「明治維新」カテゴリーアーカイブ

葦津珍彦の山県大弐論

 
 葦津珍彦は「万世一系と革命説─日本思想史における放伐論の展開」(『天皇─日本のいのち』所収)において、明治維新の原動力としての山県大弐『柳子新論』について、次のように書いている。
 〈山県大弐は、激烈な放伐論の主張者として名著『柳子新論』を書いた。かれは天の民とその志を同じうし、天の民を救ふがために、国君を放伐するのは義であると断じた。しかもかれは、それを抽象的な政治哲学上の理法としてではなく、当時の社会情勢の現実が、人民を苦しめてゐる実情を大胆に列記し指摘して、正義の士が決起して放伐のために行動すべきことを訴へたのである。大弐の放伐論は、明らかに孟子の流れをくむものではあるが、その論は、孟子よりもさらに精鋭に理をつくし、さらに烈々たる実践的情熱に燃え立ってゐる。かれは明和四年に捕へられて死罪となった。あたかも明治維新をさかのぼること満百年、討幕のために一命をささげた最初の人となった。この山県大弐の『柳子新論』は、日本の政治思想史の上で、異彩を放つものである。それは、民と志を同じうする者の放伐を義としたのみでなく、あらゆる点で、新しい世代への予告を暗示する多くの思想をしめしてゐる。……それは権力の実際的行使者(幕府の征夷大将軍や藩の国君)に対する放伐を痛論してゐるのであって、皇位に対する尊王の大義は、厳としてこれを固守してゐる。これは公然たる尊王討幕の先駆的宣言である。
 江戸時代には封建武士的な意味での忠義の意識が強固であった。尊王の意識は大きくとも、武士は藩主に対して忠、藩主は将軍に対して忠、将軍も亦天朝に対して忠との系列において忠が考へられた。それ故に幕末の政局が動揺し、幕府の政策に対する批判の声が高まった時代になっても、先覚者たちもほとんどが、幕府の天朝に対する忠誠的協力を要望するいはゆる「公武一和」のイディオロギーの上に立って、幕政の改革を主張するにとどまって、幕府への放伐(討幕)を主張する思想は、なかなかに生じなかった。
(中略)
 私は、幕末の志士の中で『柳子新論』の読者が、どの程度の範囲に及んだかは詳かにしえないけれども、この書が公武一和的なイディオロギー教条の中に低迷してゐた封建武士を、断固として討幕へと踏みきらせた力は、大きかったと思ふ。
(中略)
 明治維新といふ大きな変革の史的意味は、複雑であって必ずしも一概には断じがたいものがあるけれども、これを王政復古、討幕であったとすれば、その討幕とは、まさに大弐が主張したところの権力行使者(幕府)に対する放伐以外のなにものでもないといふことができるであらう〉

