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アマゾンレビュー「GHQが恐れた崎門学」

坪内隆彦著『GHQが恐れた崎門学』についてレビュー致しました。

脈々と継承された國體思想の大義
親から子に、師匠から弟子に脈々と國體思想の大義は継承、発展され、ついに明治維新に至った。
本書はこれを証明するために維新志士を鼓舞した5冊の本を取り上げ、その本の内容ばかりではなく、周辺の情報を織り交ぜながら、大義の継承の歴史を描いている。

補論として書かれた原田伊織批判、大宅壮一批判も秀逸で、大義からではなく権力闘争と利害関係からしか歴史を見れない不毛さを論じている。

ちなみに本書で批判している原田伊織『明治維新という過ち』についてもレビュー致しました。

浅薄な幻想史観
著者は今の安倍政権を首相の家系から「長州」とみなし、「長州」に日本が支配されている状況を明治維新に遡って批判している。
だがこれは歴史を見ない(あるいは表面上見たふりをしているだけの)ファンタジーである。
既に戦前においても護憲運動や宮中某重大事件などで「長州閥」は解体させられていた。著者が口を極めて非難する大東亜戦争は「賊軍」の家系を持つ東条英機によってはじめられたではないか。

この本は維新期をダシに安倍政権を貶めようとする意図で書かれたものであり、噴飯物である。
わたしも安倍政権には批判的ではあるが、こういうやり口は好まない。

なお、本書を徹底批判した本に、坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』がある。

原田氏の坪内氏への反論も聞きたいところである。

アマゾンのレビューを書きました 二

またアマゾンのレビューを書かせていただいたのでご報告します。

井尻千男『歴史にとって美とは何か』
本書は井尻の遺稿集である。単行本未収録の論文を集めたもので、主要論文に「醍醐帝とその時代」が挙げられる。
宇多天皇、醍醐天皇の時代を「シナ文化への憧憬」から「天皇親政」「自国文化への確信」への大転換期と位置づけ、摂政・関白の廃止、遣唐使の廃止、古今和歌集の編纂をその時代精神の表れであるとみた。本論文は単に過去の歴史を描いたのではなく、過去を通して國體の大理想を強く訴えかけている。
「醍醐天皇とその時代」の初出は平成二十五年に「新日本学」に掲載されたものである。井尻はその翌年に入院し、平成二十七年に亡くなった。本論文は井尻の最期に遺した論文といってよい。

竹葉秀雄『青年に告ぐ』
学問という「道」
現代人は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、精神の救済を後回しにしている。心ある人でさえ、その主張は単純な政策論議に限定されていて、その奥に潜む魂を問題としない。『青年に告ぐ』は、「使命に生きる」ことを称えた本である。
孔子も、釈迦も、キリストも、ソクラテスも、マホメットも、道元も、中江藤樹も、吉田松陰も皆その青年時代に、内奥の神の声を聞いて、その道に生きた人たちである。哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。
学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、竹葉秀雄にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。本書は竹葉のそうした姿勢がうかがえるものとなっている。

藻谷浩介『里山資本主義』
里山から見る新たな価値
資本主義はマネーゲームの域にまで高められ、現実の生活と全く乖離したところで巨額のカネが動くようになっていた。その体制の崩壊がリーマン・ショックだったと言ってよい。本書はそうした認識の下に、里山を媒介とした地産地消の経済を取り上げていくものだ。中でもエネルギーの地産地消の事例は本書でたびたび取り上げられており、エネルギー効率だけを目的とした発電ではなく、その地で取れるもので、環境に負荷をかけることなく発電し、生活する方法を模索している。
今の日本の都市部の経済の仕組みは複雑に入り組んだ流通経路により成り立っているが、ひとたびその流通経路が途絶えてしまうと何一つ生活できないコンクリートジャングルになってしまう。生きるのに必要な水、食料、燃料をお金を払わずとも、完全にとまではいかなくとも、ある程度自給できる社会こそ本書が豊かな生活としてたたえるものである。金銭は所詮物と物の交換に使うものであり、それ以外ではない。しかし資本主義に染まりきった生活では金銭は単なるものの交換手段ではなくそれ自体が一つの価値になって、カネを持つものが持たぬものより立派で上等な人間であるかのような観念が人々に染み付くことになった。だが金銭のみに守られる人生はさもしく、金銭以外のものに支えられる人生は豊かだ。

