フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン(Pio Duran)博士の『中立の笑劇:フィリッピンと東亜』(堀真琴訳編、白揚社、昭和17年)を紹介する。章立ては以下の通り。
第一章 歴史的回顧
第二章 アメリカ政権下の平和的独立運動
第三章 中立の笑劇
第四章 日比同盟
第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義
附録
第一 タイディングス・マクダフイー法
第二 タ・マ修正法
第三 比律賓憲法
まず、「第五章 比律賓独立と亜細亜モンロー主義」を数回にわたって紹介する。
〈将来に於ける比律賓共和国の領土保全を護る為に日比同盟をば締結し、中立条約の締結はこれを拒絶するとすれば、その結果必ず東亜諸国民間の関係及び交渉の密接化を助長することとなるであらう。東亜に於ける四独立国たる日本、支那、満州、泰国間に汎亜細亜連合が組織され、以て今や亜細亜諸国間の種族、文化、習慣、伝統の縁を強化する協同及び相互活動を齎す機能を果してゐる。
最も傑出せる汎東洋主義の提唱者は恐らく故孫逸仙なるべき処、彼は神戸に於て為したる演説に於て如何に亜細亜諸国民が白人種により抑圧されたかを述べて次の如くいつてゐる。
「被抑圧亜細亜諸国民が如何にして欧羅巴の力に抗し得るかといふ問題を解決する為には、汎亜細亜主義を研究しなければならぬ・軍国主義的国家は自国民と同様に、他国国民を抑圧するものである。吾が汎亜細亜主義は「王道」に基いて不正を克服せんことを目的とする。諸国家の大衆を同様に開放せんことを企図し、軍国主義に反対する。諸兄日本人は既に『王道』なる諸兄特有の東洋文明に加ふるに西洋軍国主義的文明を採用せられた。諸兄は今や西洋軍国主義の番犬となるか、又は『王道』に基く東洋的生活方法の砦となるか、二者択一の地位に在り。」〉(同書133頁1行目~134頁7行目)
「ピオ・デュラン」カテゴリーアーカイブ
津島壽一が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士②
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述。
〈デュランさんは親日家であったが、その根本の思想はフィリピン民族主義者、フィリピン愛国家として教育、政治の部面に活動したのであり、そして、そのためには日本と親しくするのがいいという考えの持ち主であった。従て国語についてもタガログ語を奨励した。デュランさんの議会におけるタガログ語の演説などは堂々たるものであったそうだ。(私にタガログ服の着用を推奨したのも、こういった主張のあらわれだと解釈すべきであろう)
デュランさんは、一九〇〇年五月アルバイ州(Albay)ギオバタンに生まれ、一九二四年国立フィリピン大学卒業後、数年間同大学法学部の教授として後進を指導し、のち弁護士を開業し、また農業方面にも活動した。一九三二年に著書「比国独立と極東問題」を刊行し、この書の中でも親日論を強調した。
日本軍占領中は、内務次官、対日協力会理事長などを勤めたため、ラウレル、ヴァルガス等の要人と共に戦後約十四ヶ月(一九四六―七年中)ばかり獄中生活をしたが、ロハス初代大統領によって釈放された。
議会人としての経歴であるが、大戦前二回立候補したが、一度は親日ということが崇って落選した。が、一九四九年郷里アルバイ地区から下院議員に再選し、ナショナリスタ党の有力な幹部となり、銀行通貨委員会委員長、外務委員会委員として華やかな議会活動をした。が、惜しいことに昭和三十二年(一九五七年)七月来日の際、脳出血に罹り、荻窪の東京衛生病院で三ヶ月間も療養し、帰比後も健康が勝れず、一昨年(昭和三十六年)二月二十八日、マニラ郊外の自宅で他界されたのであった。あの快活であり、率直であり、雄弁家であり、そして親日家であり、世話好きの好紳士を失ったことは誠に痛惜に堪えない。
追記
(一)デュランさんは、戦後二度目の夫人(Mrs. Josephina Belmonte Duran)を迎えたが、その夫人はかってマニラ大学教授時代の教え子であったそうで、教養も豊かに、弁護士の資格を有った立派な方で、デュランさんの逝去した年の十一月、その選挙区(アルバイ)から立って、下院議員(リベラル党)に当選し、現在に至っておるとのことだ。
(二)本項のデュラン氏の経歴等については、同氏と親交のあった山本恒男氏(一九三八年二月─一九四二年七月、正金マニラ支店長)から示教をうけたところによる〉