葦津珍彦の真木和泉論

 葦津珍彦は「禁門の変前後」(『新勢力』昭和39年7月号)で、以下のように書いている。
 〈真木和泉の「出師三策」は、その後段に、真木の武力行使論に反対する長州人士にたいして、あくまでも説得しようとして、問答形式の論が書き列ねてある。この問答は、真木の思想を知る上に、とくに大切な文章であると思はれるが、そこには次のやうな論理が展開されてゐる。
 「ある人びとはいふ。我藩は入朝の停止を命ぜられてゐるのだから、強ひて入朝しようとすれば、勅命をもって停止させられるのは必然ではないか。勅命に抗するわけにはいかぬ、と。しかし今日の勅は、中川宮の偽勅と称すべきであって、真の勅ではない。私は諸君に問ひたいが、もしも中川宮の徒が長州の封土を没収しようとして来た場合に、諸君は易々と封土を没収されるつもりなのか。おそらく違勅になるからといって、祖先伝来の封土を明け渡すわけにはいくまい。しかしその時になって、はじめて偽勅などと云ひ出しても論理は立たないぞ。この勅は、中川宮の偽勅だと初めから断ずることが大切なのだ。ある者によれば、八月十八日、あの緊迫した時に、長州は戦はずして退いた、いま戦ふのは暴逆ではないかといふ。かやうな論をなす者は卑怯者のみである。今日のことは、ただ戦ひの勝敗のみがすべてを決する時なのである。この道理を知る者のみが目的を達する。
 ─―われわれの策は、その行為の形からみれば不義である。しかしその心情は光明正大であり、天地鬼神もこれを知る。断じて恥づるところではない。
 『真木和泉守遺文』所収「出師三策」に曰く、
 「……今我之所為、則世之所不測 所謂動千九天之上者 既褫其胆 焉得有以兵加我者乎 此為以攻為守也。而其迹之不義 則我心光明正大 天地鬼神知之 非所恥也。
 或曰 既停入朝 強而入則以勅停之必也 曰 今日之勅云者 中川賊所為也 非真也。若以此為真 則我無可為者 仮令有来奪我封者 則我甘納之乎 不納之 則果為違勅乎。特至此時而為偽非也。或曰 八月十八日賊軍士卒既内 銃礮既擬 而未発 而我今以戦臨之似暴 何如 曰為此言者非慎也 怯也 今日之事唯在干戦之勝敗 能了此意者得志耳。」
 かれは「今日の勅といふは、中川賊の偽勅であって真の勅でない」といふ断定に立ってゐる。しかし偽勅とは何であらうか。天皇の意思に無関係に、あるいは天皇の意思に反して発せられた勅であるとの意味なのであらうか。それは必ずしもそのやうな意味なのではない。かれがその後に起草した上奏文によれば、天皇が側近の「讒誣欺子」のために誤られて、八月十八日以前の意思と異なる勅を発せられ、ために天下は危機に瀕してゐるが、いまにして正しい判断に戻らなければ、まことに重大事に立ち至るであらうと申し上げてゐる。これによってみれば、真木の偽勅といふ意味は、ほぼあきらかである。天皇が、中川宮の邪説に誤られて同意された勅なのであって、聖天子に相応しい正義の勅ではないといふほどの意味である。真木は、あきらかに天皇にたいして、諫争することの緊急を痛感してゐるのである。 続きを読む 葦津珍彦の真木和泉論

「坪内高国は勤王の志の厚い人であった」(『岐南町史』)

