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伝統と信仰 終章 学問と伝統、そして人生

 終章 学問と伝統、そして人生

 平泉澄の『国史学の骨髄』は極めて印象的な一節から書き起こされている。曰く、「歴史があるのは単なる時間的経過があるのではない。歴史は高い精神作用の所産であり、人格があって初めて存在し、自覚があって初めて生じるものだ。志を立てたとき、その人にとって歴史が始まるのであって、志をもたない人間にとって歴史はただの背景でしかない。酔生夢死の徒輩、つまり何の自覚もなく享楽的な日々を送る者は歴史と無縁の連中なのだ」と述べている(1~2頁)。厳しい言葉であり、我々の人生に刃を突きつけるような一節であるが、非常に的確に人生を言い当てている言葉と言えよう。

 相手をすぐ、敵か味方かで判定するのは左翼の論法だそうである。敵であるものの言う意見は皆ダメで、味方の意見は皆良い。それこそが左翼の本質である。そこには論争と言う精神は全くない。敵味方の闘争概念だけである。しかしそこからは何も生まれない。さらなる発展もない。大声で相手の口を封じあう。それこそが左翼的闘争感である。レッテル張りの中傷攻撃がそれに当たる。保守派にあって戦後左翼からの脱却組だからであろうか、その左翼的論法は脱し切れていない。自分の頭で考えないのである。私はそれを非常に憂う者である。
 自分の頭で考えるとは、過去や周囲と絶縁することでも、そこにはなかった全く新しいことを考えなくてはならないということでもない。むしろ自分が考えていることは先人が述べていた、という自覚を持つことが思索ということではないだろうか。
 あらゆる学問は国民、あるいは人類の幸福のため、叡智への敬意のために行われていた。それは公共性への深い信頼からなる行為に他ならない。だが、次第に学問は実証の名のもとに専門家集団となり、社会にその成果を還元するという発想を失った。近年の大学は学術的成果にうるさくなったようだが、それはどうも社会貢献を資本主義的、経済的価値にすり替えているような気がしてならない。
 評価されなかろうとも、黙殺されようとも学究への情熱を失わない。そういう人に憧れる。そういう人にとって学問は、私的利害関係を超えた「何か」であろう。知るということに情熱を注いできた先人。その先人が築いた伝統という大河に参与していく喜びだけで生きていける人。たとえ自分の営みはその大河の一滴に過ぎなかったとしても、その大河に加わっているという自負と伝統の道への信頼で満たされている人。そういう人になりたい。
 近代思想の荒波の中で、人を魂から鼓舞するものが解体されていった。宗教もそうであるし、芸術、文学、音楽、そして学問もそうである。これらのものから人々が本当に理想とすべきものへの関心が薄れてきたように思われてならない。
 見ることは生きることである、と若松英輔は言う(『吉満義彦』275頁)。見ることは傍観者になることではない。学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、ある人々にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。即ち学ぶ(「見る」)ことそのものが人生を「生きる」ことに他ならないのだ。自分が学んだことと自分自身が不可分になる。そうした態度から人を魂から鼓舞するものが生まれてくるに違いない。いまや大学も就職予備校と化しているが、学問は純粋に学問のために行うものであって、学校で学んだ知識を飯のタネにするなど恥ずべき功利主義だとみなすぐらいの風潮があっていい。学問は世のため人のために役立たなければならない。だがそれは金銭的価値に置き換えられるかどうかとは全く別物なのである。
 また、若松は池田晶子の「哲学は造られた教義を拒む。いつも常識と共にあろうとする。常識とは、もっとも高次の意味における信仰である」という言葉を書き留めている(『池田晶子 不滅の哲学』112頁)。信仰とは個人崇拝でも教義や戒律でしばりつけることでもない。少なくとも、個人崇拝や戒律は何かを達成するための手段であって、信仰はそれを自己目的とすることを拒む。「信仰」とは「哲学」とか「常識」に近い。人々が生き、死んでいく中で織りなしてきた悲願とも言うべきものである。

 小林秀雄が伝統について語っていることがある。長いが引用したい。
 「独創性などに狙いをつけて、独創的な仕事が出来るものではあるまい。それは独創的な仕事をしたと言われる人達の仕事をよく見てみれば、誰も納得するところだろう。伝統もこれに似たようなものだ。伝統を拒んだり、求めたりするような意識に頼っていては、決してつかまらぬ或る物であろう。それなら、伝統は無意識のうちにあるのか。そうかも知れないが、この無意識という現代人の誤解の巣窟のような言葉を使うのは、私には気が進まない。伝統とは精神である。何処に隠れていようが構わぬではないか。私が、伝統を想って、おのずから無私が想えたというのも、そういう意味合いからである。
 無私な一種の視力だけが、歴史の外観上の対立や断絶を透して、決して飛躍しない歴史の持続する流れを捕えるのではないだろうか。そういう眼の使い方を、特に審美的な見方として毛嫌いしなければ、何もこれは文化の科学的分析と抵触する筈もない。ただ、分析によって、この眼を得る道はないだけであろう。伝統は、そういう眼にしか捕えられない、そういう眼のうちでしか、その純粋な機能を果さない、伝統という言葉を、感傷的にも侮蔑的にもつかうまいと思い詰めていると、この言葉は、どうもそういう姿を取らざるを得なくなって来るように思われる。伝統は拾うも捨てるも私達に自由なものではない。それは、私達の現存が、歴史的なものだという自覚の深浅だけに関わる観念なのである」(『考えるヒント2』文春文庫版136~137頁)。
 私たちは伝統という大きな船の中でものを考えている。思想や哲学には国籍がある。なぜなら我々は歴史という大きな流れの中にいるからだ。

 人は、一度巡り会った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである、とある小説家は言う。おそらく人だけではなく、本にも、そして自らの心の内に思ったことからも二度と決別することはできない。本は無論、私の心も無限に過去とつながり、そして未来に流れていく。知るとは思い出すということであり、新しく何かを知るということはない。分かるとは無から知識を得るということではなく、今までもやもやとしていた心が整理され、つまり「分」けられ、自覚できるようになったということである。
 人間が知らなければならないことはすべて人の魂の中に宿っている。それは私の心に希望の炎をともす魂の灯篭であるとともに、ときに私を支配する物悲しさの種でもある。歴史は現在から切り離された「過去」ではない。そして「現在」「未来」は過去からまったく切り離された時間でもない。そこには地理的、歴史的、文化的制約がある。なぜなら私の発想の根幹には脈々と続く日本の歴史があるからだ。歴史は私のこころであり、日本人それぞれのこころである。

 人は自らを不遇だと思うと不幸せになっていく。それは福祉の未整備を放置する理屈にされてはならないが、一方でどれだけ物質的に満たされても幸せにはなれないということも知っておいたほうがよい。自らの胎内に生命が宿っているということを知ったとき、女性は母親になる。それはすべての母親が通った小さな決心に過ぎないものかもしれない。なりゆきで、深く考えずに孕んでしまった命かも知れない。でもそれでも母親が自分を生み育てようと決心したからこそ今自分はここにいるのである。両親は完璧な人ではない。時に怠け、自己を正当化し、傲岸で、嘘つきで、カネに汚く、俗物で、小市民的な人間かもしれない。それでも、曲がりなりにも、人は人を育てることができる。
 なぜ、この人の子供に生まれ、この国に育ったのだろう。それを「運命」という言葉で呼べば陳腐になるかもしれない。だが、やはり何か自己決定ではない大きなものに左右され、我々は今ここにいる。そして、次の世代に「何か」を託していく。我々は先人から何を託されたのだろうか。そして次の世代に何を残すのだろうか。信仰は固定化された教義を拒む。伝統の神託は、明鏡止水の境地に宿る。

 今までに様々な論客が様々な表現で「利害関係を超えた大きなもの」について語ってきた。ある人は「神」と呼び、「仏」と呼び、「天」と呼び、「伝統」と呼び、「文化」と呼び、「良知」と呼び、「霊性」と呼び追い求め続けてきた。人は誰しも自分が本当にやりたいこと、自分の才能が活かせるところがあるはずだ。それを天職とか使命と呼んできた。それによって金銭を得る得ないは別として、人が自らの才能を活かし社会に還元していくことは、人として生まれ、数々の偶然と縁から生かされてきたことに対する恩返しともいえるだろう。

 伝統とは言葉であり、言葉とは魂である、とすれば、伝統とはすなわち人生ではないだろうか。即ち伝統を語るものは一層人の人生、人の心に分け入って思考し、発言せねばなるまい。日本人どうしの感情、感性、魂はどこかでつながっている。
 死者も今を生きている。なぜならその死者の言葉が、魂が、今も私の中に息づき、私を揺さぶってやまないからだ。伝統を先例と混同してはならない。ただし両者は思った以上に似通っている。人々に宿る魂に学び、揺さぶられる敬虔な気持ちを忘れた途端、伝統は先例に逆戻りする。先例は制度であり、伝統は心である。「戦後レジームの脱却」と言ってみるなど、人は簡単に制度変革に囚われてしまう。だが、制度が表面上変わっても、心が変わっていなければ、それは変わっていないのと同じことである。そのことは肝に銘じたほうがよい。

 カネを持つよりも、権力を持つよりも、一冊の本と人生について語り合える友を持つほうが幸せである。「伝統」と「信仰」について心から分かれば、そのことが表わす本当の意味が見えてくるに違いない。

(続く)
※「伝統と信仰」は次回で最終回です。

伝統と信仰 第十五章 日本人にとっての信仰

 第十五章 日本人にとっての信仰

 伝統とは連続性である。伝統は、いつも変化しているにもかかわらず決して全面的に崩れない、社会の羅針盤である。社会が混迷のうちにある時に、生き残る術を提示してくれる一筋の光のようなものである。伝統とは信仰のことであり、文化のことである。伝統を考えるということは、国家について考えるということである。ただしこの時の国家とは、政局のことではない。むしろ人間について考えるというほうに近い。
 昔から続くものの価値を認めず、文化を軽視するのは、なにも近年始まったことではなく、日本史の中で繰り返されてきた。だが、そうやって新しさばかり追究するところに、本当の新しさはありえない。なぜなら、彼らの視野には「今」しかないからだ。来年になったら古くなるようなものは、本当は「今」だって新しくないのだ。そんなものよりは、何年経っても懐かしまれ、惜しまれるもののほうが、よっぽど新しいのである。昔から続くものを壊そうとするのは、無駄骨を折ることにしかならないだろう。自分たちの世に問うものが本当に長年問われるべきものであったなら、古さや新しさなどもはやどうでもよいはずだ。
 日本人が日本の伝統、信仰や文化を知らないでどうするのか。次代に伝えず生きていてよいのか。日本の美質を称え、欠点を改善していくことは日本人に課せられた使命ではないのか。「日本」ということそのものが思想に結びつくということは、日本の過去、現在、未来の出来事やものを説明できるようになるということではない。日本史を知識的に学んだだけでは日本史が人格を構成するまでには至らない。日本人がこれまで考えてきた考え方、発想が自らの発想と分かちがたく結びついていることを自覚し、その中で生きていくことを自認して初めて、自己の思想は深まるのである。
 伝統とは運命とか宿命と言ったものとは違う。すべての人が生まれ育った伝統の中で発想し、伝統の中で生きていると言うことは、伝統を呪縛かなにかのように捉えることではない。伝統を伝統から来るものであると認識することによって、新たな発想もまた生まれえるだろう。すべての人間が伝統をもとに発想しているということが教えるのは、文化を離れた無国籍の「人間」などと言うものは決して存在しないということだけである。

