終章 学問と伝統、そして人生
平泉澄の『国史学の骨髄』は極めて印象的な一節から書き起こされている。曰く、「歴史があるのは単なる時間的経過があるのではない。歴史は高い精神作用の所産であり、人格があって初めて存在し、自覚があって初めて生じるものだ。志を立てたとき、その人にとって歴史が始まるのであって、志をもたない人間にとって歴史はただの背景でしかない。酔生夢死の徒輩、つまり何の自覚もなく享楽的な日々を送る者は歴史と無縁の連中なのだ」と述べている(1~2頁)。厳しい言葉であり、我々の人生に刃を突きつけるような一節であるが、非常に的確に人生を言い当てている言葉と言えよう。
相手をすぐ、敵か味方かで判定するのは左翼の論法だそうである。敵であるものの言う意見は皆ダメで、味方の意見は皆良い。それこそが左翼の本質である。そこには論争と言う精神は全くない。敵味方の闘争概念だけである。しかしそこからは何も生まれない。さらなる発展もない。大声で相手の口を封じあう。それこそが左翼的闘争感である。レッテル張りの中傷攻撃がそれに当たる。保守派にあって戦後左翼からの脱却組だからであろうか、その左翼的論法は脱し切れていない。自分の頭で考えないのである。私はそれを非常に憂う者である。
自分の頭で考えるとは、過去や周囲と絶縁することでも、そこにはなかった全く新しいことを考えなくてはならないということでもない。むしろ自分が考えていることは先人が述べていた、という自覚を持つことが思索ということではないだろうか。
あらゆる学問は国民、あるいは人類の幸福のため、叡智への敬意のために行われていた。それは公共性への深い信頼からなる行為に他ならない。だが、次第に学問は実証の名のもとに専門家集団となり、社会にその成果を還元するという発想を失った。近年の大学は学術的成果にうるさくなったようだが、それはどうも社会貢献を資本主義的、経済的価値にすり替えているような気がしてならない。
評価されなかろうとも、黙殺されようとも学究への情熱を失わない。そういう人に憧れる。そういう人にとって学問は、私的利害関係を超えた「何か」であろう。知るということに情熱を注いできた先人。その先人が築いた伝統という大河に参与していく喜びだけで生きていける人。たとえ自分の営みはその大河の一滴に過ぎなかったとしても、その大河に加わっているという自負と伝統の道への信頼で満たされている人。そういう人になりたい。
近代思想の荒波の中で、人を魂から鼓舞するものが解体されていった。宗教もそうであるし、芸術、文学、音楽、そして学問もそうである。これらのものから人々が本当に理想とすべきものへの関心が薄れてきたように思われてならない。
見ることは生きることである、と若松英輔は言う(『吉満義彦』275頁)。見ることは傍観者になることではない。学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、ある人々にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。即ち学ぶ(「見る」)ことそのものが人生を「生きる」ことに他ならないのだ。自分が学んだことと自分自身が不可分になる。そうした態度から人を魂から鼓舞するものが生まれてくるに違いない。いまや大学も就職予備校と化しているが、学問は純粋に学問のために行うものであって、学校で学んだ知識を飯のタネにするなど恥ずべき功利主義だとみなすぐらいの風潮があっていい。学問は世のため人のために役立たなければならない。だがそれは金銭的価値に置き換えられるかどうかとは全く別物なのである。
また、若松は池田晶子の「哲学は造られた教義を拒む。いつも常識と共にあろうとする。常識とは、もっとも高次の意味における信仰である」という言葉を書き留めている(『池田晶子 不滅の哲学』112頁)。信仰とは個人崇拝でも教義や戒律でしばりつけることでもない。少なくとも、個人崇拝や戒律は何かを達成するための手段であって、信仰はそれを自己目的とすることを拒む。「信仰」とは「哲学」とか「常識」に近い。人々が生き、死んでいく中で織りなしてきた悲願とも言うべきものである。
小林秀雄が伝統について語っていることがある。長いが引用したい。
「独創性などに狙いをつけて、独創的な仕事が出来るものではあるまい。それは独創的な仕事をしたと言われる人達の仕事をよく見てみれば、誰も納得するところだろう。伝統もこれに似たようなものだ。伝統を拒んだり、求めたりするような意識に頼っていては、決してつかまらぬ或る物であろう。それなら、伝統は無意識のうちにあるのか。そうかも知れないが、この無意識という現代人の誤解の巣窟のような言葉を使うのは、私には気が進まない。伝統とは精神である。何処に隠れていようが構わぬではないか。私が、伝統を想って、おのずから無私が想えたというのも、そういう意味合いからである。