 以下、『岐南町史』(昭和五十九年)に基づき、明治維新期の坪内高国の動きを整理しておく。
 高国は、慶応四年(明治元・一八六八)二月七日に、尾張藩主へ勤王の証書を差し出した。内容は以下の通り。
 〈一 岩倉殿並御家ヨリ御達相成居候、朝命之趣附遵奉仕、勤王之志興起仕候上は、仮令徳川庶人之指揮有之候共、御家え伺之上ナラテハ、其指揮ニ応シ中間敷事
浮萍之徒動乱ニ乗シ、紳縉家之命、或は御家之藩士ト偽リ、僈集ニ渡リ候所置有之候上、乱妨之次第ニ及候ハゝ、近傍勤王之諸侯ニ援兵ヲ請鎮静方取計可申候事
一 近隣ニ有之候、土着詰合之有司之領地、互ニ申合勤王可仕候事
 右之条々、誓て遵奉可仕候間、為後日証書如件〉
 高国は、二月十日には、大垣竹島町の本陣において、東山道鎮撫総督岩具定・同副総督岩倉具経両人に謁し、勤王遵奉の趣旨と、この上にも勤王いたすように、と諭された。
 一方、尾張藩士・荒川弥五右衛門(荒川定英)は勤王誘引のために美濃に派遣されていた。荒川は尾張藩士坪内繁五郎の弟で、尾張藩荒川家へ養子入りして、荒川弥五右衛門を称した。坪内繁五郎家の祖は、各務郡前渡村坪内氏三代嘉兵衛定勝の四男坪内兵左衛門定繁であり、荒川と高国とは血縁関係があったのである。
 二月十三日、平嶋坪内氏家老の岩塚らい輔は、高国の名代として、濃州大野郡揖斐にいた荒川を訪問も、「勤王之道相顕侯ニ付、本知是迄の通、被成置侯事」との書状を受け取った。これに対して、高国は「此之上は勤王之一途ニ尽力可仕有之侯事」との内容の請書を提出している。
 高国は、二月二十日には、名古屋城に登城し、尾張前大納言徳川慶勝に目見えて、この上一層勤王いたすよう励まされ、菓子一包(干菓子五品落雁等)、手綱五筋を与えられ、また元席で料理(酒・膳)にあずかり退出している。この御目見の時、第一番目は、加納城主永井肥前守尚服、第二番目は、表交代寄合の旗本兼尾張藩士四千四百石千村は靭負(可児郡久々利村)であり、第三番目が坪内高国であった。
 『岐南町史』は「坪内高国が尾張前大納言徳川慶勝に重要視されていたことがわかる」と記し
、さらに次のように書いている。
 〈明治元年(一八六八)九月十九日、坪内高国は、京都の非蔵人口へ出頭して、行政官より本領(高五百六十七石余)安堵の朱印状を受領し、上士席になった。明治二年(一八六九)十一月三十日、留守官より上士触頭の任命辞令を受領した。千石以下の上士で上士触頭(配下の上士・下士三十一名)となったのは破格の栄与であった。明治三年(一八七〇)四月、顧に依って致任し、美濃国羽栗郡平嶋村陣屋に住居することになった。致仕に際して格別職務に精励したがどで、京都府よりほう詞とともに金百八十両を下賜された。この間、明治二年(一八六九)十二月九日に采地を奉還している。以上のように、坪内高国は勤王の志の厚い人であった。〉(『岐南町史』271、272頁)

明治政府の警戒感を高めた初岡敬二

 木戸孝允は、すでに明治二(一九六九)年九月時点で、古松簡二、河上彦斎、大橋照寿、初岡敬二の四人に対する警戒感を高めていた。
 初岡は秋田藩勤皇派の代表的人物であり、幕末から活動、藩校明徳館の本教授を務めた。戊辰戦争で苦戦する中で上京し、公務人として政府出兵のため強力な要請運動を行った。
 明治二年七月初め、初岡は招魂社大祭にキリストを踏みつけている武者像の大幟を秋田藩から献納しようとした。幟には「天涯烈士皆垂涙、地下強魂定嚼臍」と書かれていた。しかし、軍務局から献納を却下されている。
 九月になると、初岡は「奸可斬、夷可払」とうたいながら剣舞するという事件を起こした。いわゆる「剣舞事件」である。ここで言う「奸」とは、木戸孝允、大村益次郎、後藤象二郎を指したものと解釈されたのである。実際、同月大村は暗殺されている。
 宮地正人氏は、次のように書いている。
 〈このような対立は月が進むにつれてより深刻なものとなり、ますます維新政府の権力基盤を不安定化させてゆく。「集議院廃セラレザレドモ、公議人ハ皆帰休ヲ命ゼラレタル由、弁官ニテ議ヲ発スレバ集院之ヲ討テ非トシ、集議院建白スレバ弁官害アリトシテ不行、毎事ニ途ニナリテ不一揆、政事是ガ為ニ壅滞シ、両党相争ノ姿アリ、不可両立勢也卜云」と、一八七〇年一月段階では受けとめられるようになる。まさに「両党相争」の事態である。これが同年九月段階にいたると、権力基盤の不安定化は極限状態に達する。同月一〇日集議院が閉会、その後の見込が立たなくなるのである〉

中沼了三から十津川郷士への通信─洋癖批判

 宮地正人氏の「廃藩置県の政治過程」によると、明治二(一八六九)年六月十日、十津川郷士に以下のような通信があったという。
 「朝廷ニハ追々御変革ニて、議院は頗る正論、屹度国家ノ柱礎と相成申侯、洋癖は大ニ折れ侯……段々有志ノ者ニも沸騰ニ付、驕奢ノ体は大ニ相折れ」
 洋癖と驕奢に対する批判の高まりを示すものである。
 これを書いたのは、崎門学派の中沼了三らしいと見られている。中沼は、明治四年には明治政府から排除される。

