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アジア主義に対する考え方

 孫文という、徹頭徹尾政治屋だった人間がいる。彼が行った有名な講演に、「大亜細亜主義」というものがある。

 孫文は、最初日本がアジア復興の光となってきたと述べる。そしてその結果東洋諸民族は西洋から独立することを旗印に連帯できるとしている。このあたりまではアジアの連帯を主眼に考えていると言えるが、かつての支那の朝貢関係の話になるととたんに支那ナショナリズムが顔をのぞかせる。つまり支那は王道によって他国に接したから成功したのだ、と自国を持ち上げているわけである。もちろんこれが当たっていないことは明白である。さらにソビエトを礼賛するあたりにおいては、この年の一月に国共合作を果たしたばかりであるという自国の政治状況が露骨に出てしまっているのである。したがってアジア主義は西洋に対抗すると言う点では理解しあうことができるが、自国の歴史観や国益などでは対立、決裂してしまうと言う状況がすでに見え隠れすることに気づくだろう。
 また、孫文は武力に由らない東洋の王道を絶賛しながらも西洋の武力文化も学ばねばならないと矛盾したことも言っている。孫文は西洋とは違いあくまで自衛のために使うのだと主張するだろうが、王道を以て他国を感化できるのであれば自衛のための武力も必要ないのではないか。

 孫文の発言は自分を支援してくれた者を高く評価し、支援してくれない者を貶めるだけ、あるいは自己の立場を正当化するだけの、主義とか思想の名を冠するに値しないただのポジショントークである。

 福沢諭吉は「脱亜論」で支那朝鮮は滅び行く国であり、隣邦の交誼だと言って会釈に及ぶ必要はなく、西洋人と同様に接するべきだと言っている。これをもって福沢は侵略主義者であるとの決め付けが今でも行われている。しかしそれは誤りであろう。全文をよく読めばわかるとおり、この論説における「アジア」とは「植民地化される国」であり、むしろ日本がそれと同様に西洋にみなされていることを恐れているのであり、積極的な侵略を求めたものではない。福沢は金玉均などの朝鮮改革派と親しくしていたがそれらの活動が挫折したことで、東洋を守り立てる運動に挫折した形となった。その結果がこの論説であり、そのことを見ずして福沢を西洋主義の権化のように言うべきではない。ただし福沢は「文明開化」を必ずしなければならない良いこととして信じ込んでおり、それに乗り遅れた支那朝鮮を見放す結果となった。福沢の脱亜論は支那朝鮮も開化しなければならない、開化できるという過度な期待の裏返しであり、隣国に多くを求めすぎた結果であろう(古谷経衡『もう、無韓心でいい』79~85頁)。もっとも、福沢がこう言う考えを持つに至ったのは、「文明開化」しなければ帝国主義の時代で生き残っていけないという強い危機意識によるものだ。「文明」を過度に信じすぎると、「文明」に浴しない者を未開、野蛮視するようになる。福沢はその典型的人間だ。福沢は貧困層やアジアの民に対し侮蔑的な発言を繰り返している。福沢もまた帝国主義の世界化で自己利益、日本の利益ばかり重んじた、孫文とはまた違ったポジショントークの人間である。

 話を戻して、アジア主義とは、西洋人の世界支配に反対し、アジア人による秩序構築を呼びかける思想ないし運動であった。しかしこのアジア主義も論者によって思い浮かべるところはさまざまである。それらを本来一様的に語ることは難しい。そしてアジア主義には二つの限界があった。
 一つは、アジアが連帯しても、当時の欧米には歯が立たなかった、という現実である。軍事力、経済力の差は決定的だった。その現実に直面したとき、大東亜共栄圏構想の様に「近代化を成し遂げた日本が中心となったアジア主義でないと西洋に対抗できない」という発想が生まれたのだろう。しかし、それも大東亜の敗北により夢となってしまった。
 二つ目の理由は、「アジアは一つ」ではなかった、ということである。ヨーロッパはローマ帝国やナポレオンなど、その領域が大きく変動することも史上に何度かあったし、何よりキリスト教という一つの世界観が確立されていた。後にカトリックとプロテスタントに分かれるが、その先鋭的な対立も収まると、共通の機軸を持った一様的な世界ができたわけである。パワーポリティクスのもと、同盟の離合集散を繰り返してきたこともそれに拍車をかけたと言えよう。
 ところがアジアは支那による中華秩序が多少成立していたが、それらの結束は弱いものだった。一つの共通した価値観を持った「アジア世界」なるものは、未だに訪れていない。アジア内部があまりにも多様すぎるのだ。それはアジアが仏教や儒教、イスラム教、そして日本の神道などさまざまな信仰の雑居地帯であったことが重要な原因として挙げられる。

