「小河真文」カテゴリーアーカイブ

小河真文④─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●大楽源太郎を殺害
 越えて十六日、反政府挙兵の陰謀が大楽源太郎の口から洩れては藩主の身に禍が及ぶとして、捕縛をまだのがれていた島田荘太郎・川島澄之助以下十四人は、大楽源太郎と弟・門人・従者の四人を殺害した。この大楽殺害者もすべて捕縛され、続々と関係者は投獄され、明治四年十二月にはそれぞれ判決が下された。小河真文は斬首、元大参事水野正名二・元権大参事吉田博文は終身禁獄、それに古松簡二は死一等を減じて終身禁獄、寺崎三矢吉も終身禁獄となった。十ヵ年禁獄の島田荘太郎以下、それぞれ処罰され、ここで明治維新に功績あった久留米の人材、その多くを失ってしまった。
 小河真文一生の二大事は、美作暗殺害と新政府転覆運動であった。前者は成功して身の栄達をえ、後者は失敗して身を亡ぼした。人生二十五年の小河真文のこの明暗二つの姿を知るために、前者の姿として、寺崎三矢吉手記の「小河真文」を付記し、また後者の姿として、読解困難のきらいはあるが、弾正台取調べの小河真文口上書を付記しておこう。なお、口上書は大正三年「同郷会誌」(旧有馬家修史所発行)に収録されたものである。明治二年帰国後の古松と小河との関係がよく理解できる記録であると同時に、大楽事件及び反政府運動の根本史料である首謀者の口供であるため、事件の概要・本質が真正面から叙述されており、「藩難記」・「勤王党事蹟」によって細部を補えば、右事件の全体的把握は容易である。
[続く]

小河真文③─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●主戦論者・寺崎三矢吉の敗北
 明治政府はかねがね、全国の反政府主義者たちの行動を探知し、その大きな拠点久留米藩に対し、四条隆謌陸軍少将(太宰府に一時遷居した五卿の一人)をして、その鎮圧に当らせた。四条少将は一応、巡察使として明治四年一月二日久留米に入って視察した。そして同年三月、井田譲と太田黒惟信を参謀として、山口・熊本二藩の兵を率いて日田に駐屯し、容疑者の検挙を峻烈に行い始めた。同月十三日、大参事水野正名は免官されて、沢之高(軍務大属)・小河真文の二人と共に、不審の筋ありとして日田出頭の命を受けた。途中善導寺にて帯刀を取り上げられ、綱かごで三人は日田に護送された。これより前、三月十日、東京では藩知事有馬頼咸が弾正台に召喚されて尋問を受け、同日謹慎を命ぜられた。同時に政府は前橋(知事は頼咸の弟松平直克)津和野(知事は頼咸の兄亀井茲監)両藩に赤羽の久留米藩邸の警備を命じた。水野正名にとっては藩主にこれ以上の禍を及ぼすことは堪え得られなく、極力妄動を説諭して鎮撫につとめた。これにより勤王党の多くは挙兵開戦の志を捨てたが、主戦論者の寺崎三矢吉は軟化しなかった。三矢吉は断然開戦して先ず四条少将の兵を撃退したら熊本藩・豊津藩(小倉)・秋月藩・島原藩・岡藩等では、或は藩を挙げて、或は同志者のみ、久留米藩の挙兵に応じて蹶起し、次に京摂・東京・東北の同志者も奮起するに違いないと開戦論を力説した。しかし恭順説多数で、寺崎の開戦論は敗れた。しかし寺崎はこの考を捨てず、水野正名ら召喚の前日、太田要蔵らを伴って小河に会い、明日の護送の途中、三者の身柄を奪い取り、これを機に兵を挙げることを迫った。すると小河は「好し断行せよ」と寺崎の手を固く握ったという。これも恭順に傾いた同志の容れるところとならず、ついに決行できなかった。寺崎三矢吉・太田要蔵ら十人も翌十四日、捕縛されて日田に護送された。
[続く]

小河真文②─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●「西洋心酔の政府を倒壊せん」
 明治三年四月五日、山口藩反乱の脱徒、奇兵隊の首魁大楽源太郎は古松簡二を頼って久留米藩領内に潜入した。古松は小河真文にその潜匿擁護を頼んだ。そして大楽を隠匿擁護している中に、政府転覆の挙兵計画が企てはじめられた。明治四年二月十三日、府中町(現・御井町)の宮川宅で小河真文・立石正介・大楽源太郎・寺崎三矢吉の四者会合の大密議が行われた。当時二十一歳だった寺崎三矢吉は、その密議の様子を次のように手記(「明治勤王党事蹟」48頁)している。
 「立石は京都有志者惣代の資格を以て久留米脱藩人鹿毛松次・笠林太郎(註、旧七生隊員で明治三年四月二十九日、鹿毛・笠松・吉田藤太三人で、奸商の名のある米屋町の富商茣座屋庄助宅に乱入して番頭を切り、脱藩上京して国事尽力。後ち捕縛されて明治四年十二月三日、吉田・鹿毛は死刑に処せられ、笠は獄死)と同伴久留米に来たりしものにて、中島文蔵(小河の旧臣)が案内して宮川宅に入り、大楽源太郎(当時田中隆吉宅に潜伏なりと思ふ)は、石橋六郎・柳瀬三郎・田中隆吉等の案内にて宮川宅に入り、余は約束に依り府中町入口の三井寺の門前道の南側畑中の櫨木に馬を繋ぎ、水野大参事と談話しおそくなれりと言ひ、小河が今日の如く緊張せられたることは末だ嘗て見ざりしなり。而して余を伴ひて宮川宅に入り、小河・立石・大楽、及余の四人が密議数刻に及び、京都同志が青蓮院宮を奉じ久留米に下向して義兵を挙げ、西洋心酔の政府を倒壊せんと決議せり(此時は古松は不在中なり)」
[続く]