大久保利通らにとって不可欠だった神祇官再興・祭政一致の思想

 明治維新が成ったときから、天皇親政の國體恢復を願う純粋勤皇派と、権力の奪取・維持を最優先する者たちとの間には隔たりがあった。神祇官再興や祭政一致についての考え方においても、両者は異なる考え方を抱いていたのではなかろうか。
 安丸良夫氏は『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書)において、次のように書いている。
 〈岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正統化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ……」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大政維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉ク宸断ニ出ヅ。妄ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄ヲ窃取セントノ言ヲ作ス、何ゾ其レ亡礼ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』)と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。
 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興や祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう〉

高山彦九郎の精神と久留米藩難事件

平成30年4月15日、同志ととともに久留米城跡に聳え立つ「西海忠士之碑」にお参りした。
 
碑文は、真木和泉のみならず、明治4年の久留米藩難事件に連座した小河真文、古松簡二らを称えている。
 碑文の現代語訳は以下の通りである。
「明治維新の際、王事に尽くし国のために死んだ筑後の人物は、真木和泉・水野正名のような古い活動家をはじめ小河真文・古松簡二など、数えれば数十名をくだらない。
 これらの履歴については伝記に詳しく述べられており、ある者は刃の下に生命をおとし、あるいは囚われの身となって獄死するなど、それぞれ境遇・行動は違っていても、家や身を顧みないで一途に国家へ奉仕した忠誠心においては変りなかった。だからこそ、一時は政論の相違から明治政府に対抗して罪を得た者も、今では大赦の恩典に浴し、その中でも特別に国家に功績のあった者は祭祀料を下賜され、贈位の栄誉をうけている。このような賞罰に関する朝廷の明白な処置に対しては国中の者がこぞって服し、ますます尊王の風を慕うようになっている。まことに国運が盛大をきわめるのも当然のことである。
 こんにち朝廷では国民に忠義の道を勧められているが、この趣旨をよく体得すれば、国民として何か一つなりとも永遠に残る事業をなさねばならない。しかもわれわれにとっては、勤王に殉じた人びとは早くから`師として仰いだ友であり、またかっては志を同じくして事にあたった仲間である。いまここに彼等を表彰してこれからの若い人への励ましとすることは、たんに世を去った者と生存している者とが相酬い合うというたけでなく,国家に報いる一端ともなるものである。
 このような意味から、場所を篠山城趾にえらび、神社の傍に碑石を建て、有栖川熾仁親王から賜わった「西海忠士」の大書をこれに刻記した。思うに、この語句は先の孝明天皇の詔勅の文からとられたものであろう。世冊この碑を見るものは、おそらく誰でも身を国に捧げようという感奮の念にかられることであろう。昔、高山彦九郎は、九州方面で同志を募るためにしばしば筑後を訪れ、久留米の森嘉善ともっとも親密な仲となり、ついに彼の家で自殺する結果となった。これはまったく、二人が勤王の同志として許し合う間柄であったからである。このために二人を併せて追加表彰することにしたが、これによって筑後の勤王運動の源泉が遠い時期に在ったことを知るべきである。
    明治25年10月      内藤新吾識」
 
 碑文が、時代を遡って高山彦九郎のことに言及していること(*抜粋意訳には抜けている)が、極めて重要だと考えられる。
 明治2年に、久留米遍照院で有馬孝三郎、有馬大助、堀江七五郎、小河真文、古松簡二、加藤御楯らが、高山彦九郎祭を行った事実を考えるとき、彦九郎の志が久留米藩難事件関係者に継承されていた事実の重みが一層増してくる。