 アジア主義は、西洋への反発から生まれた。その心意気は今の我々にも通じるものがある。しかしその影で「アジアはあまりにも多様な世界」であることを見落としてしまった。アジアは連携できない。支那朝鮮は無論、インドとも、東南アジアとも、モンゴルとも、台湾とも連帯できない。すべきかすべきでないかの話ではない。したくてもできないのである。できるとすればせいぜい利害関係に基づく緩い連帯であろう。
 その最大の原因は共通の文化がないからである。人によっては台湾やトルコ、イスラム圏などは日本に好意的ではないか、と思う向きもあるだろう。だがそれは彼らの現在の政治状況がそうさせるのであって、過度な期待は禁物であると私は思う。

 最後に念のために断わっておく。アジア主義を批判する人間には、時にアメリカや西欧との関係を重んじるためにそれを述べる場合がある。私はそういった意見には与しない。アジアは遠い。だが欧米はそのアジアよりもかけ離れている。世界のどこかに日本の味方がいるなどという、うす甘い期待からまず醒めることから初めては如何だろうか。

清末の改革

 清末における改革の意義を、国家統合の再編という観点から論じるためには、まず清末にどういった改革が行われたかを述べなくてはならない。

 清が本格的に近代国家として出発するきっかけとなったのは、1840年から始まったアヘン戦争、1857年からのアロー号事件だった。清はそれに破れることによって『華夷秩序』による伝統的な対外秩序を放棄せざるを得なくなった。華夷秩序は朝貢外交を基盤としており、対等な二国間関係を基礎とする主権国家間の近代外交とは根本的に相容れない存在だった。上記の戦争に敗れて押し付けられる形で始まった近代外交で、国家間関係の対等化、常駐外交官の派遣などが行われた。しかし周辺諸国に対してはまだ朝貢関係を持続させようとしていた。対外条約が結ばれるようになり国境が規定され、「中国」の領域が規定された。
 清の内部に関しては、19世紀中期から大反乱が続発していた。1850年から太平天国の乱が、1853年には捻軍が蜂起した。1860~70年代にはその蜂起を平定し統治体制の再建に臨んだ。

 内治各省では州県制の再建が目指された。
 新彊ではイスラム社会による間接統治が行われていたが、州県制に移行が試みられた。1862年には西北回民が反乱し、現地のイスラム教徒に波及した。清国内では新彊の放棄論と回復論が唱えられ、激論となったが、回復論が採用され、1876年に新彊回復戦争が行われて勝利した。その結果統治体制の再建が行われて、内治制度が採用された。新彊省が設置された。官僚により直接統治が行われた。イスラム有力者が地域行政ポストに任命される形となった。漢民族の文化が流れてきたが、現地社会には浸透せずイスラム文化を維持した。