津島壽一が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士①
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、津島壽一『芳塘随想 第10集(先輩・友人・人あれこれ)』(芳塘刊行会、昭和38年)の記述を数回に分けて紹介する。
津島は、明治21(1888)年に香川県阿野郡坂出村(のちの坂出市)で生まれた。東京帝大法学部卒業後、大蔵省に入省、小磯内閣の大蔵大臣を務めた。戦後は、日本国主席全権大使としてフィリピンとの賠償交渉にあたった。
〈「マニラに懐う人々」のうちで、私にとり深い印象をのこした人として、比国下院議員ピオ・デュラン氏(Mr. Pio Duran)がある。
私がデュランさん(以下デュランさんと呼ばして貰う)に初めて会ったのは、昭和二十六年十二月二十八日、元正金マニラ支店長の山本恒男君に伴われて外務省顧問室に私を訪れたときである。
爾来、デュランさんからは、比国の政情や、賠償問題に対する態度その他について、極めて有益な情報と意見を聴くことができた。いよいよマニラヘ出発する時期も近づいた一月十六日(昭和二十七年)には、都内の某所で会食して、これらの問題についてゆっくりと懇談する機会があった。それから、マニラ到着後も、しじゅう私をホテルに訪ずれられ、友人としての立場で何かと面倒を見てくれたものである。
デュランさんは、自他共にゆるす大の親日家である。その夫人の甥二人を養子として薫育されたが、その名前も一人は東郷平八郎デュラン(Togo Heihachiro Duran)他の一人は黒木為禎デュラン(Kuroki Tametoshi Duran)と付けたり、また、この二人を日本の小学校に入れたりしたことによっても、それはうなづけることとおもう。……私のキリノ大統領の晩餐招待のときに急造したタガログ正装の如きもでデュランさんのあっせんにより一日間で間に合わせたのであった。あるときは、マニラホテルの私の部屋へ、極上のタガログ料理を持込んでくれ、団員等と愉快に夕食を共にし、歓談を交えたりしたこともある。とにかく、同氏の厚い情誼には私どもいたく感動したものだ。私のマニラ賠償会談の結末に対しても心から喜んでくれ、離島のときには国際空港に来られて成功を祝してくれたのであった〉(続く)
金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士③
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈日本人であるわたしでさえも、終戦を転機に、百八十度転換した母国の激しい変貌にはすっかり戸惑ってしまったくらいだから、忠君愛国の心酔者だったデュラン氏が、愕きそして失望したのも、無理からぬことだったろう。
デュラン氏は、名状しがたい気持で宿舎に戻り、このことを夫人に話したくだりを語りながら、
「ミスター金ケ江、妻に対して、こんなに面目を失墜したことはなかったよ。僕の話を聞きながら笑っている妻の顔を、面目ないというのか、気まりが悪いというのか、まともには見られなかったよ」
と、こぼしたことがあった。
それでもデュラン氏の日本びいきは変ることなく、その後もたびたび来日して、日本商社となにか共同事業を計画しているようだった。そのうちの一つに、氏の郷里がマニラ麻の生産地であるところから、麻を輸出して優秀な日本の技術によって加工する、新しい製品の開発に努力していたが、糖尿病が持病だったデュラン氏は、数年前に、事業の成功を見ずして他界したのである。ヒリッピンでは戦前、戦役を通じて異色の人物だった。
わたしの長男清彦が関西学院を卒業の時、卒論にとりあげたのが、このビヨ・デュラン氏の日比同盟論であったことも、わたしにとっては氏とのゆかりの一つである。
日本へも来日したことのあるファニタ夫人は、デュラン氏の亡きあと、アルバイ州の選挙区の人たちに推されて、下院議員に連続当選しているそうだが、これを見ても、デュラン氏がいかに人びとに人望があったか、想像されるのである。人間の真の価値というものは、その人の死後に決まるものだ、とよく言われるが、このデュラン氏などは、生前よりむしろ死後において、その価値が再認識された一人ではあるまいか〉
金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士②
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述。
〈…終戦後は、対日協力者としてモンテンルパ刑務所に監禁されていたが、この人について今も忘れられない、一つの思い出がある。