いずれも本ブログもしくは活字媒体にわたしが書かせていただいたものからの部分的な抜粋です。

アマゾンのレビューを書きました

アマゾンのレビューを書かせていただきました。

まずは坪内隆彦氏の『維新と興亜に駆けた日本人』である。

本書は西郷南洲から内田良平まで、明治~戦前昭和期に活躍した國體の理想を追求した20人の評伝である。
著者が編集長を務める「月刊日本」の連載をまとめたもので、連載の全体像およびそこからの単行本収録者は著者ホームページで示されている。

著者は、「私利私欲を優先させ、長いものに巻かれ、行動する勇気を持たない。国家の理想を描かず、愛国心を持たず、ただ強い国に阿る。そのような政治家や言論人は、決して本物の日本人ではない。」(はじめに)と強く語る。では著者にとっての「国家の理想」とは何か。「国体の理想の追求はまた、物質至上主義、人間中心主義、競争至上主義といった西洋近代文明のあり方を乗り越えようとする文明戦でもあった。」(同)という。本書は、反共を旨とした戦後の右翼思想に一石を投じるとともに、「国家の理想」を抱いた真の日本人のあり方を戦前の日本人の生き様を通じて描こうとした労作である。

次に同じく坪内隆彦氏の『アジア英雄伝』である。

興亜論者がアジアの志士とともに目指した西洋近代文明の克服。この大理想が完全に忘却され、戦後日本はいまだに対米従属の状況に甘んじている。これは占領政策によって自虐史観と物質至上主義を植え付けられたからだという。つまり日本がアジアと向き合うためには、まず国内維新を必要なのだ。

アジア主義は、アジアの広大かつ多様な歴史、宗教、民族、文化を前提としていないといわれる。だがアジア主義はアジアに一様な共同体を確立しようという動きではない。アジアの多様性を、多様なままにその特色を発揮しつつ、相互に認め合うことを理想としている。本書は歴史人物の評伝でありながら、そのような著者の理想が伝わるものとなっている。

本書はそうした興亜論、対米自立の最良の手引きである。

今後もレビューを書くことがあればご報告いたします。

良書紹介 11

 イギリスのEU離脱によって、グローバリズムが終焉を迎えるのではないかと言う甘い期待を述べたが、グローバリズムは意外に複雑だ。というのもグローバリズムは国際企業を中心とした市場秩序が国境や文化の壁を破壊していくというボーダレス・エコノミーの部分と、超大国(アメリカ)の国益に過ぎないものを「これがグローバルスタンダードです」とすべての国に押し付けていくという帝国主義の部分がないまぜになっているからだ。そのどちらもわが国にとって有害でしかないが、その事象を分析するときは両面を見なくてはならないだろう。今回のイギリスのEU離脱については、シティの金融市場の崩壊を見る一方、アメリカの国益の押し付けについては何も毀損されていない。少し自分も浮かれ過ぎていたかもしれないと思ったので記しておきたい。

 さて、久しぶりに良書紹介を行いたい。
井尻千男『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』
小川栄太郎『小林秀雄の後の二十一章』
中島岳志『下中弥三郎』

 井尻千男『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』は井尻の遺稿集である。特に「醍醐天皇とその時代」が素晴らしい。天皇親政―遣唐使廃止―古今和歌集編纂の三つの自称が織りなす当時の精神状況を鮮やかに描き出しており読む者に深い感動を与える。

 小川栄太郎『小林秀雄の後の二十一章』は力の入った書物であり読む者を引き込む力がある。著者が安倍総理礼賛であるため、なかなかその本を開くのが遅くなってしまったが、その著書は非常に素晴らしいものであった。