 日本人にとって、天皇が公共のために存在し、国民のために祈り、歴史と伝統を体現する存在だということは、自明のことである。したがって仮にそれを拒否しようとする人がいたとしても、それは信仰を拒否しようとする段階で必ず信仰に囚われることになる。皇室に関するあらゆる論争が神学論争になっていくのはそのためだ。
 改めて考えれば、日本人にとって、天皇陛下が日々国民の安寧を祈られているということはとても大事なことであり、かつとても不思議なことだ。アメリカ大統領も支那の国家主席も、北朝鮮の将軍サマも欧州の王室もおそらく国民の安寧を祈らないだろう。バチカン市国のローマ教皇は祈るかもしれないが、バチカンの市民というよりはキリストの為に祈るのであり、カトリック教徒の為に発言するのである。天皇陛下が祭祀をされるということは、日本の共同性の証であり、得難い行為であろう。
 天皇はその歴史の早い時期に臣下に世俗的権力を譲り、無私の民族を結びつける存在となった。天皇は民族を結びつけると同時に、神道と仏教、儒教を結びつける鍵ともなった。私は、「権威と権力の分立」などという、わかったような言葉で天皇を語るわけにはいかないと思っている。有事の際には天皇が権力的存在になることもまた、日本の歴史に見られたからである。天皇を失えば、日本は全体としての個性を失い、世界文明に貢献する根幹が荒廃してしまう。天皇は日本のいのちであり、「日本」という信仰の祭主と言えるのではないか。
 天皇親政とは、西洋の絶対君主や、革命家による独裁国家とは違い、公義輿論と歴史と伝統の尊重による統治である。あらゆる場面における日本人の意思決定は、良くも悪くも独裁性に欠ける。天皇親政とは祭主による広い意味での祭政一致の統治のことだ。ここでいう祭りごととは、単純な宗教儀式であることもあれば、日本人が皇室という中心を奉じるこころのことでもある。

 日本人は信仰心が薄いという的外れな意見がある。もっとも、「戦後日本人」に限定すればそれは当たっている面もないではないから話は複雑だが、いずれにしても日本人の精神生活と信仰は切っても切れない関係にある。言葉一つとっても、日本は言霊と呼び、言葉に魂が宿ると考えられてきた。そしてその言葉を和歌として紡いできた。人の心に宿るさまざまな感情の流れが言葉となって出てきた瞬間、天地をも動かし、神をも揺さぶる力を持つ。人は言葉によって、過去、未来、さまざまな人、ものとつながることができる。言葉こそ伝統であり、言葉こそ魂だ。してみれば人の魂が他の人の魂を揺さぶることができるのは、至極当然ではないだろうか。

 個人の生命は有限である。しかし、悠久の大義のために全身全霊を尽くせば、その魂は永遠に語り継がれることになる。国家には、そういう信仰が不可欠である。それこそが国家に求心力を持たせる力となる。政治経済にばかり関心を向けて、こうした信仰、文化の側面を軽視すれば、国家は単なる大衆の集合体となり、各人の溌剌とした生命力を発揮する場所ではなくなってしまう。
 共同体が解体され、大衆の集合体になってしまうと、露骨な競争社会となり、相互不信がひどくなり、カネと暴力でのみ支配する世の中になる。利己主義の蔓延と孤立化が社会を堕落させ、活力を削ぐことになる。皮肉な言い方をすれば、資本主義はそうした社会を到来させることに大いに貢献したと言えるだろう。

(続く)

伝統と信仰 第十四章 醜の御楯

 第十四章 醜の御楯

 「ひとはつねに自分にとって切実なことのみを語らねばならぬ。私は私自身に見えることしか見えない。君がもし、未来の世界についてかくあるべきと確信がもてるなら、そのような世界は、君にとって、生きる価値のない世界であることを知るがよい。もし未来が光輝あるものでなければならないと決まっていたら、君はいますぐ絶望するしかない。一寸先は闇である。だから生きるに値するのである。現実を解釈してはならない。君の隣人が善意でなかったことを怒る前に、なぜ君は自分の悪意に気が付かないか。自分の失敗を社会のせいにする前に、なぜ君は、成功だけは自分のせいにしたがる自分の弱さに気がつかないか。」(西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』まえがき、3頁。)

 私にとって切実なことは、日本人の心の問題である。経済成長がかくも日本人の心をむしばみ、日本社会を堕落させてしまったことに対するやるせなさである。「インバウンド」とか「爆買い」と言って誤魔化しているが、いまや日本は、支那人の購買力に依存し、彼らの無尽蔵な欲望を満たすことでかろうじて経済を維持しているのである。その意味では、「Tokyo」とか「Osaka」と言った経済圏は、意外にしぶとくその命脈を保つのかもしれない。だが、「日本」はどうだろうか。日本の伝統や、共同体や、民族性はどうだろうか。
 日本人はもう、伝統や先例、因習を頑なに守っていこうという意志を持たない。生活の便利さの追求は世を挙げて行われ、信仰心も薄く、共同体意識も弱い。微弱になった信仰の代わりに、数々の電化製品やレジャーが入り込み、便利ならそれでよし、楽しければそれでよしとなり、国はただの市場と化した。市場は、文化も伝統も民族性も破壊しながら、カネは天下の回りものとばかりに、今日も空転し続けている。
 TPPは締結され、外国人技能実習期間は3年から5年に伸ばされようとしている。人身売買ではない、「実習」なのだ。移民ではない、「外国人労働者」なのだ。言葉の言いかえは詭弁なだけでなく、自らをもだます欺瞞である。

 自由主義と社会主義と保守主義。この三者が牽制しあい、ある一方が強くなると、残り二者が結託して抵抗するという。共産主義勢力の脅威には、自由主義と保守主義が結びついた。新自由主義、グローバリズムの脅威には、社会主義と保守主義が結びつくのだろうか。少なくとも私は、まだ外国の共産主義勢力や、硬直化したイデオロギーが到来する前の、純粋にただ貧富の格差や商人の専横に憤っていた、社会主義者とも呼びづらい一群の人々を好ましく思う。彼等は日本のために憤ったのである。

 「特攻隊員の犠牲のおかげで今の経済発展がある」と言われることがある。坂口安吾ではないが、「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」と叫びたくなる。特攻隊員は、家族、故郷、生まれ育った自然のために命を散らしたのであって、その故郷を荒廃させ、自然をショッピングモールに変えた我々の堕落した生活なんぞのために命を散らせたのではない。特攻隊員は、我々が豚のように肥え太るために命を散らせたのではない。我々はむしろ、祖国のために命を懸けた彼らを裏切ることで日々生きている。我々の豚の生活を一日送ることが即特攻隊員への裏切りである。

 靖国神社は倫理的施設だと言った人がいた。私もそう思う。確かに国家神道が登場したことでもともとあった神社が閉鎖を余儀なくされた例もあった。だがそれは、国家神道の代表的施設の一つである靖国神社や護国神社に信仰性がないというわけではない。総理大臣などの靖国参拝にも絡む問題なので念のため行っておくが、靖国神社に宗教性があるかどうかは何とも言い難い。国民儀礼とも言えるからだ。しかし間違いなく信仰性はある。信仰とは先人の声を聴き、己の生き様を省みることである。その意味で靖国神社はまさしく信仰的な施設である。靖国神社はむしろ「○○が叶う」と言った現世利益を売りにした神社などよりもはるかに信仰的とさえ言えるのかもしれない。靖国神社への参拝は現世利益と言うよりも、むしろ現世否定と言ってもよい。靖国神社に眠る英霊より祖国に献身した人間は、今生きている人間には一人もいないからだ。祖国に献身した生き様を突き付けられ、欲望に塗れただらしない自らの生活を恥ずかしく思い、せめて一つだけでも英霊に恥じぬ行いをしようと努めようと決意する場所が靖国神社なのである。

 日本は本土決戦を行わず敗戦という選択をした。これは皇室の国民とともにある姿勢、国民の犠牲を避けようとされる叡慮、国民と日本文化さえ残っていれば、日本は必ず甦るという確信と、さまざまな思いの果てに決断されたであろうことは疑いようがない。さっさと亡命してしまう外国の王などよりもはるかに偉大で崇高な態度であった。しかし物事には利点欠点裏表があるものであり、やはり本土決戦を行わないことによって、「生き伸びられればそれでよい」という観念を植え付けはしなかったか。醜の御楯となる誇りは忘れ去られてしまい、いきなりその感覚を取り戻すのは難しくなってしまった。少なくともその感覚を持てない自分を恥じ入ることから始めなくてはならない。

(続く)

伝統と信仰 第十三章 維新者の信條

 第十三章 維新者の信條

 思想する者にとって、概説的知識など入り口としての効能しか持たない。概説的知識など全く信用しない。思想は、思想家の残した言葉を、己の感性と照らし合わせることでしかわからない。
 人の心に定規をあてるように、あなたは右翼、あなたは左翼とみなすことなど意味のないことである。思想はいつも概説的知識を突き抜けたところで見出されるのを待っている。例えば政府を超えた価値を信じないナショナリズムなどただの権力への追従でしかないし、統合、連帯、信頼、相互扶助を求めないアナーキズムは弱肉強食でしかない。人間の魂から出た言葉は、概説的知識など突き抜けたところで人の心に働きかける。

 吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞らと対立したとき、「僕は忠義をなすつもり、諸友らは功業をなすつもり」と言った。祖国に対する燃え立つ魂は「功業」などと比べたらごくちっぽけなものだ。松陰は変革などしたかったのではない。ただ己の魂に働きかける言葉に突き動かされたのである。
 魂への信頼は陽明学的教養によるものと思われるが、儒学の教典である四書五経には、政治書が一つもない。先人の心を残す詩もあれば、先人の行いを残す歴史書もある。しかし小手先の統治について記したものは一つもない。四書五経は師の言行録や、人間の心の動きを収めたものであり、読む者の魂を問う書でもある。陽明学の唱える知行合一とは、知ることと行うことは不可分のものだということだが、それは知ることも行うことも、ともに人の魂に働きかけることであり、自らの魂に働きかける声を聴くことでもあるからではないだろうか。
 岡倉天心は、「霊性は魂に燃える炎」だと言ったという。魂とは大いなる価値のことであり、利害関係を超えたものだ。政府や市場は、人の魂を規定できない。政府や市場は、利害関係で人を誘導することはできるが、心まで支配することはできない。

 『論語』の有名な一節に「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋遠方より来る有り、また楽しからずや。人知らずして恨みず、また君子ならずや」というものがある。学んだことが自らの血となり肉となることはなんて喜ばしいことか。人に知られていないからといって恨んだりしない人が君子ではないか、という最初と最後の一節はわかる。だが真ん中の説で友達が遠くから訪ねてくるのは楽しいですねとは当たり前すぎるのではないか。遠方から来る「朋」とはいったい誰なのだろうか。
 本を読んでいると、著者の言葉によっていままでもやもやとしていた感性が何かに導かれるように確固たるものになっていくことを感じることがある。そんなとき、著者が目の前に現れてきて教えを受けているかのような気持ちになることがある。その師は、場所はおろか時代をも同じくしていなくとも、人は言葉で誰かとつながることができる。それこそが「朋」が遠方よりやってきた瞬間なのだろう。だとすれば、最後の、人が自分のことを知らないからと言って恨まないのが君子ではないかという章句にもまた違った解釈が生まれえるのではないか。つまり今の自分が誰からの理解も得られず不遇だったとしても、自らの考えを言葉にさえ残しておけば、遠く離れた誰かが、百年先、千年先の誰かが自らの価値を拾い上げてくれるかもしれない。だから恨まないのである。その可能性だけを信じて世俗の栄達よりも己の言葉を残し続ける人間。それはまさしく「君子」ではないだろうか。人を相手にせず天を相手にする人間、それが君子である。このときの「天」とは、絶対的な超越神のようであり、言葉でつながった「誰か」でもある。だから先人に学ぶのであり、人の熱くたぎる魂や真摯な言葉は古びないのである。

 そんな熱い魂から出た真摯な言葉を収めた本の一つに、影山正治の『維新者の信條』がある。影山は「維新者は、その本質に於て何よりも絶対なる国体信仰の把持者でなければならない。/如何に維新を論じやうとも、不動の国体信仰に徹せざるものは遂に維新者たることを得ない。/思想も理論も学も、破壊も建設も闘争も、政治も経済も文化も、すべてはこの信仰に根ざしてのみ考へられ、戦はれ、実現されなくてはならない。/国体は絶対に手段化さるべきではない。戦争遂行のための維新、資本主義否定のための維新、国民生活安定のための維新ではない。国体を明らかにするための維新、国体を実現するための維新であり、その結果として、戦争の遂行も可能となり、資本主義も否定され、国民生活も安定されて行くのだ。/維新とは単なる組織機構の変革ではない。神代復興であり、国体復帰である。この意味における世界の変革、価値の転換である。」という(『増補版 維新者の信條』69頁。/は改行。旧字を新字に改めた)。国体に対する信仰を強調している。
 影山は「維新とは(中略)国体復帰である」と言っているように、その言葉からすでに現在は国体が失われてしまっている時代であるという認識が強い。影山にとって国体は天皇とか皇室だけではなく、明らかに皇室を中心としたはるか古代の理想的社会を国体と呼び、それへの復古を理想としている。
 また、「資本主義の罪悪は、政治的・経済的・社会的に見て多岐多端であるが、その最大の罪悪は、人の心より神と詩を喪失せしめた点にある。/そこでは宗教も詩も一切が金に換算される。金に換算されざるものは、すべて無価値、無用とされる。かかる資本主義精神の、日本を毒し人類を害したことは想像以上に深刻である。この意味に於て、維新とは失はれたる詩と信仰の再建でもある」(同83頁)という。影山は共産主義と資本主義を同根とみなし、ともに人々を無間地獄にいざなうものだという理解でいた。
 交換可能なものではなく、永遠に続くものへの帰依が主張されている。

 注意しなくてはならないことは、影山にとって「維新」は体制の変革ですらないということである。人は体制の変革を簡単に叫びすぎる。「あの政策が通れば日本は変わる」「改革を止めるな」「成長戦略を必ず実行する」というように。そういえば「維新」と称して「グレートリセット」を主張する政治団体も現代には存在する。しかし、それは体制に、政局に、手段に依存する態度である。真の日本国民の覚醒は、そのような態度からは生まれないのである。
 「維新は翼賛なり、まつろひなり、祈りなり、行なり。断じて民意の強行や政策の断行にあらざるなり。血と涙による祈りのまこと大御心に貫通して、岩戸内より一歩開かれなば、倒幕の密勅降下するなり。維新の大詔渙発するなり。その時に至るまで何百何千万の石を積むなり。我ら貧しけれどもその石の小さき一つとならむとするなり」(同352頁)。維新は世の革新である以上に己の原点回帰でなければならない。維新を信じることは己の姿勢を問うことなのである。
 制度を論じるものは必ずスローガンで人を煽情しようとする。だが、スローガンなんかでは人は変わらない。表面上動いたふりをするだけである。真の自覚がなく、制度だけ変更して何かをなし得たかのように満足しているようでは駄目なのである。
 本当の問題は、制度や構造といった無機質なものにあるのではなく、人間そのものにある。人間の在り方を問うことなしに現代社会の問題を抉り出すことなどできない。制度の変更を主張すれば、それは「わかったつもり」になるかもしれないが、制度を変えるだけでは国家が真に健康を取り戻すことはない。

 三島由紀夫は「反革命宣言」で「日本の文化・歴史・傳統」を護った上で、あらゆる共産主義に反対することを宣言した。その上で、この宣言を「われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、日本の國土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千萬人といへども我往かんの気概を以て、革命大衆の醜虜に當らなければならぬ。民衆の罵詈讒謗、嘲弄、挑発、をものともせず、彼らの蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに當らなければならぬ。/われわれは日本の美の傳統を體現する者である。」と締めくくっている(『三島由紀夫評論全集』第三巻503頁。/は改行)。

 三島の悲壮な決意を感じさせる文章であるが、それよりも三島があくまでも「日本の文化・歴史・傳統」の側に立った人物であり、「日本精神の覚醒」を目的としていたことは、もう一度考え直すきっかけを与えてくれるものだろう。
 なぜなら、現在はあの頃と違い日本が共産主義化する可能性はなくなったといってよい。しかし「日本の文化・歴史・傳統」や「日本精神」があの頃よりわれわれの身近な存在になったかといえば、必ずしもそうではないからだ。共産主義化する脅威がなくなったのはあくまでも共産主義国家の自滅によるものであり、「日本精神」が勝利したわけではない。共産主義が抜けた空白は、「資本主義」という新たなイデオロギーにより満たされようとしている。三島が闘うべきと考えた「水際」は、日本の国境ではなかった。日本の国境は守られた。だが「日本人の魂の防波堤」はどうだろうか。経済発展に毒されて、「魂の防波堤」はどこかに置き忘れてしまったのだろうか。

 本を読むことは死者との出会いである。何の脈絡もないような先人の言葉がふとした瞬間に繋がりあう。あるいは、ある言葉から無限に先人の叡智が広がっていく。それは思いがけず朋に会うような楽しさと、己の生き方を突き付けられる厳しさを同時に併せ持っている。

(続く)

伝統と信仰 第十二章 無政府主義者と伝統

 第十二章 無政府主義者と伝統

 単純な世間のしきたりさえ、それが硬直化すれば有害なものとなる。上司は部下に有無を言わさず従うことを要求するものだし、親は子に夢を追いかけることなど期待せず、慎まやかに一生を終えることを求める。早く職につけと促し、結婚しろと促し、家を買えと促し、子を作れと促すことでがんじがらめの凡人に仕立て上げようとする。妻は夫に安定した職に就くことを望み、仕事人間かつ時折家事を手伝ってくれるような人間に、夫を仕立て上げようとする。もちろん夫も妻を「妻」や「母親」という役割で縛ろうとする。世間のしきたりは一種の無知を奨励する。物質的利益の為に、人をそれ以外考えられないように仕立て上げようとする。とても悲しいことである。「家」とは豚を囲うことが語源となっており、家庭とは豚小屋のことだと書いたアナーキストがいるが、親子の情も夫婦の愛情も、すべてカネによってがんじがらめの利益に置き換えられてしまう息苦しさがある。

 伝統にはどこかアナーキーなところがある。
 近代国家はナショナリズムという近代思想で成り立っているが、ナショナリズムは国民の同質性の根拠として前近代に醸成された文化を活用する。すなわち近代思想はナショナリズムに潜む前近代に復讐されるのだ。近代思想の深刻な批判者にアナーキストがいる。アナーキズムは左翼思想とされるが、時に不思議なほど伝統への信頼を語る。近代国家亡き後の世界を、アナーキストは伝統と共同体を意識して語ることがあるのだ。
 大江健三郎は左翼的な論客とみられがちであり、それは必ずしも間違ってはいないのだが、大江には故郷である四国の山中が舞台となった小説も見られ、意外にも近代国家以前の村落共同体との親和性はないわけではない。『同時代ゲーム』や『万延元年のフットボール』などがそれに当る。ただし、私は『万延元年のフットボール』を読んだが、一言でいって、よくわからなかった。私の読解力がないせいかもしれないのであまり参考にはならないだろうが、念のため断っておきたい。
 クロポトキンはアナーキストとして有名だが、『相互扶助論』の中にスイスの農村などを引き合いに出して、相互扶助を論じる箇所がある(大杉栄訳『新版 相互扶助論』同時代社、第七章)。註にもつけたとおり、これが大杉栄によって訳出されたことを思えば、その妻伊藤野枝が、無政府主義を故郷の漁村に見出した「無政府の事実」のような論文も、こうした思想的影響で誕生したものと推測できる。
 大杉栄と親しかった人物に権藤成卿がいた。権藤は内田良平の思想的指南役であると同時に、無政府主義者大杉栄の友人でもあった。これを奇妙だと思う人は冷戦的発想にとらわれ続けている人であろう。日本を良くしていくことに右も左もないからである。明治二十年代の国粋主義を先導した一人である三宅雪嶺は、大逆事件に反発し、南北朝正閏論争で南朝の正統を訴え、天皇機関説の排撃に協力した。左右の往復は容易であるどころか、そうした感覚すらなく、ただ自分が正しいと思うことを論じていただけであろう。ただし大正時代ごろから冷戦思考が生まれるようになってきて、左右は引きはがされるようになってきた。内田良平は大杉栄が甘粕に殺害されたことを良きことだと言い、権藤に義絶されている。