日本の歴史を棄てた明治政府

 平泉澄先生は「日本精神について(下)」(『日本』平成十八年正月号所収、二~三頁)において、次のように述べている。
 〈明治五年に教育制度が発動されてをります。驚くべきことに明治五年の学制には日本の歴史を教授するといふことが出てをらない。一国の教育がその国の歴史を無視してなされるといふことは実に驚くべきことであります。
 これは明治元年の大精神には断じてないことであります。明治元年の大精神が四、五年ですっかり崩れてをります。明治維新の精神はその時は日本の古典を用んとして、一方に支那の漢籍、一方に西洋の学問、それを両翼として進まうといふことを新定学制に示されてをります。
 実に偉い精神でありますが、これは間もなく崩れて、明治五年の学制においては日本の歴史は教育から棄てられてしまった。その後小学校においてその非を悟って、国史を加へましたのは明治十四年のことであります。十四年に初めて日本の初等教育に日本歴史が入って来たのであります。これは明治天皇の特別の御注意を戴いて出来たことださうであります。
 しかしそれ以上の学校においては、まだ日本歴史は加へてをりませぬ。中等以上の学校においてはバーレーの「萬国史」が用ひられてをりました。その後高等の学校に初めて日本歴史が入って来たのは明治十六年であります。これはドイツ語の先生のグルートといふ人が注意をしたので、初めて国史が入って来た。ただし大学にはまだ国史は出てをりませぬ。大学において国史、日本歴史が一科として立てましたのは明治二十一年になります。
 さうしてその翌二十二年に国史科が新設されてをります。この時に渡邊総長の意を受けて色々案を立て、これを実施する上において努力しましたのがドクトル・リースの力であります。その時までは国語を棄てようとしたほどでありますから、日本歴史を棄ててしまって、外国人から注意されなければ日本の歴史は閑却してしまってゐた〉

久留米勤皇志士史跡巡り③ 高山彦九郎から真木和泉へ

真木と彦九郎の遺児
 彦九郎は幕府に追い詰められ、寛政五(一七九三)年六月二十七日、森嘉膳宅で自刃した。その三年後の寛政八(一七九六)年十一月十八日には、唐崎常陸介が、彦九郎の後を追って竹原庚申堂で自刃した。
 さらに、享和二(一八〇二)年五月二日には、天草の西道俊が彦九郎の墓前で割腹している。道俊は、若い時代から彦九郎と結び、尊号宣下運動でも彦九郎と行動をともにしていた。しかし、寛政五年春、彦九郎が幕吏に追われて長崎へ逃れた際も道俊は行動をともにし、海路上京しようとした。しかし、果たさず虎口を脱して天草に逃れた。
 彦九郎自刃後、ともに勤皇を語るべき友もなく、医を業として十年ほど過ごしていた。しかし、彦九郎の孤忠を思う心は如何ともし難く、ついに天草を出て久留米の森嘉膳宅に向かったのである。そして、自ら墓穴を彦九郎の墓前に掘り、自刃した。辞世は
 欲追故人跡 孤剣去飄然
 吾志同誰語 青山一片烟 山腰雅春『五和町郷土史第一輯』(昭和四十二年)
 道俊の墓は、彦九郎と同じ遍照院にある。ひょうたん型のお墓で、墓標は玄洋社の頭山満によるものだ。
 彦九郎の長男儀助が久留米を訪れたのは、その翌年の享和三(一八〇三)年六月であった。後藤武夫の『高山彦九郎先生伝』には次のように描写されている。
 〈後年先生屠腹の後、一子儀助、久留米に来つて、遍照寺畔なる父の墓を展した時も、石梁は彼を自家に宿せしめ、種々慰撫する所があつた。将に帰らんとするや、詩と涙とを以て之に贈つた、義心感ずべきものがある。
    高山儀助自上野来展其考仲縄墓
    留余家一句臨帰潜然賦贈
 悲哉豪傑士。化作異郷塵。山海三千里。星霜十一春。憐君来拝墓。令我重沾巾。孝道期終始。慇懃愛此身。
 情懐綿々として、慇懃極まりなきものがある。十有一年前、先生の死に対してそゝいだ其の涙は、今や孝子儀助の展墓によつて、再たび巾を霑さしめた。嘗て彦九郎先生の為に、
  赤城仙子在人間。明月為衣玉作顔。怪得煙霞嚢底湧。躡来三十六名山。
 を謳つた其の人が、遺孤の為に此詩を賦せんとは、恐らく石梁其の人もまた宿縁の浅からざるを感じたであらう〉
 石梁は、文政三(一八二〇)年五月に「宮川森嘉膳小伝」を著し、彦九郎について記している。つまり、石梁は彦九郎の志を語り継いだ重要人物だったということである。
 その八年後の文政十(一八二八)年に石梁は亡くなっているが、若き真木が樺島との接点を持っていた可能性はある。あるいは、石梁の思いを継ぐ者から、真木が彦九郎のことを伝えられた可能性もある。そして、真木自身が彦九郎への関心を強めていく。木村重任の『故人物語』によると、真木は天保九(一九三八)年頃、彦九郎の話を聞くために安達近江宅を訪れている。
 そして、天保十三(一八四二)年正月、真木は「高山正之伝」を筆写・熟読した。彼は感慨を欄外に記し、哀悼の和歌を捧げている。その年の六月二十七日、木村重任等とともに、高山彦九郎没五十年に当たり祭典を行った。
 そして真木は、まさに彦九郎の志を継ぐべく、立ちあがるのである。三上卓先生は、「真木の巡つた足跡こそ、実に高山先生が七十余年前に辿つた足跡ではなかつたか。吾人は先生の事跡を調査し了つて、更に真木の一生を見る時、その暗合に喫驚するものである」と書いている。

