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高山彦九郎と久留米①─三上卓先生『高山彦九郎』より

●なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか
 なぜ久留米が高山彦九郎終焉の地となったのか。それは、久留米における崎門学の興隆抜きには語ることができない。特に、この地の崎門学浸透を主導した合原窓南・その門人と、彦九郎の盟友・唐崎常陸介との交流は大きな意味を持っていた。
 自ら昭和維新運動に挺身した三上卓先生が、『高山彦九郎』(平凡社、昭和15年)を著したのは、昭和維新運動を高山彦九郎から真木和泉に至る朝権回復運動の継承と位置付ける意識が強まったからだと考えられる。『高山彦九郎』は、権藤成卿門下で久留米史研究者の井上農夫が収集した史料に基づいて書かれており、九州における崎門学派の思想と運動の展開について独自の意義づけをしている。
 同書に基づきながら、久留米が彦九郎終焉の地となった意味について考察していきたい。同書は合原窓南の役割に注目し、合原に師事した広津藍渓が書いた碑文を引いている。
 「先生生れて顛悟、自ら読書を好み、年十一出家僧と為り法を四方に求む。既に壮にして自ら其非を悟り、蓄髪儒と為り、講学愈々篤く、礪行益々精しく、名一時に震ふ。吾藩宋学の盛んなる、蓋し先生先唱を為せば也。寛永六年、梅巌公(第六代藩主・有馬則維、引用者)召して俸を賜ひ、以て学を士大夫に授けしむ。生徒日に夥し、居ること十余年疾を以て隠を上妻郡馬場村に請ふ。是に於て国老以下諸士、相追随して道を問ふ者日夜絶えず、僕従衢を塡む。大悲公(第七代藩主・有馬則維)立を延いて侍講と為し、更に稟米二十口を給し、秩竹間格に班す。又其老ひたるを優し、籃輿(らんよ)に乗つて以て朝し、且つ朝に在つて帽を著し寒を禦ぐを許す、蓋し異数と云ふ。元文二年八月二十日疾をもて卒す、享年七十五。〉
[続く]