 戦前日本において、右翼とされてきた人も左翼とされてきた人も、明治十年までに起こった士族の反乱がその思想的源流である。右も左も文明開化を掲げる政府に対する反逆者であって、武士道や王土王民を理想とし、はるか神武創業に復古しようという志を持ってきた。明治末から大正時代ごろにかけて共産主義がはびこるようになると、左翼は外国の共産主義勢力に妥協、服従するようになり、右翼は共産主義への対抗心から政府に対し妥協、服従するようになっていく。今日に至るまでこの構造はなかなか変わらないでいる。
 それでも、いわゆる左翼的人々において皇室がその魂に重要な位置を占めることは珍しくなかった。幸徳秋水や小林多喜二は仁徳天皇の統治を理想とし、賀川豊彦や加藤勘十、浅沼稲次郎は皇室を崇敬するところ大であった。
 あるいは時代を遡って、山鹿素行や本居宣長、山県大弐、高山彦九郎、大塩平八郎、吉田松陰、橘曙覧など日本人の魂に触れた人物を思いつくままに挙げてみても、彼らが当時の政府である江戸幕府にとって都合のよい人物ではなく、時代に反逆した人物であることが容易にわかる。反逆性のない毒にも薬にもならない思想は、後の世に残るものではない。

 もともと、政府は必ずしも公共性を代表しているとは言い切れない側面がある。政府は政府のために動く。人間社会は制度ではない。社会は、人々が「共に生きる」ことで作り出される生き物のような存在だ。政府あるいは官僚機構が冷たい制度的側面を持つのに対し、社会は「共同体」とか「ふるさと」と呼ばれるものに近い。共同体は、その歴史性により国家に昇華するが、政府はいつまでも政府のままである。
 共同体がゲマインシャフトと呼ばれるのと対比され、利益によって結びつく組織をゲゼルシャフトと呼ぶ。政府とか会社などの組織は、利益によって人々を統合している側面がある。帰属心によって人々を統合する国家=共同体と、政府は別物なのだ。
 政府や会社などに自らの生き方をゆだねてはならない。自分の魂、感情、生き方を誰かに教えてもらおうなどと思ってはならない。当たり前だと思うかもしれない。だが、油断していると、人は地位や金銭状況に意外にも囚われてしまうものだ。

 喜怒哀楽の感情に政府は介在しない。喜怒哀楽には低次元のものもあるが、そのもっとも高尚なものは必ず倫理的である。人と人とのつながりの中に崇高な感情が生まれるのだ。これはどんな人づきあいが苦手な人にも与えられた能力であろう。地位や金銭といった外的なものは人間を変えようとする。哀しいかな、人は弱きもので、そうしたものにごく簡単に取り込まれてしまう。だが、そうしたものに自分を支配されることを嫌う誇りや羞恥心もまた、人間に備わっている。
 人間性の最も基本となるものは、人々が日々生きる中で感じる喜び、悲しみ、怒り、そういった感情だろう。このような感情は本人にしかわからないものではなく、他の人々とも分かち合うことができる、優れて社会的なものである。人間の真実は厚化粧した公的な付き合いの中からは生まれない。虚栄のないところに人間の素朴な感情を見て取った人は、無政府主義者になっていった。
政治や社会運動は、人々を貧者であるとか被害者であるというように一つの集団にまとめたがり、その集団の救済を模索する。そうした動きに全く価値がないと言うつもりはない。だが、そうやって人間を集団としたときに、個々が持つ感情とそれへの共感が置き去りにされることがあることは注意しておくべきことであろう。

 無政府主義者でもあった石川三四郎は、以下のような一見奇妙な論理で平等を主張した。
 人間を一個の肉塊とみなせば、強健な人もあり、軟弱な人もあり、不平等である。翻って、王陽明の言う良知ともいうべき心霊を無限の価値とすれば、無限なのだから計量することなどできず、したがって平等であり自由なのだという(「虚無の霊光」『近代日本思想体系16 石川三四郎集』25頁)。
 とても奇妙な理屈に感じるが、「心霊」を人の「感性」と捉えれば、教えられるところの多い思想である。人の感性は単純な比較をすることができない。したがって他者と単純に優劣を比較できず、共に併存することになるのである。
 感情・感性と欲望は異なる。感情・感性は社会に向かって開かれているが、欲望は自身に向かっている。小さな欲望に身を焼かれるよりも、感性に託す生き方に、人はあこがれを抱くものではないだろうか。

 西郷隆盛が「敬天愛人」と言ったとき、大いなるものへの畏れと人間性への慈しみを語っていたに違いない。大いなるものへの畏れを抱くこともまた人間に備わった感情であり、共同体に裏打ちされた道徳の先に「天」がある。
 あるがままの心を見つめ、それを高めていこうとすれば、必ず共同性に行きつく。「道」とか「霊性」とか、人によって呼び方は違うが、はるか昔から人々が考え、後の世代に引き継いできた精神に触れざるを得ない。

 きちんと調べたわけではないが、あの東日本大震災の際に国民の傷ついたこころに働きかけたのは天皇陛下が最初ではなかったか。政府が被災者の救護対策や原発問題において拙い対応を繰り返す中、陛下はビデオメッセージを出して「国民のこころ」を慮られた。このとき、もちろん天皇は官僚機構の一角ではなかった。天皇は政府を超越して国民のこころとつながった。天皇は国民の高尚な倫理的感情ともつながっているがゆえに、政府の枠には収まらない部分がある。

 東日本大震災の局限化であっても、日本人はマナーを守り、助け合いの心が見られたと言われる。だが、大規模災害の後ではどこでもそのような現象は見られる。外国の略奪などの事例は針小棒大に語られているし、逆に東日本大震災や阪神大震災の時に、一儲けしてやろうと法外な値段で食料を売りつけようとした輩も出て、秩序を乱したことだってある。
危機の時、人々は意外にも助け合い、お互いを思いやることができる。このことに無政府主義の可能性を見出す者さえいるくらいなのである。

 私は無政府主義者ではない。ゲマインシャフトを重んじ、ゲゼルシャフトの越権を憎むが、人々が生きていくうえで、ゲゼルシャフト的側面なしにまとまると考えるのは夢想的である。外交や軍事は、間違いなく組織における利益を追求する側面がある。政府による恩恵を、明らかに共同体も受けている。と言うより、政府なしに共同体が維持できると思うほうが間違いなのだ。ただそれは、共同体、すなわち歴史、伝統に対する毀損、無遠慮、越権、横暴、無頓着な行為を野放しにすることとは違うと思うだけだ。

(続く)

伝統と信仰 第十一章 生活の場における伝統と信仰

 第十一章 生活の場における伝統と信仰

 死者はどこに行くのだろうか。天国だろうか。極楽浄土だろうか。それとも地獄だろうか。
我が国の土着的な信仰では、死者は遠いどこかに旅立ってしまうのではない。死んでも我が国土を離れず、故郷の山河や子孫の生業を見守っていると考える。とても興味深いことで、だとすれば我々の周りは死者であふれているに違いない。海があり、山があり、大地があり、人間がいて、死者がいて、それぞれが密接につながりあっている。原始的な信仰とはそれ以上の教義を持たない。それで充分なのだ。お盆には死者が帰って来ると言われるが、生活に息づく信仰は死者の存在にあふれている。死者への弔事は、大概死者に話しかけるような形で述べられる。死者の魂が天国や極楽と言った遠いどこかに行ってしまうと考えない世界観とも無縁ではないだろう。
 死者は静謐に宿る。産業は静謐を、活気がないと言って嫌う。静けさは人間に自然と自己の内面、即ち死者の面影を思い起こさせ、穏やかにさせる。明るく活気のある光景は、同時に何かに駆り立てられているようであり、常にイライラし、周囲ともぎくしゃくしてしまう。
 時々、我が国の信仰を、「葬式仏教」などと言い、葬式のみ関係する存在であると軽く考える人がいる。大きな間違いだと言ってよい。葬式に関われるということは、その社会に広く認知され、根付いている証とも言えるからだ。

 死者に囲まれ、見守られる生活には社会がある。死者を遠ざけてきた現代社会は、社会からも遠ざかってきた。社会の代わりに市場が大きくなり、便利になる反面、どこか生活が窮屈なものになってきた。
 第十章でも書いた通り、手仕事を軽蔑する社会は、現場に発言力がない社会である。人々が、各人の作業ごとに、分業という名で分断され、裁量の余地がなく、したがって協力する要素もない状態に陥っている。職場という小さな社会も解体され、今やそのなれの果てがあるだけとなってしまった。もちろんそれは資本主義の進展による分断もあるが、単純な経年劣化もある。昭和の東京オリンピックを契機に作られたインフラの老朽化が指摘されているが、会社組織も同様に劣化しており、それが労働を荒廃させている面もある。職場には精神の病がはびこり、機能しなくなってきている。職場に人間的つながりがなくなってきたことの証でもある。要するに職場にゲマインシャフトとしての要素がないことが、息苦しさの原因である。

 産業は、間違いなく生活のためにある。したがって、産業の為に生活が犠牲になるなど本末転倒ではないか。社会のための産業ではなく、産業のための社会になるがゆえに生活や生きざまを見失うのである。

 信仰などと言うと大げさなものに聞こえるかもしれないが、職人気質なども立派な信仰である。職人は神々への信仰が篤い場合も多い。自らの仕事が利益を超えた何かに奉仕する行為であるという自覚に基づくものであろう。
 信仰とは、「いかに生きるか」を追究する営みである。もちろん、ゲマインシャフト(共同社会)だけの社会などあり得ないし、ゲゼルシャフト(利益社会)だけの社会もあり得ない。企業は、資本にとっては利益追求のためにあるのだが、職人にとってはそれだけではない。だから、伝統技術や職人気質は絶やしてはならないのである。利益をもとにしたものであれば、すぐに復活させることができる。だが、利益を超えた価値は、一度絶えてしまうと復活させるのはとても難しい。

