明治9年10月24日、熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、そして同月28日に山口で萩の乱が起こった。萩の乱を指導したのは、前原一誠ら維新の精神を守らんとする志士たちであった。鎮圧直後の11月10日付の『朝野新聞』には、前原の檄文が掲載されていた。
この檄文は、昭和6年に梅原北明が編んだ『近世社会大驚異全史』(白鳳社)の附録「近世暴動反逆変乱史」に収められていた。40年余りを経た昭和48年、海燕書房が同書新装版を刊行。もとの檄文はすべて漢文。海燕書房編集部が付した大意を引く。
○前原一誠檄文(徳山有志諸君宛て、日付不明)
「昔、我が忠正公(第十二代長州萩藩主、毛利敬親。一八一九~七一)は、朝廷が政権を失っていることを歎き、徳川の遺命に憤り、薪に坐し、胆を嘗め、戈に枕して時代の夜明けを待った。藩士もまた藩主の誠心に感じ、血をすすり、誓いを立てあって、死を決意して我身をかえりみずに(王政復古のために)働き、ついに国内を一つに安定させ、諸事を天皇の手に返すことに成功した。このような時になって、○○○○等の者たちは、天子のそば近くに出入りし、くらべようもなく高い位を得て、先君の偉業を自分の功績とし、自分の思う通りを通し、祖宗の土地をすべて天皇に献じ、そのやっていることといえば、法律をもって詩経・書経となし、収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす。これを要するに、外国人が幅をきかし、国内は疲弊し、神国日本の安危は、朝に夕も量り難い有様である。(○○○○等は)単に先君(忠正公)に対する反逆人であるばかりでなく、朝廷に対する賊臣でもある。最近、熊本の人人が、正義によって万事を断じ、一戦して鎮台の兵を殲滅し、その余勢が九州を風靡したことは、荒廃した世の中にあって実に一大事であった。諸君は先君の賜った衣を衣とし、朝廷より賜わる食を食として、長年を生きてきた。乱賊の人が誅されないままで、それを心の中で耐え忍ぶことがどうしてできようか。事を起こす点では、すでに他県の人々におくれをとりはしたが、成功を収めるかどうかは、まだこれからで、諸君次第である」
このように、前原は明治6年の西郷南洲下野以降の明治政府の姿勢を、「収奪をもって仁義とし、文明を講じて公卿を欺き、外国の力を借りて朝廷を脅かす」と厳しく批判し、「朝廷に対する賊臣」と断じている。
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「明治維新」と「明治という時代」の切断
二つの明治─大久保路線と西郷路線
「明治の時代」と一口に言うが、明治維新の精神は、西郷南洲が西南の役で斃れる明治10年までに押し潰されてしまったことに注意する必要がある。
明治維新の原動力となった思想は、本来明治時代の主役になるはずであった。ところが、実際にはそうならなかった。拙著『GHQが恐れた崎門学』にも書いた通り、早くも明治4(1871)年には、崎門派の中沼了三(葵園)、水戸学派の栗田寛、平田派の国学者たちが新政府から退けられている。
こうした新政府の姿勢について、崎門学正統派を継ぐ近藤啓吾先生は「維新の旗印であつた神道立国の大旆を引降して、外国に認めらるべく、文明開化に国家の方針を変じ、維新の功労者であつた崎門学者、水戸学者、国学者(特に平田学派)を中央より追放せざるを得なくなった」と書いている。
さらに、明治6年には、対朝鮮政策(敢えて征韓論とは言わない)をめぐる対立によって西郷南洲が下野する。それをもたらした明治政府内部の対立の核心とは、野島嘉晌が指摘している通り、維新の正統な精神を受け継いだ南洲と、維新の達成と同時に早くも維新の精神を裏切ろうとした大久保利通の主導権争いだった。
明治7(1874)年2月には、南洲とともに下野した江藤新平によって佐賀の乱が勃発している。さらに、西南の役に先立つ明治9年には、大久保路線に対する反乱が各地で続いた。まず10月24日に熊本県で神風連の乱が、同月27日に福岡で秋月の乱が、さらに同月28日に山口で萩の乱が起こった。
神風連の乱の引き金となったのは、明治9年3月に布達された廃刀令とそれに追い打ちをかけるように同年6月に発せられた断髪令である。文明開化の名の下に、神州古来の風儀が破壊されるという反発が一気に爆発したのである。
萩の乱で斃れた前原一誠は、政府の対外政策にも不満を抱いていたが、特に彼が問題視していたのが、地租改正だった。彼は、地租改正によって、わが国固有の王土王民制が破壊されると反発していた。南洲とともに下野した副島種臣らも、王土王民の原則の維持を極めて重視していた。そして、明治10年に南洲は西南の役で斃れ、大久保路線は固まる。
大東塾の影山正治は、「幕末尊攘派のうち、革命派としての大久保党は維新直後に於て文明開化派と合流合作し、革命派としての板垣党は十年役後に於て相対的なる戦ひのうちに次第に文明開化派と妥協混合し、たゞ国学の精神に立つ維新派としての西郷党のみ明治七年より十年の間に維新の純粋道を護持せむがための絶対絶命の戦ひに斃れ伏したのだ」と書いている。
つまり、明治国家は明治10年までには、大きく変質したということである。むろん、欧米列強と伍してわが国が生き残っていくためには、大久保的な路線が必要であった。しかし、それは維新の精神を封じ込める結果をもたらした。この悲しみを抜きに「明治の栄光」を語るべきではない。 続きを読む 「明治維新」と「明治という時代」の切断