 中島岳志『下中弥三郎』は数々の思想遍歴のある下中の思想を、本人の発言、行動を丹念におさえることで描き出している。下中の人生を貫くユートピアへの思いを描いたことは大いに興味深いものとなっている。

 良書に触れることは脳のごちそうであり、食事が欠かせないのと同様に脳には読書が欠かせない。その中でも素晴らしい本に出合うことで自らの思想がより研鑽されれば良いと考えている。

言葉は水物

 ものを書く仕事をいくら積み重ねても、決して楽にならないと書いたのは小林秀雄だが、本当に書くという行為は難しい。
 同様に、読むという行為も難しい。読んだつもりでいた本を再読した際に、今まで気づかなかった側面を見出すことなど日常茶飯事である。
 書くからには誰かに読まれ、受け入れられることを望んでしまうものである。だがそれを念頭に置きすぎると書けなくなっていく。文章には毒がなくてはならない。それはいわゆる毒舌と言うことではない、人を死に追い込むような、突きつける牙がなくてはならない。そんな牙を失った微温的議論に価値はない。

 今年三十一歳になり、少しづつ年を重ねてきたが、年齢とともに書けなくなってきている気がするし、読めなくなっている気がする。それは世事に翻弄される人間の世迷いごとでしかないが、読めもしない、書けもしない人生に意義などあるのだろうかと思ってしまう。しかし読み書きには暇な時間が絶対に必要なのである。忙しい人間からはわかりやすい文章は生まれるかもしれないが、良い文章は生まれない。

 書けない時はどう頑張っても書けない。言葉が自分の中から出てくるまで必死に待たなければならない。ある日種から芽吹くように飛び出してくる言葉を逃さないように書き留めておく必要がある。言葉は水物である。書き留めておかないと、せっかく生まれた言葉は誰にも読まれることも書き留められることもなく消えてしまう。

 もし、本を書ける機会がいただけるのならば、読む人が誰かに伝えたい思いが湧き上がってくるような本を書きたい。それがもしできたらものを書く人間の冥利に尽きるであろう。

『絶望的楽観主義ニッポン』より

 野坂昭如が亡くなった。深い思い入れがあった作家ではなかったが、亡くなったとの報道を目にしたとき、ふと『絶望的楽観主義ニッポン』を読んでいたことを思い出した。以下そこからの抜き書きである。

 「タブーのない世の中は自由で、生き易いかもしれないが、「原罪」について思うことのない者が、タブーを失えば、結局、自分の生を何に確かめていいか判らない。自分という存在そのものが悪であるという考え方に、普遍性があるかないか、ぼくには判らないが、以前は、いちばん悪い形で、国家が、あれこれ規制を持ち出し、これに従順でなければ非国民と、決めつけた。それぞれが素直にかえりみれば、自分は非国民に近いと悩んだ。(中略)人間を超えた存在に対し畏れる気持が、どの民族にもある。そして、この根源的な罪の意識、畏れをあえて超えるものが、「恋」だった。(中略)「豊かな」文明とか称せられるかりそめの充足により、日本人は「恋」を失った。」(120~121頁)

 「アメリカの強制による米余り現象に、当初こそ、少し戸惑ったが、たちまち慣れてしまって、文明を摂り入れるのならけっこうだが、農、ひいては文化を殺した。日本の堕落は、このあたりから顕在化して来た。一方では高度成長、豊かな国めざして一直線、あげく、日本人の心は蝕まれた。拠って立つ基盤を失い、当節の荒廃の大本は、農、土の恵みをおろそかにしたことに因る。」(131頁)

 「日本に市場開放を求めながら、アメリカは、日本のミカン一個たりとも輸入を認めていない。かの地でさえジャンクフードとみなされている、ファーストフード屋が日本に氾濫、伝統的日本食は、今や、家庭から放逐されつつある。」(151頁)