無私な一種の視力だけが、歴史の外観上の対立や断絶を透して、決して飛躍しない歴史の持続する流れを捕えるのではないだろうか。そういう眼の使い方を、特に審美的な見方として毛嫌いしなければ、何もこれは文化の科学的分析と抵触する筈もない。ただ、分析によって、この眼を得る道はないだけであろう。伝統は、そういう眼にしか捕えられない、そういう眼のうちでしか、その純粋な機能を果さない、伝統という言葉を、感傷的にも侮蔑的にもつかうまいと思い詰めていると、この言葉は、どうもそういう姿を取らざるを得なくなって来るように思われる。伝統は拾うも捨てるも私達に自由なものではない。それは、私達の現存が、歴史的なものだという自覚の深浅だけに関わる観念なのである」(『考えるヒント2』文春文庫版136~137頁)。
私たちは伝統という大きな船の中でものを考えている。思想や哲学には国籍がある。なぜなら我々は歴史という大きな流れの中にいるからだ。
人は、一度巡り会った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである、とある小説家は言う。おそらく人だけではなく、本にも、そして自らの心の内に思ったことからも二度と決別することはできない。本は無論、私の心も無限に過去とつながり、そして未来に流れていく。知るとは思い出すということであり、新しく何かを知るということはない。分かるとは無から知識を得るということではなく、今までもやもやとしていた心が整理され、つまり「分」けられ、自覚できるようになったということである。
人間が知らなければならないことはすべて人の魂の中に宿っている。それは私の心に希望の炎をともす魂の灯篭であるとともに、ときに私を支配する物悲しさの種でもある。歴史は現在から切り離された「過去」ではない。そして「現在」「未来」は過去からまったく切り離された時間でもない。そこには地理的、歴史的、文化的制約がある。なぜなら私の発想の根幹には脈々と続く日本の歴史があるからだ。歴史は私のこころであり、日本人それぞれのこころである。
人は自らを不遇だと思うと不幸せになっていく。それは福祉の未整備を放置する理屈にされてはならないが、一方でどれだけ物質的に満たされても幸せにはなれないということも知っておいたほうがよい。自らの胎内に生命が宿っているということを知ったとき、女性は母親になる。それはすべての母親が通った小さな決心に過ぎないものかもしれない。なりゆきで、深く考えずに孕んでしまった命かも知れない。でもそれでも母親が自分を生み育てようと決心したからこそ今自分はここにいるのである。両親は完璧な人ではない。時に怠け、自己を正当化し、傲岸で、嘘つきで、カネに汚く、俗物で、小市民的な人間かもしれない。それでも、曲がりなりにも、人は人を育てることができる。
なぜ、この人の子供に生まれ、この国に育ったのだろう。それを「運命」という言葉で呼べば陳腐になるかもしれない。だが、やはり何か自己決定ではない大きなものに左右され、我々は今ここにいる。そして、次の世代に「何か」を託していく。我々は先人から何を託されたのだろうか。そして次の世代に何を残すのだろうか。信仰は固定化された教義を拒む。伝統の神託は、明鏡止水の境地に宿る。
今までに様々な論客が様々な表現で「利害関係を超えた大きなもの」について語ってきた。ある人は「神」と呼び、「仏」と呼び、「天」と呼び、「伝統」と呼び、「文化」と呼び、「良知」と呼び、「霊性」と呼び追い求め続けてきた。人は誰しも自分が本当にやりたいこと、自分の才能が活かせるところがあるはずだ。それを天職とか使命と呼んできた。それによって金銭を得る得ないは別として、人が自らの才能を活かし社会に還元していくことは、人として生まれ、数々の偶然と縁から生かされてきたことに対する恩返しともいえるだろう。
伝統とは言葉であり、言葉とは魂である、とすれば、伝統とはすなわち人生ではないだろうか。即ち伝統を語るものは一層人の人生、人の心に分け入って思考し、発言せねばなるまい。日本人どうしの感情、感性、魂はどこかでつながっている。
死者も今を生きている。なぜならその死者の言葉が、魂が、今も私の中に息づき、私を揺さぶってやまないからだ。伝統を先例と混同してはならない。ただし両者は思った以上に似通っている。人々に宿る魂に学び、揺さぶられる敬虔な気持ちを忘れた途端、伝統は先例に逆戻りする。先例は制度であり、伝統は心である。「戦後レジームの脱却」と言ってみるなど、人は簡単に制度変革に囚われてしまう。だが、制度が表面上変わっても、心が変わっていなければ、それは変わっていないのと同じことである。そのことは肝に銘じたほうがよい。
カネを持つよりも、権力を持つよりも、一冊の本と人生について語り合える友を持つほうが幸せである。「伝統」と「信仰」について心から分かれば、そのことが表わす本当の意味が見えてくるに違いない。
(続く)
※「伝統と信仰」は次回で最終回です。