明治日本はそれまでの封建的主従関係を打ち捨てて近代化に走ったことから、深刻な道徳の混乱に陥っていた。その道徳の混乱を収めるために、様々な教えが活発に唱えられた。仏教、儒教、神道、武士道…。明治時代は宗教の時代でもあるということだ。急速な近代化への反発が様々な信仰への傾斜となって表れた。その中でも特異な位置を占めのが耶蘇教である。明治時代は安土桃山時代と並んで広く日本に耶蘇教信仰がひろまった時代である。
明治日本の耶蘇教は、必ずしも欧米崇拝の中から生まれたものではなかった。耶蘇は儒学に代わり日本人の道徳を作る指針として受け入れられたのであった。したがって明治時代の耶蘇教とは儒学に大いに影響を受けている者が多いし、その耶蘇教理論は耶蘇を語っているようで儒学や武士道を語っているかのような響きさえ感じることがある。経済合理性を超えた「価値」が見失われた時代に見出されたのが耶蘇であった。これは江戸時代において仏教も儒教も体制と結びつき官学化していたためであり、あるいは神道は人々に道徳を強いる強制力を見つけにくかったからであろう。
わたしの出身大学である青山学院大学は日本で有数の耶蘇教色の強い大学である。毎日礼拝が行われ、耶蘇教の授業は全学生必ず取らなければならなかった。耶蘇教徒でもなく、たまたま合格してしまったから入学してしまったわたしのような学生にとって、その時間は不可思議な時間でしかなかったが、不思議とキャンパス内の世俗的時間よりは、礼拝堂の敬虔な空気の方が居心地が良かった。わたしの耶蘇嫌いでありながら耶蘇に関心を持ち続ける複雑な感情はここから始まっている。
今も忘れ得ぬ光景がある。耶蘇教の授業で家の近くの教会の礼拝に参加し、レポートにまとめて提出せよという課題が与えられた時だ。地元の教会に行くと、そこは不思議な空間だった。牧師が説教をしているのを大人たちがききながら子供たちはわぁわぁ遊んでいる。礼拝が終わると自然とお昼の時間となり、各自弁当を持ち寄って近所の人と交換し合ったりしながらワイワイ楽しんでいたのだ。もう日本の都市部からは喪われたと思っていた小共同体がそこにはあった。「教会」とは、もともとは教義、教団とは関係なく「人々が集うあう集会所」が語源だと言うが、まさに訪れた教会はそういう場所であった。そういう場所が現代日本には決定的に欠けている。仏教は葬式仏教となり、日常を拘束する存在となっていない。外来宗教にしか、日本人の霊性を満たす存在はないのか。
おそらく寺子屋もまた、わたしが訪れた教会のような場所の機能を果たしていたのではないだろうか。寺子屋は単なる学校ではなく集会所の機能を果たしていたと思われる。だが、明治時代の学生の発布において寺子屋が官製の学校に代わってしまったために、その機能は失われた。いまや学校はただの会社員養成装置でしかない。
明治も時代が経ってくると、「皇道」が説かれるようになる。これも日本独自の信仰を見出そうとした悪戦苦闘の結果に他ならない。こうした皇道観念を戦後は「ファシズム」とか「全体主義」と言って葬ろうとした。だがそれは、人が元来持つ個人的あるいは経済的利益を超えた超越への思慕を軽視した議論ではないだろうか。明治以来続く、人々の「魂の飢え」から目を背けてはならないのである。