久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁

真木と高山を繋ぐ宮原南陸
 
 平成三十年四月十五日、筑後市水田に向かい、真木和泉が十年近くにわたって蟄居生活を送った山梔窩(くちなしのや)を訪れた。
 やがて、真木は楠公精神を体現するかのように、行動起こすが、彼の行動は高山彦九郎の志を継ぐことでもあった。
 真木は、天保十三(一八四二)年六月二十七日に、彦九郎没五十年祭を執行している。では、いかにして真木は彦九郎の志を知ったのであろうか。それを考える上で、見逃すことができないのが、合原窓南門下の宮原南陸の存在である。
 文政七(一八二五)年、真木が十二歳のとき、長姉駒子が嫁いだのが、南陸の孫の宮原半左衛門であった。こうした縁もあって、真木は、半左衛門の父、つまり南陸の子の桑州に師事することになった。ただし、桑州は文政十一(一八二九)年に亡くなっている。しかし、真木は長ずるに及び、南陸、桑州の蔵書を半左衛門から借りて読むことができた。これによって、真木は崎門学の真価を理解することができたのではなかろうか。
 一方、彦九郎の死後まもなく、薩摩の赤崎貞幹らとともに、彦九郎に対する追悼の詩文を著したのが、若き日に南陸に師事した樺島石梁であった。石梁こそ、彦九郎の志を最も深く理解できた人物だったのである。
 石梁は、宝暦四(一七五四)年に久留米庄島石橋丁(現久留米市荘島町)に生まれた。これが、彼が石梁と号した理由である。三歳の時に母を亡くし、二十五歳の時に父を亡くしている。家は非常に貧しかったが、石梁は学を好み、風呂焚きを命じられた時でさえ、書物を手にして離さなかったほどだという(筑後史談会『筑後郷土史家小伝』)。
 天明四(一七八四)年江戸に出て、天明六年に細井平洲の門に入った。やがて、石梁は平洲の高弟として知られるようになった。石梁は寛政七(一七九五)年に久留米に帰国した。藩校「修道館」が火災によって焼失したのは、この年のことである。石梁は藩校再建を命じられ、再建された藩校「明善堂」で教鞭をとった。 続きを読む 久留米勤皇志士史跡巡り② 高山彦九郎の同志・樺島石梁