 北部遊牧地域は盟旗制を維持した。
 東三省・モンゴル・チベットは基本的に安定していて、それぞれの統治体制を維持してきた。チベットでは、イギリスが通商要求したが、清朝は容認する方針だったものの、ダライラマ政権が拒絶したため、英国が出兵。敗北した。清朝は駐蔵大臣をインドに派遣する交渉をし、インドとの国境を定める交渉が行われた。
ここにきて清朝の統合は崩壊の危機が訪れたが、内地の州県制再建と新彊の州県制移行で基本的に維持された。多元的統合は19世紀末までは維持されたが、20世紀初頭はそれも再編され、一元的統合(国民国家)に再編された。
 国民国家化するためには議会制・徴兵制・国民教育の三者が目指された。清国は日清戦争の敗北により、多元的統合体制に現体制下での近代化の限界を感じ、日本をモデルとした国民国家化を目指した。1898年には戊戌変法が急進的な改革を目指した。1901年には「変法の詔」が出され、海外の制度を積極的に受容する抜本的改革が表明された。「立憲改革」をスローガンに、立憲君主制が目指された。近代法体系の整備と、議会制の試行、近代会計制度、近代司法制度、地方自治制度、義務教育普及などが行われた。これらはある程度成功した。
 内地では、憲法が公布され、議会を開設するための諮問議会が開かれた。地方自治制度は庁州県―城鎮郷の二級制が住民選挙による議事会が開かれた。行政職では城鎮郷は議事会が選出した役人が統治し、庁州県は政府が派遣した役人により統治された。選挙を実施するためには住民登録が必要なため、戸籍が調査された。しかしそれは概算人口に依拠したものであり、不正確だった。
 東三省では漢人の入植が盛んで、内地制度が実施された。藩部では内地との同化が前提とされた省制の移行が行われた。たとえば議会である資政院の欽選議員の中には蒙古王公が十二名含まれていた。
 蒙古では統治方針が変更され、漢化防止規定が撤廃され、漢人が入植し、漢語が使用解禁された。
 チベットに対しては、軍隊を駐屯させ、学校を作ったがダライラマらは反発。亡命した。

 清国は国名を「大清国」から「大清帝国」という立憲政体を前提とした国名に変更することさえ考えていた。そのなかで「大清帝国」という国民国家として、「大清帝国ナショナリズム」の作成が試みられた。儒教イデオロギー・漢語による文化統合、汎民族的統合モデルの制作、世襲の軍務服役などが画策された。国民国家化する上で八旗をモデルに満人、漢人の分離統治を廃止。八旗の廃止により徴兵制の実施も検討された。
 こうした「大清帝国ナショナリズム」に漢人は二通りの反応を示した。漢人のみのナショナリズムを標榜する革命派は、激しく反発。立憲派は容認方針だった。後者のほうが大勢だったが、その前提には彼らが主導権を握ったシステムが出来上がることがあった。
 1911年に内閣が組織されると、その満人が多いことに漢人立憲派が反発。再組閣要求を行ったが、清朝側は拒絶。その結果孫文を主導とする革命派に立憲派の多くの人員が流れ、「大清帝国ナショナリズム」の共有は失敗した。

 このように清末の改革は失敗に終わったわけだが、その原因には漢人の支持を最終的には取り付けることができなかったことが挙げられる。前の体制の根幹である満洲族による統治にこだわったため、漢人の願望を満たせなかったためだ。しかしより多くのポストを割けば漢人が満足したとも限らないから、一概に満洲人が責められたものでもないだろう。自国の状態を考えず、自民族のみの統治にこだわった漢民族に非があるといえなくもない。
 だが、その後に成立した中華民国も、清朝の体制を引き継ぐ形で成立しており、宣統帝が退位するときには各民族が平等であるということを確認されている。その上で五族共和原則が出されている。これは汎民族的ナショナリズムの構築を目指すものであり、中華民国ナショナリズムとは大清帝国ナショナリズムであるといえる。とはいえ実態は漢民族が握っていたから、建前としての中華民国ナショナリズム、実態としての漢民族独占体制といえる。そうせざるを得なかった理由としては、やはり周辺の各民族の理解がなければ国家の成立など到底不可能だったからではないか。袁世凱は孔子廟を祭祀したり、復古的な政策を取る中で、共和政体と儒教イデオロギーの折衷を目指していた。共和制中国の国家元首とモンゴル王公の盟主、チベット仏教の保護者などの清朝の皇帝の役割を汎民族的ナショナリズムの構築のため兼任するためには、帝政こそ相応しいと考えていたのだ。
 袁世凱の帝政復活は結局頓挫したが、その後の中華民国は蒋介石が武力により完全統一するまで長く混沌状態が続く。結局「中華民国の国家元首」では汎民族的な理解を得ることはできなかったからであろう。