 「国全体のレベルが低下、モラルが失せ、秩序が乱れ、ひいては国家の威信が問われるなどとはいわない。現大統領の、歴史上例をみない性的醜聞も、それほどのこともなくおさまる。ただ、ソ連崩壊、資本主義、民主社会、人権尊重の社会こそ正しかったと有頂天に、アメリカがなるのは自由だが、日本がこれに同調するいわれはない。
 今、並べた項目は、すべて上に「アメリカの」がつく。決して、そのまま世界に通用する普遍性を持つものではないし、ましてや、その掲げる理想まことにけっこうだが、「人権侵害」を理由に、他国への干渉は許されない。
 アメリカの唱える「人権」を尊重していたら、国民の大半が飢え死にしてしまう国だってある。「差別」をなくすべく強権を発動するなら、民族相争う事態だって興る。」(251頁)

 思想を多数決で考えたり、敵味方で考えると、得るものが少なくなる。本はその著者の言葉に向き合ってこそ深みが出る。西尾幹二は言う。「本の中に立ち止まって、それが自分に突き刺さってくるような経験をせよ。/自分の弱点を洗いざらい見抜かれて、背筋の寒くなるような体験をしながら本を読め。/あるいは逆に、まるで自分のことを語ってくれているみたいだと、自分の意を代弁してくれている著者の言葉に思わず喜びが込み上げてくるような読み方をせよ。/すなわち、どんな本でもいい、ともかく本の中の一語一語が自分に関わってくるような本とのつきあい方を身につけることが、まず何をおいても大切な人生の智恵の一つである。/自分がいないような読み方だけはしてはならない。」(『男子、一生の問題』220~221頁、/は改行)。

 反支那、反韓国だけではあまりにも底が浅すぎる。そんな予定調和のマンネリでは心が震えない。守ろうとする文化的価値、そしてあるべき政治の在り方を模索することこそ日本人であることに誇りを持つ人間の生き方ではないのか。自民党の応援団に過ぎない連中が多すぎる。自民党は保守政党である。ただし戦後日本を保守する存在である。アメリカに依存し、自国の価値観、主張を持たず、自由と民主主義は普遍的価値なんて言っている。商売に興じて、人々の生活を踏みにじることに頓着しない。外国の方式、もっと言えばアメリカの流行を取り入れる耳の速さだけは持ち合わせ、それが彼らの保身の術となっている。
 言論は政治演説ではない、と私は思う。保田与重郎は「紙無ケレバ、土ニ書カン。空ニモ書カン」と言った。それは比喩ではない。頭に浮かぶ言葉を書き留めておかなければ、どこかに行ってしまう。それを惜しむのである。頭に浮かぶ言葉は天からの啓示であって、後から思い出そうと思っても書き留めることができない。

 小林秀雄は「僕が、はじめてランポオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった」(ランポオⅢ)と書いている。
 私にとっては陸羯南との出会いがそうであった。大学二年生のころであった。神保町で、表にワゴンセールで出ていたのが『日本の名著』の陸羯南、三宅雪嶺であった。600円だったと思う。値段など関係なく、本との出会いは私を打ちのめした。100年以上前に書かれた書物が、私に語りかけたのである。日本には使命はないのか。弱肉強食の国際社会の中で何を守り抜くのか。そんな声を聴いたような気がしたのである。

 野坂の話からそれてしまったが、私と氏は意見が異なるところが多いと思う。しかしそんなこととは無関係に働きかけてくる言葉はある。そんな声をこれからも聴き続けていく。

本を読むとき、学びの中に発見がある時

 清水幾太郎は『本はどう読むか』の中で、「著者が相当なスピードで書いたものは、読者も相当なスピードで読んだ方がよいということである。そうでないと「観念の急流」にうまく乗れないということである」(114頁)と述べている。私もそう思う。

 読むということは単純に情報を仕入れるということではない。著者と語り合い、感性で交流するということである。したがって、自らが考えていたことそのものを揺さぶる力を持つ。著者の観念の流れを追体験するということである。