小河真文①─篠原正一氏『久留米人物誌』より

●第二維新を夢見て─「明治勤王党」
 篠原正一氏の『久留米人物誌』(菊竹金文堂、1981年)に基づいて、明治四年の久留米藩難事件の全貌に迫っていく。
 まず、小河真文(おごうまふみ、小河吉右衛門、池田八束)についてである。
 〈小河真文は明治四年の藩難事件関係者として、最も重い判決を受け、明治四年(一八七一)十二月三日、斬罪に処せられた。年僅か二十五歳。その罪科は「朝憲を憚らず、容易ならざる隠謀相企て候始末、不屈至極に付き、庶人に下し斬罪」である。
 真文は単なる久留米藩内騒乱の罪でなく、全国的蜂起にくみした国家反逆の罪に問われて斬首された。この時、従四位愛宕通旭・従四位外山光輔の両卿は士族に降されて切腹、高田源兵衛(熊本藩鶴崎有終館総督―別名川上彦斎)・初岡敬二(秋田藩権大参事)・疋田源二(愛宕卿家扶)・古賀十郎(柳河藩大巡察)は庶人に降されて斬首刑に処せられた。
 小河真文の生涯二十五年間中の二大事は、前にしては、参政不破美作殺害の首領として慶応四年(明治元年)一月二十六日夜に、美作を暗殺して久留米藩の動向を佐幕から勤王へと大回転させた事であり、時に二十一歳。後にしては、山口藩脱徒大楽源太郎を擁護隠匿すると共に、全国的な反政府運動に気脈を通じて挙兵を謀って捕縛され、明治四年十二月三日、東京伝馬獄の刑場にて斬罪に処せられた事であり、時に二十五歳。
 維新の大業成って新政が布かれた。しかし、維新に際し勤王に生命を賭した者の中には、新政に対する不平・反感を抱く者が多かった。こういう者たちはその反感昂じて、全国的に散在する不平分子と気脈を相通じ、新政府転覆を謀り、第二維新を夢みるに至った。小河真文と盟友古松簡二はその仲間であった。そして、旧七生隊や旧応変隊の同志がこの二人の周辺に集まり、俗に明治勤王党と称する党ができた。この党の中には征韓を主張し、九州をはじめとして四国・中国・京都・東京・遠く東北秋田県までの同志と連絡し、西洋化の政府を倒し、征韓を遂行しようと計画を進める者もいた。その急先鋒は寺崎三矢吉であった。寺崎は明治三年春ごろ、太田要蔵と共に、島原藩の同志を訪ね、二分金五十両包み六箇を贈与し、征韓のために島原藩所有の蒸汽船借用を申し出ている。
[続く]

「明治四年國體派排除事件」の背景② 士族反対派政権樹立につながる「脱隊騒動」

 石井孝氏は、「脱隊騒動」がはじめから全国的士族反乱の一環として計画されていたと述べ、以下のような事実を指摘する。明治二年十一月、山口藩士三名が熊本藩の飛地、豊後鶴崎に尊皇論者として著名な河上彦斎を訪い、援助を請うている。明治三年一月の常備軍檄文には、脱退の徒が「私かに肥後・久留米・柳川其外へ使者を遣し、国外ニ党を結んで不軌を謀り」とある。
 大楽源太郎は明治三年三月五日、山口へ連行される途中で脱走、一時姫島に潜伏し、九州の同志と連絡をとった。大楽は三月下旬、熊本藩の飛地である豊後鶴崎に赴き、この地で藩の兵学校「有終館」を指導している高田源兵の庇護を受けた。高田は、大楽のかつての同志である。
 ところが、五月には熊本藩で実学党が政権を掌握し、高田ら尊攘派に対する弾圧が強まった。その結果、大楽らは熊本に潜伏することができなくなり、竹田・日田を経て、筑後川を下り、久留米に向かった。このとき大楽が頼ったのが、久留米藩士族・古松簡二である。古松は安井息軒に師事した後、文久二年に池尻岳五郎とともに脱藩して筑波山挙兵に加わった人物である。
 久留米藩の政権は尊攘派が握っていた。久留米藩では明治元年一月に、佐幕派の参政・不破美作が、小河真文ら尊攘派によって暗殺され、同年五月、尊攘派の水野正名の政権が成立していた。久留米藩政権が尊攘派だったからこそ、大楽は庇護を受けることができた。 続きを読む 「明治四年國體派排除事件」の背景② 士族反対派政権樹立につながる「脱隊騒動」