 近代国家を作り上げるに際して、「民族」という概念ははずすことができない。各人が民族と言う血族的、文化的諸集団に入り、それらを統合する存在として国家がある、と言う考え方がそもそもの国民国家の成立の原理だからだ。国民国家化を目指す場合、それをはずして考えることはできない。
 袁世凱の場合、漢民族だけを対象とした漢民族による国家を作ることも全く不可能ではなかったはずだ。しかしそれをしなかったのはおそらく政権の正統性がなくなるからだろう。中華思想に支配されている「中国人(この言葉がそもそも中華思想による言葉とも言えなくもない)」が前政権との連続性を放棄することは中原を支配する正統性を譲られなかったことになる。その意味で袁世凱は清国をなんとしても引き継がねばならなかった。
そのときに清末に行われた「大清帝国ナショナリズム」が参考になったはずだ。汎民族的なナショナリズムを構築することで清国を引き継いだ存在になることができる。そのためには清国皇帝と似たようなポジションに誰かがつくことが必須だったはずである。

 結局その後の支那における政権は中華民国しかり、中華人民共和国しかり、強力な軍事力による独裁体制しか成立していない。他民族の必要に答えるだけの統合の象徴を持ち合わせていないのだから、当然の結果と言えよう。
 清末の改革は「中華世界」における国民国家を成立させるのにほとんど唯一の道をたどろうとしていたように思う。
 国家統合において各文化(各民族と言いかえることもできる)の必要を満たす(満たせない場合は強力な力により押さえ込むしかない)ことは必須だが、清国末期に行われた改革はそれらを満たしながら近代化する動きとみてよいだろう。
 改革は失敗に終わったが、「大清帝国ナショナリズム」は今後の支那統治を眺める際にも参考となる部分が多いように感じる。

清朝の治世について

 清朝の統治体制について理解するには、清朝がどういう理論を使って国土を広げていったかをたどる必要がある。その統治の過程をたどることにより必然的に統治構造が見えてくるだろう。なお、清朝は初期は金といったが、ここでは便宜的に「清朝」で統一する。

 清朝の特色としては、漢民族の建てた王朝ではなく、満州族という少数民族の立てた王朝であるということである。その結果清朝は統治過程において、満洲期、「中華」(伝統的に漢民族が居住していた地域)進出期、西域への領土拡大期の三段階を踏むことになった。それが統治体制にも大きな影響を及ぼしている。そこで清朝がこの三段階をどのように経ていったかを見ていくことにする。

 まずは満洲期について述べる。満洲とは中国東北部、沿海州などを含めた地域の総称である。ここでは女真人というツングース系民族が伝統的に居住していた。1616年、ヌルハチが後金を建国した。ヌルハチは八旗制度をつくった。八旗制度とは1ニル=300人単位で編成される社会集団で、戦時には軍事化されたものである。八種類の旗の下に集約されたことから八旗と呼ばれた。また、清朝が領土を広げていくと同時に帰順した地域の兵士を八旗に編入させた。満洲地域を平定した清朝はモンゴル部にいた北元も帰順させ、このとき正式に「大清国」と名乗ることになった。また、この時期に女真人から満洲人に改称している。これは文殊菩薩から来たものである。これは後にチベットを帰順させたときに大きな意味を持つ。

 次に中華期について述べる。清朝は明朝と遼東を主有していた明国と長年対立関係にあったが、明朝の内乱に乗じて、「中華」地域まで侵攻(入関)した。当時の清国皇帝順治帝は奉天で一度即位しておきながら、入関後に北京遷都し、北京で再度即位している。これは旧明官僚による推戴という形をとっており、これにより、明朝を継承する、という建前が誕生した。
 しかし南方ではまだまだ清朝に対して反旗を翻すものも多かったが、清朝はそれら氾濫勢力を平定する過程により中国支配を固めていった。

