がゆがめられ、組織風土が荒廃してしまったのである。この辺りは、岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』に詳しい。創業者一家の内紛が会社の人事抗争にまで及ぶのは、大塚家具ばかりではない。
 しかし、こうした一部例外を除けば、基本的に私は企業経営者が創業者一家などで世襲されることに肯定的である。

 資本主義が進めば進むほど、企業の寿命は短くなる。競争が厳しくなればなるほど、市場のニーズは多様化し、ニーズ自体の変化も激しくなるからだ。
 企業は資本主義の重要なプレイヤーであるが、人々の生活を担う機関でもある。企業の寿命が人々の労働可能年齢より短くなれば、様々な会社で勤めなければならず、人々の生活は不安定化する。雇用を維持することは企業の大きな社会的責任でもある。

 企業寿命を延ばすためには、自社の利益だけであなく業界や社会全体の利益を考えることが重要だ。自由競争じゃないかといって、利害関係者に配慮しない激しい競争は社会に害をなす。むしろ、お互いに利益があるような関係の構築を目指すべきであろう。競争が切磋琢磨ではなく淘汰となった時、社会は息苦しいものとなる。

 本題に戻って企業経営者の世襲についてである。
 世襲の経営者は、業界や日本社会など、広くて時間的に長い視野で物事を考えることができる。自分の息子や娘などに、なるべく良い環境で引き継がなければならないからだ。サラリーマン社長は大概不文律的に任期が決まっていることが多く、長期的な視野で考えることは本人の利益にならないことが多い。短期的に利益を上げることに目線が向きがちになる。

 経営者は天下りで決まる場合がある。
 天下りは決して官僚だけの事象ではない。民間どうしにおいても、金融機関やメーカーなどの取引先から経営層が送り込まれることは決して珍しいことではない。
 この天下り社長が、出身元の方向ばかり見る(ことを求められる)人物だった場合、企業風土は一挙に荒廃する。出身元のために無茶をするのは大概この類であろう。

 ところで今、(倒産ではなく)廃業する企業の割合が高止まりしている。原因は高齢化で、中小企業の経営層が高齢になって体が思うように動かない状況の中で、引き継ぐ相手も見つからず、大きな借金等もないうちに廃業を選ぶのだという。日本の企業の9割は中小企業だが、特に小規模の企業がこのように廃業という道を選ぶのは悲しいことではある。利益がなかなか上がらない企業は、世襲であろうとそうでなかろうと、引き継ぐ相手すら見つからないという世の現実である。決して創業者一家だから甘い汁を吸っているわけではない。

 このブログでたびたび書いてきたように、資本競争そのものの問題点も見過ごすわけにはいかない。だがマルクス主義のように悪辣なブルジョワジーを除けば問題が解決するかのような短絡的な発想は誤りである。市場の側面と社会の側面、両面から考えなければならないのである。