 人間社会のおおもとは、信仰と共同によって自然に結びついたことによる。社会契約論が誤っているのは、社会を利益による集まりとみなす点である。社会は自らの生命財産を守るためだけにできたものではない。

 明治時代の文明開化以降、信仰や伝統文化の影響力は小さくなる一方である。資本主義、ビジネス偏重の社会に抵抗する精神の働きは、ほぼ見られなくなってしまった。伝承されてしかるべき文化は、ごくわずかの例外を除き、とても貧しく痩せ細ったものになってしまった。しかし、我々の生命の高揚をもたらすものは、財産保護でもなく、資本による競争でもない。利害関係を超えた大きなものへの帰依にこそ、生活を形成する力が宿る。
 生活は生計ではない。パンのみに生くるものに非ずとよく言うが、生活とは共に生きていくことだ。相互の信頼を失った関係では、生活を営むことができない。豊かな生活とは何であろう。家族があり、日々の労働を手伝ってくれる隣人がいる生活。収穫をもたらす豊かな自然とともに生きる生活。そういったものが豊かなのであって、車やパソコンなどがある生活を豊かというのではない。何も車やパソコンが悪いわけではない。だが、それを所持しているかいないかは、豊かさとは何の関係もない。
 人々が会社員になることにより、子どもが両親の働く姿を間近で見られなくなった。親子の世界は会社によって分断された。生計が苦しいから、皆会社員になったのである。だが、会社員生活は、家族のつながりと言う財産を捨てることで成り立っている。

 近代以降、政治は君主と人民の慈愛による関係ではなく、人間の顔を失った権力の作用と反作用の応酬となり、人々は会社員になり会社に依存し、自ら生計を立てられなくなることで政治や経済政策にますます依存することになった。命令する側とされる側の区別は、封建制の撤廃によりなくなるかと思われていたが、実際はそうではなく、権力の作用と反作用は抜きがたく社会に存在し続けることとなった。

(続く)

伝統と信仰 第十章 柳宗悦にとっての伝統

 第十章 柳宗悦にとっての伝統

 世界は悲しみに満ちている。しかし悲しみを感じるものは他者の悲しみを共に感じることができると言う点で愛おしく、また美しい。悲しみを、ただ悲惨であると感じ、それを追放あるいは隠蔽することだけを考えてきたのが現代の文明であるが、それは人間生活を貧しいものにした。物質的には豊かになったかもしれないが、人生の真実からはむしろ遠のいた。ちょうど社会が市場になったように、我々は国民としてではなく消費者として生きるようになってしまった。消費者に悲しみは必要ない。ただ商品に満たされればよいのである。

 人は誰でも嘆き、悲しみ、憤り、絶望の闇を抱えている。こうした人生の痛みは、単なる負の感情ではない。俗に「人は悲しいから人にやさしくなれる」と言うが、生きる悲しみや痛みは思わぬ感情的つながりを人に与えることがある。そうした人の心を軽視して、制度の構築、変革ばかりに興じていたのが近代であった。近代は卑小な自己を商品や制度で覆い隠そうとする。伝統は、ときにそうした商品や制度に縛られた生活の目覚ましになることがある。

 「伝統は意識して出来るものではない。生まれるものである」と言ったのは柳宗悦の息子柳宗理である(『柳宗理エッセイ』平凡社ライブラリー版66頁)。伝統は意識するものではなく、日本人の用途に真摯であれば必然的に生まれてくるという。強固な伝統美は、強固なゲマインシャフト的社会から生まれるものだという。一方で、ゲマインシャフト的社会が徐々に退潮しつつある現代では、どうすればよいのだろうか。ゲマインシャフト的社会を取り戻そうと努力することも必要になってくるのではないか。伝統は、先人の営みに触れることで甦るからだ。
 ゲマインシャフト的社会と信仰とは密接不可分なものである。「信仰の世界を只夢見る様な想像の世界だと思ふであらうか、否、信仰の世界よりも、より具像な世界を吾々は持つ事が出来ぬ」(柳宗悦「存在の宗教的意味」『柳宗悦全集』三巻9頁)。信仰は、死者との対話である。死者が甦り、再び現世に影響を与えることを信じない者は、伝統を信じることができない。死者は、その残した事績や言葉に触れることで、何度でも甦るのである。祖国の運命を悠久のものにする力が、伝統や信仰にはある。美とは、この伝統や信仰の結晶と言ってよい。そこには、武力や金力に負けぬ力がある。

 「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)。ここまでくると伝統は「他力」に似てくる。自力救済を重んじる現代社会とは異質な発想であるが、そこに美を認めるのである。
 個人の力などごく儚いものである。卑小な個が人生の荒波を超える際に、伝統は大きな助けとなる。伝統は古き良き生命の継承であって、現状維持でも過去の繰り返しでもない。古き良き生命が、自らの人生を支えてくれていることへの自覚である。柳は、「一切の偉大なる芸術は人生を離れて存在しない」と述べたが(「宗教家としてのロダン」『柳宗悦全集』一巻481頁)、それは芸術に限ったことではない。偉大なる事業は人生を離れて存在しない。即ち、伝統や信仰を離れて存在しないということである。人生は絶えず人間性の表現を追い求めている。敬虔な信仰を抜きにして、精神の深みを悟ることはできない。

 柳は、民芸や工芸の中に伝統が生活に息づいていた様を見た。
 手仕事を軽蔑する社会は、必ず奴隷制を持つ。手仕事を持たない社会は「現場」に発言力がなく、事情も知らないお上が、カネか権力の力で現場を従える。現代の会社員生活が息苦しくなってきているのは、機械化やIT化などの技術革新により手仕事が奪われたからだ。手仕事のない労働者は、替えのきく工場のラインの一部品に過ぎない。機械化は、労働から喜びや創意工夫を奪った。柳は、機械化の効能を全否定したわけではない。しかし伝統と生活が結びついていた民芸、工芸の世界が資本の論理に踏みにじられることに憤りを感じていた。

 「工藝の美は、傳統の美である。傳統に守られずして民衆に工藝の方向があり得たらうか。そこに見られる凡ての美は堆積せられた傳統の、驚くべき業だと云はねばならぬ。試みに一つの蟲を想へよ、その背後に、打ち續く傳統がなかつたら、あの驚嘆すべき本能があり得たらうか。其存在を支へるものは一つに傳統である。人には自由があると云ひ張るであらうか。だが私達には傳統を破壊する自由が與へられてゐるのではなく、傳統を活かす自由のみが許されてゐるのである。自由を反抗と解するのは淺な經驗に過ぎない。それが拘束に終らなかつた場合があらうか。個性よりも傳統が更に自由な奇蹟を示すのである。私達は自己より更に偉大なもののある事を信じていい。そうしてかかるものへの歸依に、始めて(ママ)眞の自己を見出す事を悟らねばならぬ。工藝の美はまざまざと此事を教へてくれる」(柳宗悦『民藝大鑑 第一巻』13頁。原文踊り字使用)。
 柳は伝統工芸の中に美を見出した。美とはすべてのものにあらかじめ備わっている。美がなければ醜もない。美の感覚があって初めて醜いという感覚が生まれる。美は醜をも包み込んでいる。善悪も同様である。性善説とは、すべてのものに善性が備わっているという考えだが、それはすべての人が善い人だというお人好しで世間知らずの考えではない。人は、必ず自己に備わっている善性を発揮するよう努めなければならないということである。善があって初めて悪が生まれる。美とか善と言うのは、すべての価値判断の根源を指す。これを想うとき、性悪説であるとか、人間はしょせん醜いものさと言う居直りがいかに陳腐で、現実的であるかのように装っているが人間の根源に何一つ踏み込んでいないことを知るであろう。

 福田恆存は伝統技術の継承に大いに関心を示した一人である。伝統技術の喪失は取り返しがつかないものであり(「伝統技術の保護に関し首相に訴ふ」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、274頁)、「物と附合ひ、物から物を造る百姓や職人の生き方を唯々古めかしいものと軽視し、物を処理する商人や経営者の生き方にのみ近代化、合理化の方向を見出して来たのが間違ひの因」(同280頁)なのだという。柳宗悦には、例えば『手仕事の日本』に代表されるように、民芸を日本人の民族的、伝統的、風土的特徴の発露と見た。
 あまり触れられなかったが、農業も壮大な手仕事である。人の手で水をやり、雑草を抜き、虫を取り、収穫し、品種改良していく。それは少々機械化されたとしても、その手仕事の性質をなくしてしまうものではない。だが、農業においても株式会社化し、大規模化が進めば、手仕事の性質はいつしか忘れ去られてしまうに違いない。

 哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。
 柳は信仰や美に、乱れた世を清め美しくする力があると信じた。争いからは何も生まれない。人間が本来持っている情愛によって世を美しくできる。情愛は誰にも奪えないと考えた。
 伝統は自らの意志で選ぶことのできない、不可避の選択である。不可避の選択とは先人からの声にいやおうなく拘束されるということだ。伝統は人間の感性に染みついている。卑小な欲望でなく、感性に委ねたとき、それは先人の声に身をゆだねることである。

(続く)

伝統と信仰 第九章 原理主義という名の民族主義

第九章 原理主義という名の民族主義

 我々の精神的ふるさとは、高層ビルやアスファルトにはないことは明白である。田舎暮らしを経験していなかったとしても、故郷はいつの世も、大地と自然によるものと決まっている。
 現代人の日々の生活は、より経済成長し、より消費し、より寿命を延ばした方が良いという物質に満たされた生活になるようにと常に煽り立てられている。この物質に塗れた生活をよしとする考えを、唯物主義という。唯物主義とはマルクス主義のことではないことを押さえておく必要がある。その唯物主義に裏付けされたモノに塗れた生活は、どこか胡散臭いものを感じざるを得ない。なぜかと言えば、それは死と信仰の問題を置き忘れているからではないか。
 鈴木大拙は『日本的霊性』で、「大地の生活は真実の生活である、信仰の生活である、偽りを入れない生活である、念仏そのものの生活である」という(岩波文庫版94頁)。
 出口王仁三郎は、「鉄筋コンクリートの高層建造物の中に、生存難や人間苦が存在している」といい、文明を批判する(松本健一『出口王仁三郎』49頁)。自然を自分たちの都合でいいように使い、その後自然が破壊されようと知ったことではないという発想は、西洋近代と結びつけられ、伝統を破壊するものとして受け取られた。かつては草花や小動物、虫たちと人間が共存していた場所が、いつの間にかコンクリートで埋め尽くされて、市場を構成する商品となってしまう。周りすべてが金銭的価値に置き換えられてしまうことへの違和感が、そこにはある。