 最後に西域への領土拡大期について述べる。先に清朝は北元をさせ、元朝の王権を継承する建前を手に入れていたが、それはこの時点で全モンゴルを支配していたというわけではなく、まだまだモンゴルには北元以外の勢力もあった。清朝はこの時点では内蒙古を支配していた。西部はオイラート族のジュンガルが支配、外蒙古(ハルハ部)は両者の緩衝地帯となっていて、ジュンガルと同盟関係にあった。
 そのハルハ部で内紛があり、それに対して清朝とジュンガルがそれぞれ介入し、その結果ジュンガルと清朝が外蒙古で対決することとなった。1696年に康熙帝が親征することで清朝が有利となり、1732年には清朝が決定的な勝利をつかみ、1739年に和議成立、アルタイ山脈を境とすることとなった。これにより内外モンゴルにおいての清朝の統合が達成され、モンゴル支配が完成した。
 モンゴル支配が完成すると、清朝はチベット支配に乗り出した。チベットではラマ教とも呼ばれるチベット仏教が盛んな土地で、世俗の君主保護者を「転輪聖王」(ダライ・ラマ)と呼び観音菩薩の転生者と考える発想があった。
 清朝はチベットでの宗派間抗争に乗じ、チベットでの勢力を伸ばした。ダライ=ラマ5世をチベット仏教の宗派であり、清朝が擁護したゲルグ派から出すことに成功、清朝とチベットには間接的関係が成立した。後に清朝は「駐蔵大臣」を二名置くことになる。清朝はゲルグ派に帰依し、それにより清朝皇帝が「文殊菩薩転生者」とみなされるようになった。このように清朝とチベットとの関係は政治的関係というよりは宗教的関係なのである。これは清朝の統治形態の中で重要な意味を持つことになる。
 さらにモンゴル地区、チベットを巡って対立を続けたジュンガルの根拠地である新彊地区も支配することとなる。もともとこの地区は10世紀からイスラム社会であり、チャガタイ=ハン国が成立したときもイスラム国家だった。1750年にジュンガルは内紛を起こす。清朝はこれに介入。ジュンガルを滅亡させ、清朝に統合させることに成功した。タリム盆地のイスラム勢力も独立を目指すが1759年には清朝に平定される。この地区は清朝により「新彊」と名づけられた。
 また、この時期ロシアとネルチンスク条約、キャフタ条約を結び、国境を画定した。
これらにより清朝の支配領域が固まった。

 今まで見てきたように、清朝は満洲の地から起こり、蒙古、西域まで支配領域を徐々に延ばしてきた。その結果、さまざまな民族、宗教、体制を持っていたところを統治しなければならなくなったので、清朝の統治体制は自然多様なものになった。
 清朝の統治領域は、まず直接統治地域と間接統治地域に分かれる。前者は満洲、つまり東三省と内地十八省(=歴史的中国、旧明領)をさし、後者は蒙古(モンゴル)、西蔵(チベット)、新彊をさす。これら五つの地域はそれぞれ異なった統治が行われた。
 まずは東三省について。ここではかつてから女真人による国家統治が行われてきた。そのためこの地域においては伝統的な集団単位の人民編成による統治方式が継続された。
 女真人社会は半農半牧社会で、狩猟や戦争時には「ニル」と呼ばれる十人制の集団が組織として機能していた。清朝の祖ヌルハチはそれを応用して八旗制度を作り上げた。八旗制度とはニル単位の社会集団であり、戦時にはこれが軍団化した。清朝が他民族を帰順させていく過程の中で、次々と八旗に編入する作業が行われた。蒙古八旗、漢軍八旗、回子佐領(ウイグル人)、番子佐領(東部チベット人)、高麗佐領(朝鮮人)、俄羅新佐領(オロス・投降ロシア人)、さらに亡命ベトナム人が漢軍八旗に編入されたことがそれである。
 1644年に「入関」すると、北京には禁旅八旗、各省主要都市には駐防八旗が置かれた。これらは漢人の移動移住を規制する制度である。
 東三省は八旗制度こそが地方行政制度であり、住民は八旗に編入された。ただし遼東地域は後に州県制度に移行した。

