高山畏斎の流れをくむ継志堂、会輔堂、川崎塾の経過について、新谷恭明氏の博士論文『近代日本における中学校教育成立に関する研究 : 中学校教育の地方的形成と統合』(平成七年)に基づいて整理しておく。
高山畏斎は手習いを学んだ後、村の医師である牛島守善に漢学の手ほどきを受け、その後独学で学問を続けた。そして三十歳を過ぎて大坂に出て、闇斎学者である留守希斎に入門した。そして、天明三(一七八三)年、久留米藩に抜擢登用されたが、翌年志半ばで病死した。
畏斎は晩婚であったため、その子茂太郎はまだ幼く、彼の遺塾はその弟子たちが交替で会主を務めて維持した。嫡子茂太郎は幼少であったため高弟の古賀要蔵が養育することとした。
この間、畏斎の学問を継承しようとしたのが、畏斎のみならず、崎門正統派の西依成斎に学んだ今村竹堂(直内)であった。新谷氏は次のように書いている。
〈今村直内は訳あって父母とともに母の実家(上妻郡新庄組大庄屋矢賀部氏)に身を寄せていたが、「幼にして穎敏、長じて高山金二郎に師事し、其高足たり、金二郎歿するに臨み、京師に遊び、西依儀兵衛(成斎)に師事せんことを勧む」とはじめは高山金次郎に学問の手ほどきを受けた。そして金次郎の勧めで京都の西依成斎(闇斎学)の門に学ぶことになった。母の実家である矢賀部氏の当主矢賀部良八もまた高山金次郎の門弟で…今村直内が業を修めて帰国すると、この矢賀部良八は自宅に私塾会輔堂を開き、従兄弟今村直内を堂主としたのである。しかし、今村直内は文化二年四十三歳で早世した。……今村直内の歿後はしばらく会輔堂は開業されなかったのである〉
その後、茂太郎の実力も久留米藩内において評価されるようになった。ところが残念なことに茂太郎が病気となり、自ら生計を立てることが困難となった。そこで、文化十三(一八一六)年、塾の一部を役人に貸し付けて、その席料を茂太郎の生活費とすることとした。当時の塾の筆頭世話人が本庄星川(本庄一郎)であった。新谷恭明氏は、「この措置によって茂太郎の当面の生活の保障はなされたが、継志堂の教育活動は中断せざるをえなくなったと考えてよい」と書いている。
こうした中で、畏斎の学問の命脈を保ったのが、本庄星川の川崎塾であった。新谷氏は、本庄について次のように記している。
〈彼の父清助は高山金次郎の門弟の一人であり、金次郎歿後に継志堂を創設するに際してもその発起人に名を連ねている。本荘一郎は十一歳の時に高山茂太郎に従って肥後に赴き多くの学者にあっている。また十九歳の時には今村直内に従って再び肥後に旅をしている。言うなれば本荘一郎は継志堂、会輔堂いずれとも深くかかわりながら学問的な成長を遂げたといえる。そして昌平黌諸生寮に学び、帰国後は上妻の有力な在村学者として活躍していた。そして文化十四年に山内村に私塾川崎塾を開いたのである〉
その後、本庄は天保八年には明善堂助教にのぼりつめたが、江戸での勤務を命じられて、川崎塾の維持が困難になった。そこで天保九年、牛島益三を堂主として継志堂を復興させたのである。ただ、継志堂の資産継承問題があり、塾舎を建てて継志塾を再興したのは、天保十四(一八四三)年のことである。さらに本庄は、弘化元(一八四四)年には、会輔堂を再建して高橋素平(高橋嘉遯)に運営させることとした。
「高橋嘉遯」カテゴリーアーカイブ
古松簡二①─篠原正一氏『久留米人物誌』より
篠原正一氏の『久留米人物誌』に基づいて、明治四年の久留米藩難事件の全貌に迫っていく。小河真文に続いて古松簡二の人物録を引く。
●筑波山挙兵に参加
〈古松簡二(清水真郷)
上妻郡(八女郡)溝口村の医師清水濳龍の次男、母は儒者今村竹堂の長女。初めは清水真郷と称し、文久三年三月脱藩上京して後に古松簡二と称した。名は淵臣、宇は子滋、蕉牕と号し、また紫隠・終隠等の別号がある。高橋嘉遯の塾「会補堂」に学ぶこと数年、その名声は郡中に高くなり、安政元年十月、米藩が俊秀の士二十名を選んで、藩校明善堂の居寮生とした時、それら藩士に伍して、田舎医の子すなわち庶民から唯一人、真郷が選ばれた。時に二十歳。当時、士庶の区分が厳しかった事もあり、間もなく辞して父の命により肥後の村井洞雲の塾に入って医を学んだ。つづいて友人樋口真幸と江戸に出て、安井息軒の塾に入り、三ヵ年経学を学んだ。文久二年、帰郷して兄濳庵(後ち寿老)と医業に従った。真郷はかねがね勤王の志を抱いてひそかに勤王有志と交を結んでいたが、天下いよいよ騒しく成ると座し居るに堪えず、文久三年三月、池尻岳等と脱藩上京し、国事に奔走した。水戸の武田耕雲斎の筑波山挙兵に参加して敗れ危地を脱しのがれ、九十九里浜の漁家に身をよせた。漁業に従うこと一年の後、京都に潜伏し、姓名を古松簡二と改めた。慶応二年徳川幕府が長州を討つ時、密かに長州に入ろうとして広島にて幕兵に捕えられ、三年間獄につながれた。明治元年、王政復古と共に赦されて京都に出た。時に大久保利通の大阪遷都論の出た折りで、古松はこれに反対し木戸孝允と激論し、大久保・木戸らの政府要人に不満を抱いて同二年に帰国した。米藩は古松を中小性格に登庸して藩校明善堂の教官に任用した。古松の講義は章句にとらわれず、気節を尚ぶべきを説き、その論は人の意表に出たが、生徒はすべて古松の気慨に心服した。政府要人に対する不満の心は政府転覆の思想にいつしか凝まり、小河真文と密議をなして、その計画をめぐらすに至った。〉
☞[続く]