 大地や自然に根差した生活こそ善であり、その観点から近代文明、近代政府を否定する思想を、松本健一は日本の「原理主義」と呼んだ。こうした原理主義を破壊衝動かなにかの表れと見る向きもあるだろう。そういう面もあるかもしれない。だが同時にこうした「原理主義」は民族的、共同体的な心性に、その思想的中心を持っていこうという動きであり、大なり小なり誰もが持ち合わせるものだろう。利益社会に人が甘んじることができないと悟った時、原理主義はすぐ隣にある。アジア主義は、原理的故郷を西欧的近代国家ではなく、アジア的国家像、社会像、人間像に求めるものであった。
 天皇は単なる立憲君主ではない。天皇の祭祀の側面に注目したとき、日本文化の中心たる神聖性、カリスマ性が現れてくる。震災の時に被災者に寄り添った天皇は、人々と共感共苦する中で、国民の安寧の為に「祈る」信仰的存在となる。天皇という存在も日本文化という存在もこの原理主義から無縁になれない。自分だけは原理主義から遠い存在だとは思わないほうがよい。
 佐藤健志は『愛国のパラドックス』で、武智鉄二の『伝統と断絶』を引用しながら、「伝統を復活させるためには現在のシステムをすることも正当化される」という考えは、一九六〇年代の急進左翼が唱えたものだと批判している(113頁)。だが私には、こうした武智のような主張には軽視できないものがあるように思われる。武智は軍隊がいかに近代的産物で、日本人が伝統的に持っていた歩き方などの所作を変えていったかを強調し、そこに伝統破壊を見るのである。

 日本以外でもこうした原理主義的な思想を唱えた人物がいる。ガンジーである。
ガンジー(1869~1948)はイギリスで弁護士になるほど頭がよく、また裕福な家系に生まれた。19歳からイギリスに留学。そこでインドの歴史や宗教に触れて、自己の思想を確立していく。弁護士としての活動の地である南アフリカでのインド系移民の権利回復運動を経て、本格的にインド国民会議に合流。その後非暴力・不服従運動を続けてインド独立を目指す。1948年にヒンドゥー教徒に暗殺された。
 ガンジーは機械で大量生産された紡績用品を着ることを好まず、伝統的な糸車で衣類を生産することを奨励した。また、イギリスの塩税に抗議し、自国で塩を生産するために海まで「塩の行進」を行っている。
ガンジーは宗教的、哲学的思想を持ち、インド哲学のなかでも現世放棄的影響を受けているという指摘はすでになされている。ガンジーを日本でおそらく最初に評価した人物は、大川周明であろう。インド哲学の研究もしていた大川は、現実のインドに関わる中でガンジーを評価したのであった。
 ここで従来のガンジー評価について述べる。ガンジーにはマルクス主義と非マルクス主義の立場で大きく評価に断絶が見られる。非マルクス主義者が多くガンジーを評価するのに対し、マルクス主義者はガンジーの非暴力性を「日和見」であると批判したり、もしくはガンジーがその運動においてブルジョアジーから資金援助を受けていたことで階級が温存された、という否定的評価を行った。ガンジーはカースト制度を根本的に批判したわけではなかったので、それもまたマルクス主義者には受けが悪い点である。
 また、戦後日本特有の捉え方としては、「ガンジー主義=憲法九条主義」と同一視して礼賛する考え方である。これは俗にサヨクと呼ばれる、戦後民主主義の信奉者によって唱えられている。しかしこれがほとんどガンジーに対する誤解に基づくものであることは小林よしのり等が指摘しているとおりである。先ほどから述べているようにガンジーの非暴力・不服従運動とは彼の信仰の過程におけるインド哲学の強烈な実践であり、その意味で彼は非常に民族主義人間ということができるのである。西洋近代文明を民族文化を破壊するものとして憎み、そしてインド哲学を主張していく。

 そのあたりはガンジーの著書『真の独立への道(ヒンド・スワラージ)』にわかりやすく表れている。ガンジーはこの中で鉄道について触れる箇所があるのだが、そこでは、「鉄道で飢饉は広がります。なぜならば、鉄道の便宜によって人々は自分の穀物を売り払うからです。高く売れるところに穀物は引き寄せられますし、人々はそれを気にかけないようになるので、飢饉の惨事が広がるのです。鉄道で邪悪が広がります」(岩波文庫版55頁)。
 「呪われた文明が及んでいないところに、まだかつてのインドがあるんです。(中略)あなたと愛国者たちへの私の助言ですが、まずインドを―鉄道が通ってないような地域を―六ヶ月歩き、それから愛国心を、その後で、自治を語らなければなりません。
 さあ、私が真の文明とはなにかを話しているのがあなたにはわかるでしょう。これまで私が描いたようなインドを変えようとする人がいたら、敵と知りなさい。その人は罪人です。(中略)インド文明の傾向は道徳を強化する方にあり、西洋文明は不道徳を強化する方にあります。ですから西洋文明を非文明と言いなさい。西洋文明は無神論であり、インド文明は有神論です。
 このように理解し、信じて、インドの国益を願う人たちは、子供が母親にしがみつくように、インド文明にしがみついていなければなりません」(83~85頁)。

 最後にガンジー主義はインドの伝統だけではなく、ガンジーの人格抜きには不可能であることを挙げておこうと思う。ガンジーは国内のヒンドゥー教徒に暗殺されるわけだが、それはヒンドゥーとイスラムの共存を主張したからであった。ちなみにこのときのイスラム派はほとんど現在のパキスタンとなる。ガンジーは信仰の道を唱え、それにより支持を得たが、しかしそれゆえに人々はイスラムとの共存を嫌った。確かにガンジーがあれほどインドの信仰にこだわったにもかかわらず、イスラムとも融和するのは矛盾しているようにも思われる。その結果、イスラムとの協調を目指すガンジーは裏切り者とみなされ、非暴力主義は急速に退潮していく。ガンジーの暗殺はその結果に他ならない。
 ガンジーは人間の不完全性を見つめ、個人の理性ではなく伝統や慣習、良識における叡智によって国をまとめようとした。
 また、ガンジーの後継者とされるネルーが首相につくが、彼の政策は一言で言えば富国強兵殖産興業である。国内の近代化に勤めたネルーはかつてガンジーが批判したところの「西洋文明」を取り入れて、ガンジーが擁護した「伝統的インド」を破壊する役割を担った。結局ガンジー流の復古主義的民族主義は実ることはなかったのである。
 もっともガンジーには思想家的側面のほかに、あまたの利害関係の中を泳ぎ回る政治家的な側面も持ち合わせていた。英国の植民地支配への批判より近代文明への批判を優先させたり、ヒンドゥー教による身分差別を批判しきっていないこともそうである。現実世界を泳ぎ回りながら、自己が理想とする世界へ一歩一歩近付けようとしたと言えば、その通りではあるが、必ずしも聖人視するのが適切とは言い切れないのであろう。

 倫理とか道徳とは共同生活における心理的規範のことであり、したがって、人々の「間」に存在するものである。「間がら」を規定するものである以上、そこには権力関係が付きまとう。しかし、倫理や道徳はそうした権力関係だけに拘束されない「価値」の追求でもある。したがって多くの「原理主義者」は、金銭や政府による暴力の支配を否定し、伝統的な共同体の秩序を称えることとなった。ここに、いわゆる保守主義者と原理的な無政府主義者が近づく接点が生まれるのである。伝統は、存外アナーキーなのだ。
 大東亜戦争の終戦に納得せず、本土決戦、一億玉砕を主張した人々がいた。その一人、井田正孝中佐はその手記で、「国敗れんとするや常に社稷論―すなわち「皇室あっての国民、国民あっての国家、国家あっての国体である」となし、国体護持も皇室、国民、国土の保全が先決なりと主張する。唯物的な国家観―なるものがある。社稷論は敗戦の寄生虫であり、亡国を促進する獅子身中の虫である。(中略)皇室の皇室たる所以は、民族精神とともに生きる点にあるがゆえに、精神面を没却した皇室には、意義も魅力もないことを深く考察すべきである。さらに彼らの出発点は、皇室の名を利用する自己保存であることを看破せねばならぬ。(中略)その言うところは皇室の存続であるが、真の狙いは国家の面目よりも、物質的生活苦ないしは戦争の恐怖に対する利己心以外の何物もない」と述べている(田々宮英太郎『神の国と超歴史家・平泉澄』180~181頁からの孫引き)。
 ここで井田は、皇室の形式的存続が物質的生活苦から逃れるために唱えられているとし、皇室を支える民族精神の存続を何よりも重んじた。この論法は井田だけでなく日本浪漫派や三島由紀夫、桶谷秀昭らの議論を思わせるのだが、敗戦の際に、物質的安寧よりも民族精神が折れないことを重んじる考えは、どこか「原理主義」を思わせる。近代政府の枠組みを超えたところに最も重んじるものを持ってくる原理主義は、誰の中にも持ち合わせている思想であるが、それは簡単にナショナリズムと同一視できないものを含んでいる。ここでいう原理主義は民族主義とほぼ同じである。本来ナショナリズムは民族主義の翻訳語であるはずだが、両者にはどう見ても同一視できない差が生まれているのである。

(続く)

伝統と信仰 第八章 国粋主義とアジア主義

 第八章 国粋主義とアジア主義

 アジア主義者はアジアの観察者というよりはヨーロッパの観察者である。アジア主義者はヨーロッパがキリスト教世界で似通った文化圏を構成していることをよく知っている。だからアジアも同一の文化圏であると思いたがるのだ。同文同種だとか、そういうことを盛んに強調して、潜在的にアジアに「西洋」を作ろうとする。アジア主義者は表面的には反西洋の論説を張るが、潜在的に西洋主義者であり、西洋に劣等感を抱いている場合がある。
 もっとも、これはどんな思想であれ西洋に対する劣等感として論評することは可能だ。現実的に西洋発の近代概念が世の中を大きく変えてしまったのは疑いもないことであり、かえって劣等感のない人間は現実から逃避し、己の妄想に閉じこもる人間であろう。
 アジア主義は場合によっては西洋流の拝金主義とか合理主義といったものまで否定したことで精神的に突き抜けていることがある。それが一種独特な香りを放っている所以でもある。アジア主義とナショナリズムは近くて遠く、遠くて近い微妙な関係である。