 次は内地十八省について述べる。内地十八省では州県制度が採られた。これは入関の際、旧明朝の官僚制統治を継承したからである。官僚、軍人の登用には科挙が用いられた。このように内地十八省での清朝の統治は旧来からの中国の制度を継承した要素が強い。しかし内地人民は八旗に編入され辮髪や満州式の服装を義務付けられた。また、少数民族は土司制度が採用され、間接統治が行われた。辮髪などにする必要はなく首長は世襲で任命された。ただし科挙受験資格はなかった。
 1728年曽静事件が起こった。これは無名の漢人知識人による謀反だった。謀反の理由は、華夷思想により「夷」による支配を否定していたからだった。時の皇帝である擁正帝はこの理由に、「華」とは文化的属性であり儒教理念をいかに実践するかだとして、漢人のみが優越であることを否定し、清朝の正当性を主張した。この事件により清朝は以前は「夷」であったが中国王権を継承したことで「華」の属性を獲得し、華と夷を平等に支配するという「華夷一家」の思想を打ち出した。そしてこれにより恒久の平和が実現できるとして清朝統治の優越性を説いた。これは漢人知識人全体への宣伝であり、清朝はこうして華夷意識を清朝自体の正統性へとつなげていった。

 モンゴル系遊牧社会である蒙古、青海、新疆北部においては部族自治=「盟旗制度」が採られた。部族単位は旗(ホシューン)、部(アイマク)、盟(チュルガン)、の三つである。旗長(ジャサク)は王侯による世襲で、皇族待遇であった。
 チベットではゲルク派保護体制が敷かれた。寺院や貴族が領主として支配するも、駐蔵大臣が派遣され限定的ながら内政関与が強化された。1793年にはダライ・ラマ新選出法が制定され、内紛を調整した。
 1780年に乾隆帝はパンチェンラマ4世と会見した。このとき両者は対等の処遇であった。これはパンチェンラマが阿弥陀仏の転生者と考えられていた一方、清朝皇帝は文殊菩薩の転生者と考えられていたことに由来する。しかし清朝官僚や朝鮮の使節にとってはパンチェンラマをも皇帝と同じ拝礼をしなければならないという事態となってしまった。そのことにより乾隆帝批判も出た。これは清朝皇帝が天子として全人類に君臨する存在と考えられていた一方で、チベットでは転輪聖王として諸転生者の一人としてしか捉えられていなかったという矛盾が露呈した形となった。清朝の統合理念が儒教とチベット仏教を使い分けていたことのダブルスタンダードがあらわになった事件である。
 新疆タリム盆地(回部)ではイスラム社会による自治が行われた。イスラム有力者をベイ(伯克)に任命し地域社会を統治していった。異教徒支配などにより不安定要因が常にあった。
清朝は首都を盛京(奉天)に置き熱河に避暑山荘があった。また夏季には内モンゴル狩猟を行い、モンゴル社会と親睦を深めた。

 清朝の統治体制は多元的構造になっていて近代国民国家のような一元的構造とは異なる。統治理念としては儒教(漢人、八旗)とチベット仏教(チベット、モンゴル)がある。清朝皇帝は天子(=儒教理念)であると同時にチベット仏教(=チベット仏教教義)の転輪聖王でもあった。それにより矛盾をきたす場合もあった。版図統合に際しては、皇帝の存在を媒介とした「華夷一家」の理念が謳われ、それは伝統的漢人社会である「中国」の理念とは多少異なるものであった。内中国(=漢人社会)と外中国(=モンゴル、チベット、新疆)とは統治体制が違い、外中国では旧部族にある程度自主的統治を許す形をとった。この二元性をあらわすため、内中国を「中華王朝体制」、外中国を「ハーン体制」と形容することもある。
 このように清朝は多元的統治を認め、そのなかで皇帝が強い権限を持って君臨していたが、ときに多元的であるが故の矛盾を露呈してしまうこともあったのである。

 孫文はこの多元的統治を嫌い、漢民族による統治を主張することになる。