それは、モンテンルパから釈放された氏が、郷里から出馬して下院議員となり、戦後問もなく二番目の新夫人を同伴、来日したことがある。その時は、まだヒリッピン大使館がなくて、ヒリッピン代表部の代表だったメレンショ氏の公邸で会ったことがある。デュラン氏はわたしの顔を見るなり、驚いた声でこう叫んだものだ。
「ミスター金ケ江、武士道の国ニッポンは、いったいどこへ消えてしまったのかね?!」
君主国日本に憧れていたデュラン氏の脳裡にあった、忠君愛国のイメージは、敗戦の虚脱のなかで混迷している日本の姿に接して、はかなくも、音をたてて崩れ去ったものらしかった。その驚きと失望のうちに語るデュラン氏の述懐は、次のようなものであった。
同氏は、かねてから新夫人に向かって、日本ほど素晴らしい国はない、と口をきわめて礼讃し、わがことのように自慢していたという。
「日本の善良な国民は、天皇陛下をうやまうこと神のごとく、たとえば乗っている電車が、天皇のおいでになる皇居の前を通る時は、乗客はみんな起立して、皇居に向かってさい敬礼するし、また日曜日には、ヒリッピン人が教会へお詣りするように、市民たちは朝早くから皇居前の二重橋という所へ行き、そこに跪ずいて両陛下を遥拝し、老いも若きも忠誠を誓うのだよ。こんな国民は世界広しといえども、この日本よりほかにはないんだ。なんと素晴らしい国民じゃないか」
ちょうどその日が日曜日だったので、デュラン氏は夫人を呼んで、
「お前は、三宅坂の教会に行って、ミサのお詣りをしてくるがいい。わたしは、これから二重橋へ行って、両陛下を遥拝してくるから」
そう言って一緒に宿舎を出たデュラン氏が、二重橋まで来てみると、脆ずいて遥拝している敬虔な日本人の姿は一人もなく、そのあたりを若い男女が手をつないで、楽しそうに散歩している意外な光景が限に映り、まるで、マニラのルネタ公園にでも立っているような思いがしたデュラン氏は、思わず眉をひそめて、
「ここが日本の二重橋か……」
と、思わず口走しったというのである〉(続く)
金ケ江清太郎が見たフィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士①
フィリピンの大亜細亜主義者ピオ・デュラン博士に関する、金ケ江清太郎『歩いて来た道―ヒリッピン物語』(昭和43年)の記述を数回に分けて紹介する。
金ケ江氏は明治27(1894)年に長崎県無佐世保市に生まれ、明治42年に16歳で単身マニラに渡航した。昭和10年にナショナル・ゴム工業を創立、戦後は信交商事を設立した。
〈……これから紹介する人たちは、ヒリッピン側でもいわゆる《親日家》として有名な人であった。
まず第一に挙げたいのは、ピヨ・デュラン氏である。氏は、はじめ友人のマルエル・リム氏と共同で法律事務所を開いていた有能な弁護士だった。横浜正金銀行、日本鉱業のほか日本人関係の顧問弁護士をしていて、在留邦人との知己も多く、のちにはヒリッピン大学のプロフェッサアーとなり、さらに郷里アルバイ州から立候補して下院議員になった、明るい性格の人であった。
デュラン氏が、どうして大の日本びいきになり、日比同盟論まで提唱するようになったか、その詳しい動機や経緯は聞きおよんでいないが、アメリカの統治下にあった当時のヒリッピンで、堂々と日比同盟論を主張する氏の勇気と信念には、わたしも感服したものだった。
デュラン氏が学者としての立場から、あらゆる関係の文書を渉猟し、研究を重ねてゆくうちに日本の歴史と国体を知り、そして日本民族に心を惹かれ、ことに氏の魂を強くうったものが、日本古来の武士道の精神であったらしい。
ヒリッピンのように言葉も習慣も、そして文化も宗教も異なる群小の多民族が雑居している国で、国家としての歴史もまた、民族としての伝統もなく、まして植民地として永く外国の圧制下に苦しんできた国柄であってみれば、連綿たる歴史と伝統と文化を待った国家と国民に対して、深い憧憬を抱き、ことに明治維新後、近代国家として発展してきた隣邦・日本に、心から尊敬の念を寄せていたとしても、不思議なことではあるまい。しかも主君に仕えた武士たちの、烈々たる自己犠牲の忠誠心と、義を第一とする五常の道は、おそらくデュラン氏には驚異であったに違いない。
ともあれデュラン氏の日比同盟論は、ヒリッピン人のなかにも多くの共感を呼び、ようやくナショナリズムに目覚めてきた人にちには、人気があったものである。戦時中渡航して来た日本の軍人や右翼関係の人の共鳴と支持を得て、それらの人たちと交わり、ことにアジア協会マニラ支部長望月音五郎氏などは氏を担ぎあげて、利用していたようであった〉(続く)