 国益には数値化できないものがある。国の活力とでも言おうか、文化的同質性、歴史的連続性、伝統、故郷、家族や地域共同体などである。「数値化できる国益」の「益」は「利益」を指すのに対して、「数値化できない国益」は資源、豊かさを指す。「数値化できない国益」を、明治の人は「国粋」と呼んだ。国粋とは国の元気のことだ。目には見えないものだ。かけがえのないものだ。他国には決してまねのできないものだ、と(三宅雪嶺「余輩国粋主義を唱道する豈偶然ならんや」、中央公論『日本の名著 37 陸羯南、三宅雪嶺』、筆者意訳)。
 志賀重昂は「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』8~9頁)。植物に例えるところは志賀らしいとも言えるが、海外のものをそのまま移植してもうまくいくものではない。それよりも海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだ、というのが国粋主義者の主張なのである。
 そのような明治二十年代の「国粋」を、明治三十年代の日本主義者高山樗牛は批判する。国粋主義は「単純幼稚」であり、「漫に国粋を説きて所謂国粋の何物なるかを説かず、漫に保存を言ひて而して何故に保存すべきかを言はず、其所説や形式的なり、抽象的なり」(『樗牛全集 第四巻』326頁)。国粋主義者は進歩を説かず、旧形を保とうとするだけだ、という。樗牛の言わんとすることもある程度あたっていなくもない。確かに国粋主義者は「守るべき国粋」を具体的に明示しなかった。だがそれは樗牛も同様であった。むしろ明治二十年代の国粋主義は、先の雪嶺の引用を見てもわかる通り、国粋を具体的な「もの」で置き換えること自体を嫌った。「国粋」とは信仰なのだ。神を具体的なもので示すことなど、できるはずがないではないか。

 岡倉天心は、『日本の目覚め』で、日本の愛国者は50年前、支那の義和団のように熱狂的に攘夷を叫んでいたが、政治の大変革と外国との接触による物質的利益のために、西洋に対する国民感情は一変し、なぜあのように西洋に敵愾心を持ったのかわからなくなってしまった。それどころか、大陸の隣人たちは我々を変節者、白禍の権化とまでみなすようになった。しかしながら数代前の日本人は今日の支那の保守的愛国者の見解と同じであり、西洋の進出により日本の破滅が来るだろうと考えていた。蹂躙された東洋人にとっては欧州の栄光は日本の屈辱である、と述べている(岩波文庫版55頁)。
 松本健一はこの天心の叙述を踏まえて「「屈辱」において「アジアは一である」(Asia is one)、という現状認識を抱いていた」という(『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波現代文庫、94頁)。まさに松本の言う通りであろうが、一方で当時の日本人は、本当に西洋になぜ敵愾心を抱いたのかすらも思い出せないようになってしまっていたのだろうか。そこに岡倉の悲観的な現状認識がある。
 明治三十七年にアメリカのニューヨークである本が出版された。その本の名は『日本の目覚め』。著者は岡倉覚三、いわゆる岡倉天心である。この『日本の目覚め』は英語で出版された日本の紹介本である。「日本の目覚め」という題は「目覚めつつある日本」という語感もこめたものであった。
 岡倉はその出だしをこう始めている。「日本の急速な発展は外国の観察者にとっては幾分の謎であった。日本は花と鋼鉄艦の国、勇壮義列と優美な茶碗の国―新旧両世界の薄明に古雅な陰影の錯綜する夢幻境である」。もちろんこの対比はこの連載でたびたび出るある書物、戦後はやった「菊の優美と刀の残虐」という矛盾の中に日本人をとらえようとした『菊と刀』を連想させて興味深い。しかし岡倉はそうした見方を十把一絡げの非難と馬鹿らしい称賛であると一蹴する。そして日本がここまで発展したのは外来の思想の力もあるが日本が外国の方法を採用する能力とそれを同化せしめる天賦の気力であると強調する。外部知識の蓄積ではなく内部にある自己の実現によるものだと強調したのだ。その上で亜細亜こそ日本の霊感(現代風にいえば宗教的感情)の真の源泉である、とした。亜細亜は蒙古以来停滞し、相互に理解し合えない状況となったと言う。東洋文明の平和的性質は蒙古の破壊を止めることができず、外敵の侵略を食い止めるにはか弱い力しかもっていなかったと見ている。蒙古の侵略を撃退した日本は亜細亜を覚醒させる任を負ったが、島原の乱など侵略を企んだ西洋耶蘇教徒の扇動に島国根性が硬化し、自ら国を閉ざしたいと思うようになった。徳川時代にはありとあらゆる方向で日本人が覚醒することを妨げる政策が行われており、仏儒が盛んに行われたがそれも服従心と平和愛好だけを教えるものとしてしか成り立っていなかった。しかしさまざまな学派が起こりそうした体制に反発するようになり明治維新を迎えることになったとする。その際に効果のあった学派は山鹿素行らの古学派、陽明学、国学である。岡倉は陽明学を維新の大業の誘因であるとみなし頁も多く割いている。
 多くの東洋人にとって西洋の出現は喜ばしいものとならなかった。白人は「黄禍」を叫ぶが亜細亜人は「白禍」の犠牲になったとする。西洋人の心は機械的組織に満足するのかもしれないが亜細亜人は物質的実効だけに満足できない。亜細亜は停滞し時代遅れの部分があるかもしれないが、それに比して西洋は公明正大であっただろうか。帝国主義の名のもとに亜細亜を蹂躙し続けたのではないかと主張したのである。亜細亜が西洋帝国主義に立ち向かおうとすると西洋人はすぐに黄禍の声を上げたではないか。だからこそ西洋の栄光は東洋の屈辱なのである。日本の芸術は欧化の時代をももろともせず国民的理想を保存する強い力となったのだ。
 天心は西洋の帝国主義に対置してむしろ平和主義を訴えている。天心は感情的な筆致で読者に訴える書き方だからそうなったのだろうが、いわゆる現代の感覚で天心を「平和主義」視するべきではない。仏儒が単純な服従心と平和愛好で政治を変える力となり得なかったことを批判的に見ているからだ。天心にとっては信仰とは現状改革の力となり得るものであった。平和主義も帝国主義の現状を変える力として唱えられたのであった。

 天心は「欧羅巴の栄光は亜細亜の屈辱である」とまで述べ、黄禍論に反対している。日清日露で日本が朝鮮半島の独立のために奮闘したにもかかわらず、欧米はそれを黄禍を叫ぶことで応じた。戦争は絶やされなければいけない。己を守る覚悟のないものは奴隷にされなければならないが、他国を侵略するような道義のない国民もまた哀れである。個人の道徳からして発達していない者たちである、という。この道義重視の世界観はアジア主義者独特のものであろう。この自国の防衛を重視しながら侵略戦争に反対していく考え方もまたアジア主義的なものである。日清日露戦争は東洋平和のための義の戦いであり、そのために行われなくてはならない。したがって朝鮮独立、支那の侮日政策の変更を求めて立ち上がることを主張する。そして欧米の干渉からアジアを守ることを目標としている。
 そんな天心は『東洋の理想』では東洋に古代に統一圏があると主張する。それはイスラム、儒教、インド哲学、そして日本的思考がそれぞれ特色はありつつも同じ民族圏に該当するものだという主張である。しかし天心はすぐさまこう続ける。「しかしながら、この複雑の中なる統一を特に明白に実現することは日本の偉大なる特権であった」。そして日本を「アジアの意識の全体を映すのにふさわしい」場所であり、それは島国的地理と万世一系の皇室がおわすからであり、「アジアの思想と文化を託す真の貯蔵庫」たる存在であるとした(『岡倉天心コレクション』ちくま文庫版198頁)。前半でアジアイデオロギーを述べていながらここで巧みに自国の道徳を礼賛する作業にすり替わっている状況がある。この後天心はアジアについて「今日アジアのなすべき仕事は、アジア的様式を擁護し回復する仕事となる」としている(同342~343頁)。しかし前記のように日本がその中心地となることは譲らないわけである。西洋思想が現代の日本人の目を曇らせているとしてアジアへの回帰、復古を唱える。しかしその「復古」とは、アジアに帰るのか、日本に帰るのか。両者が一体であるとまで言えるのが天心の思想の独自なところであろうが、アジアが一つであるとするならば何ゆえナショナルな国家間関係を望むのか。そのあたりが天心の説明不足なところである。
 おそらく合理的な目線で見てしまえば、天心の叙述はアジアを同一視し過ぎる嫌いがある。だが天心は、西洋諸国がもたらした合理主義の波に対し、東洋の「霊性」を対置したところにある。天心は「霊性」という言葉を地下から発掘し、世に蘇らせた。その後鈴木大拙をはじめとしたさまざまな人物に「霊性」は問われていくわけであるが、それは天心が問うた「霊性」を様々な形で継承したものであった。天心が地下から蘇らせた「霊性」という言葉が、日本の精神史を大いに形作っていると言えるのである。

 陸羯南は『国際論』で、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は『国際論』に言い尽くされている。陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外交に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。ただし近年の侵略は領土まで欲するものは少なくなっているといったことまで触れている。そのうえで日本がどう対抗するかといえば、まずは自国の使命を自覚することだという。日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だといっている。
 ここでは国際関係を非常に現実的にとらえる陸の目が感じられる。国際社会を現実的な力関係で捉えるのはそう珍しい意見ではない。だがそうした論客はたいてい日本が生き残るためには、「強いものに付け」という態度に出ることが多いように思われる。しかし陸はそうではなかった。ここに陸の凄味があるように思われる。そしてだからこそ陸は欧米に与せず、アジアの側に立ったのであった。

 葦津珍彦は資本主義に反対する思想を持っていた。しかし同時に葦津はナチスの経済政策への批判者でもあった。葦津は「英米的自由主義、民主主義を克服する方法は、あくまでも日本的方法によって、日本流に之をなさねばならぬ。然らずして独逸的精神によって之をなすときには、前門の虎を追うて後門の狼を迎うる譏りをまぬかれぬであろう」と警鐘を鳴らしてした(『神道的日本民族論』25頁)。
 僭越ながら、私も葦津になぞらえてこう言おう。
 「ソ連、中共的共産主義を克服する方法は、あくまでも日本的方法によって、日本流に之をなさねばならぬ。然らずして亜米利加的資本主義によって之をなすときには、前門の虎を追うて後門の狼を迎うる譏りをまぬかれぬであろう」と。
 日本人が真に国民精神を自覚したうえで、国家の行く先を論じることができた暁には、このことは自然に了解されるであろう。