 本は手あたり次第読むべきである。乱読の弊害など信じない。「「乱読」は私の人生の一部で、人生の一部は、機械の部品のように不都合だから取りかえるというような簡単なものではない。「乱読」の弊害などというものはなく、ただ、そのたのしみがあるのです」(加藤周一『読書論』岩波現代文庫版まえがきⅤ頁)。

 学問的発見は、人間が努力して見つけるといった類のものではない。もうすでにそこにあるはずなのに気づかれないでいたものを見つけていく作業だ。学問は砂金掬いとか、考古学の遺跡発掘作業に近い。学問的発見のためには、論理より情緒とか感性が必要だ。学問的発見は、世間的に見ても初めて知ると言ったものもあるが、解釈の裏返しもある。今までこう解釈されてきたけど、実はこうだったのではないか。そう思うのは決して論理ではない。読書の過程で、著者が自分に語り掛けてくるのである。その言葉を、そのまま文字にしているに過ぎない。

 世界を一色に塗りつぶすことはできない。ありとあらゆる過去があり、著者と対話することで新たな小さな発見が生み出され続ける。利害関係にばかり目が行くと、世界は一様になれそうな気がするが、人間は利害関係だけで動いているわけではない。新たな発見は人類全体にとっても発見であるかどうかはわからない。でもそれはあなたにとってかけがえのないものだ。あなたの心に芯を一本入れるものだ。そんな発見が随所で生み出されれば、世界は一様でいられるはずがないではないか。

中田耕斎が選ぶ良書10

 この良書紹介も気が付けば10回を数えることとなった。

井尻千男『劇的なる精神 福田恒存』
南丘喜八郎『赤子が泣くのは俺の心が泣くのだ』
松岡正剛『山水思想』
岩瀬達哉『パナソニック人事抗争史』
坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』
アジット・K・ダースグプタ著・石井一也監訳『ガンディーの経済学』
昆野伸幸『近代日本の国体観<皇国史観>再考』
佐伯啓思・三浦雅士『資本主義はニヒリズムか』

最近読んだ本から選んだが、いつも通り再読も含まれている。

井尻氏は最近亡くなられたが、お会いすることが出来なかったのは残念でならない。

中田耕斎が選ぶ良書9

 久しぶりの良書紹介である。

若松英輔『生きる哲学』『池田晶子 不滅の哲学』
井尻千男『劇的なる精神 福田恒存』『共同体を保守再生せよ』
大窪一志『自治社会の原像』
長谷川三千子『からごころ』『正義の喪失』
松本健一『海岸線の歴史』
原田武夫『甦る上杉愼吉』
柄谷行人『世界史の構造』
大内秀明、平山昇『土着社会主義の水脈を求めて』
黒岩比佐子『パンとペン 社会主義者・堺利彦と売文社の闘い』
小林よしのり『新戦争論 1』『大東亜論 巨傑誕生編』

 比較的最近読んだもしくは再読した本から選んだ。
 いわゆる保守的な思想傾向の人から無政府主義傾向の人まで、様々な立場の本を挙げている。
 いわゆる右左などという思想分布は全くの嘘で、真贋があるだけである。言葉が本物な人は少々意見が違ったとしても素晴らしいものは素晴らしい。逆に偽物は何を言っても駄目である。

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 ◆今後の更新予定

 今後は(特に今までと変わらないが)下記長編を書く傍ら今回のような単発の記事を更新していく。

・改めて国家とは何か

・伝統と信仰

・国粋主義者と社会主義者

・皇室中心論

・『昆虫記』余話

・陸羯南論

・地理と日本精神

・蓑田胸喜『国防哲学』を読む

 本年年初に書くと言っていた論題から更新している。なお、上に行くほど原稿が完成に近い状態にある。ちなみに本日紹介した良書はすべて上記論題のどれかで使用している。

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27.3.5 今後の更新予定に『昆虫記』余話を入れていなかったので追記。