 葦津は福沢諭吉に代表される近代的合理主義者、功利主義者が楠木正成の湊川での殉忠を非難したことに対して同時代の多くの論客が反論したが、それらすらも合理主義、功利主義に立っていたことに対して問題の根の深さを見た(同108~109頁)。功利主義を超える価値を、葦津は求めていた。
 欧州から押し寄せた近代文明に抗しがたいことを自覚しながら、それでもその近代文明に安住できない自己。その存在を見て取ったとき、そこに自己を見つめる考えが生まれる。近代文明に安住できない自己は資本主義にも共産主義にも満足できない自己である。自己の居場所は人間の感性の中にしかない。そしてそれはおそらく国籍のない「文明」にではなく血の通った「文化」「伝統」に依拠する感性ということにもなろう。それが敗北を覚悟しても貫く感性の淵源なのである。

伝統と信仰 第七章 近代化のかなしみ

 第七章 近代化のかなしみ

 果たして、西洋発の文物を学ぶことは、「西洋化」なのだろうか。あるいは、近代思想を身に着けることは「近代化」と言えるのだろうか。

 志賀重昂は「「日本人」が懐抱する処の旨義を告白す」で、「予輩は「国粋保存」の至理至義なるを確信す。故に日本の宗教、徳教、教育、美術、政治、生産の制度を撰択せんにも、亦「国粋保存」の大義を以て之を演繹せんとするものなり。然れども予輩は徹頭徹尾日本固有の旧分子を保存し旧原素を維持せんと欲する者に非ず、只泰西の開化を輸入し来るも、日本国粋なる胃官を以て之を咀嚼し之を消化し、日本なる身体に同化せしめんとする者也」(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』10頁)と述べている。こちらは天心と比較すると随分楽観的な印象すら受ける。要するに西洋文明は日本国粋によって消化することによって受容できるというわけなのだ。
 陸羯南は『近時政論考』で、「国民論派は既に国民的特性即ち歴史上より縁起する所のその能力及び勢力の保存及び発達を大旨とす」(『近時政論考』岩波文庫版82頁)と述べ、要するに日本人の国民性の保存・発達に資するなら、近代文明の受容も良しとした。丸山眞男などはこうした陸の議論を「進歩性と健康性をもった」ナショナリズムであると評している(『戦中と戦後の間』みすず書房281頁)。進歩的で健康的、開明的なナショナリズム! 果たしてそのようなものはあるのだろうか。そのような評価は彼らの「楽天」性を言葉のままに受け取りすぎていないだろうか。
 確かに日本の国粋は大事だ、だが国粋の保存・発展に役立つなら外来思想だって何だってよいではないか、と言うのは鷹揚で、功利主義的な態度にすら感じられる。だが彼らは同時に当時の鹿鳴館外交を批判し、屈辱的な条件による条約改正を拒絶していたことを忘れてはならない。つまりは攘夷論と混同され、読まれもしないうちにレッテルだけ張られるのを避けたいと言う強い思いから、彼らは西洋思想を受け入れて見せたのではないだろうか。
 同時に、彼らは国際政治の現実をよく知っていた。西洋列強にその存在を認知させ、独立国として認めさせ、生き残っていくには、「近代化」は避けようのない事態であった。だが、それに当っては、日本人としての自意識をどうするのかという問題が横たわっていた。福沢諭吉のように文明化文明化と無邪気に唱えるわけにはいかなかった。近代化は急激な変化でありすぎて、まるで別の国のようになってしまうからである。日本史における「第一の敗戦」とでも呼ぶべき事態であった。だからこそ彼らは「日本国粋の保存・発展にそぐうものであれば受け入れてもよいのだ」と、あえて鷹揚な態度をとることで日本国粋を守った。むしろ直接的に西洋文明への反発を示せた岡倉よりも、絶望は深い。桶谷秀昭は「和魂洋才」を「近代日本の文明に対する絶望」と捉えた(「和魂洋才と文明開化の逆説」『時代と精神 評論雑感集 上』32頁)。陸羯南がもう少し直接的に西洋文明への反発を語るには、『国際論』を書く日清戦争期まで待たなければならない。
 桶谷は明治人の、西洋化になじめないものを感じながらも西洋化しなければ国が亡ぶ、という危機感の中で生まれた心の動きを「狂気」「悲劇」(『歴史精神の再建』序章、34頁他)と呼び、それをそのまま受け止めようとしているように思われる。明治維新は西洋文明に対する日本文化の敗北であった。だが敗北したからと言ってこれからは文明だという軽薄さを持ち得なかった人々がいた。むしろ敗北は永続への試金石となり、何を残すか、何のために残すかを深く問いかけることになったのである。敗北してもなお継続させる「何か」を問うことは、維新という敗戦を経た日本人への大きな課題となった。

 山路愛山の『現代日本教会史論』は、日本人の精神活動が軟化したのは徳川時代の政策によるとしている。仏教が国教化されており、それに対し精神の自由を求めて朱子学や陽明学、国学、心学が生み出されたとしている。そして明治以降日本人が欧化してしまったのは幕府が日本人の真実の信仰心を妨げてきたからだという。この本は基本的には日本の耶蘇教の歴史をたどる本である。耶蘇と儒学が結合していくこと等を中村正直の例などを引きつつ述べられているところなど、興味深いところが随所にみられる本である。また朱子学が唯物論に傾きやすくなったり、陽明学が唯心論になった傾向などを解説したり山路のするどい観察眼がうかがえる良書である。山路はそこまで踏み込んでいないが、もともと例えば孔子が「子、怪力乱神を語らず(先生は怪異暴力背徳神秘は口にしなかった)」(述爾編)と言ったりすることに対して「孔子は迷信を拒絶した、唯物的人間だ」という解釈も可能だが、「信仰についてあれこれ語ることを嫌いとにかく信じることを重んじたのだ」、という唯心論的な言い方もできるからだ。
 『現代日本教会史論』は山路の観察眼が面白く、この本で山路は単純な年譜的な日本の耶蘇教史だけでなく欧化主義やそれへの反発なども踏まえながら史論を展開しているのである。欧化への反動を単純に批判的に見るのではなく、模倣に急だった日本が自己の歴史の内にある「日本人民の脊髄となるべき原理」への自覚として捉えたのである。ただし山路は「保守反動」論者が耶蘇に対して反発したことに対して批判的である。また、先ほども述べたように山路は江戸時代は仏教が国教であったと述べている。国教という言い方が適切かどうかはともかく、寺請制度により人々が何らかの寺院に所属することを求められたことは確かである。国家神道もそうだが、国教化すると信仰を失って、どこか役所の出先機関のようになってしまうところがある。寺請制度は日本の仏教界にとっても不幸であったのかもしれない。ちょうど国家神道によって地方の小神社が次々とつぶされてしまったように。
 山路は社会主義の勃興に対しても注意を払っている。耶蘇教と社会主義の結合も触れている(ただしこれに対してはあまり頁を割いていないのが残念である)。その上で日本の教会が外国人宣教師から自由になることを強調して終わっている。
 『現代日本教会史論』は単純な信仰の変遷だけでなく日本人の心の内面に踏み込んでいる。彼らが信仰の歴史をつづったのは単純な歴史叙述を目的としたのではなく、日本人が浅薄な合理主義から信念の道に踏み込む道案内の役目を果たそうとしたからであった。

 西洋物質文明への反発として、東洋文明は王道の文明であり、東洋文明は道徳文明であると言う主張はアジア主義者に共通しながらも、その道徳とは何か、と言うところになると、必ず自国の歴史や国益が顔をのぞかせる。そもそも道徳とは社会、文化によって培われるわけだから、文化を超えた道徳はほとんど存在しない。あるとすればそれは人類共通のマナー程度のものに簡略化されてしまう。
 橘孝三郎は『日本愛国革新本義』で、「資本主義西洋唯物文明は純粋にヨーロッパ的なものであって東洋のそれとは全く文明の本質形相を異ならしめている」(『現代日本思想体系31超国家主義』220頁)と述べ、東洋とヨーロッパを真逆のものとしてとらえている。あるいは日本の思想史上誰となく幾度となく繰り返された論法であるのかもしれない。
 東洋と西洋文明を真逆に置く論法は実証的ではない。しかし西洋化してしまった日本の悲劇とそれに安住できない自己のよりどころが、常に「アジア」に求められ、それはそう簡単に克服できるものではない。西洋文明への抵抗と反発の中に「東洋」を見出している。西洋文明の受容は避けることのできない事態である。それを自覚しながらもあえて反発に身をゆだねる。それが敗北の道であったとしても、だ。

 大地を離れて生きる人生は、人間本来のものではない。しかし近代化は、人間を大地から引きはがす歴史的事業でもあった。たとえそこが農村であったとしても、もはやそこには人間に管理された自然しかなく、所有権が隅々まで確定されてしまった場所である。郊外に行く程度では人間本来の生活を取り戻すことはできない。もはやどうやっても不可能だという悲観的結論のほうがもっともらしく思える。アジア主義とは地理的な「アジア」を重視する思想ではない。近代化によって自らのよって立つ場所をなくした絶望と、それでも座して滅びるのを待つわけにはいかない焦燥とが、未開で純朴であった「あの頃」に還ることを求めるのである。
 歴史上、様々な文明が栄枯盛衰を繰り返してきたが、各地の文化には、文明が持つ無国籍性、人を大地から引きはがそうとする力に抗するものを持っているように思われる。文化は、文明という悪性病原菌から自らを守る抗体のようなものであり続けてきた。いよいよ文明の害毒が体全体を侵そうとするときに、文化は「あの頃」に立ち返ることを要求し、文明を拒絶するのである。
 一方で昨今の戦闘的環境保護団体のように、漁師の網を切り裂いたり、武力攻撃を加えることで環境保全をなそうというのも、どこか設計主義的なにおいがして受け入れがたい。母なる大地、海と共生していこうという先人の知恵が、そこには感じられない。だがそうした「先人の知恵」は、文明的自己利益と暴力的自然回帰のはざまで、か細い動きとしてしか存在し得ていない。
 大概において、文化より文明のほうが強力であり、文化は敗北の道をたどらざるを得なくなる。しかし、そこに人がいる限り文化は滅びない。文化とは「義」であり、文明とは「利」である。「利」に弱いのも人間の偽らざる姿であるが、人には元来「利」を超えた価値、すなわち「義」を重んじる心が備わっている。文化は滅びない。「義」が滅びるときは、人間が滅びるときである。

(続く)