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谷秦山先生小伝(『秦山集』)

IMG_0608先生名は重遠、字して丹三郎と称す。谷氏秦山は其の号。土佐長岡郡豊岡村の人。其の始祖を左近と曰ふ。長宗我部氏に仕へ顕名有り。左近五世の孫重元三子を生む。伯を重正と曰ひ仲を重次と曰ふ。季は即ち先生なり。先生寛文三年癸の卯三月十一日を以って生まる。性学を好み強記絶倫幼にして小学四書舅島崎氏に受く。眼を過れば忘れず。又常通寺に入り守信法印を師とし法華経を読む。未だ両月に満たず誦を成し延宝七年六月年甫て十七上京して浅見けい斎に謁し十月山崎闇斎藤に謁す。二儒の学洛中を主とし大義名分を説くこと極めて厳正と称す。先生既に二儒之教えを受け帰る。後屡々書を修めて益を請う。間断有ること無し。国守山内豊房公其の篤学を嘉し賜ふに廩俸を以てせんとす欲するも辞して拝せず。天和三年先生謂らく読書勤業は郊居に如かずと。移って泰山に住し元禄元年父重元卒す。家貧にして葬すること能わず。二兄職を奉じて外に在り先生代わって几筵を奉ず。孝友の情想うべきなり。七年書を渋川春海に寄せて天文暦算を学ぶ。春海は闇斎の弟子にして夙に出藍の称有り。初め先生星暦を闇斎に問うも闇斎卒するに及び春海の門に遊ばんと欲す。府司允さず。故に書を寄せて之を学ぶなり。八年、新たに渾天儀を鋳す。衡璣各三尺、尤も簡明と称す。十年夏春海暦術の印可を授く。十三年先生学術已に優れ門人又多し。而して益々之を研かんと欲し香美郡山田野に移る。十五年豊房公終に廩俸を賜ひ移って城下に居らしむ。府員延聘して講を聴く者常に六十人に下らず。而して公私の応接日夕に遑あらず。先生其の志業の廃を廃すことを恐れ十六年請て山田野に復る。宝永元年東遊して春海を駿河台に訪ふ。此の行や過る所の山川宿駅皆之を詠歌す。畿内の社寺遊観せざるなし。東遊紀行二巻を著す。三年、是の先先生国内を巡行し式内二十一社の湮没せるものを考定し案を具て之を上る。此に至って命を受け案を齎して京師に至り諸を卜部兼敬卿に訂す。卿之を可とす。豊房公二十一社を造替せんと欲し有司に先生と之を議せしむ幾ばくも無くして公館を捨て議遂に罷む。四年命有り先生を禁錮す。其の罪名を審らかにせず。ひそかに謂ふ。当時幕府林信篤に命じて聖廟を建て文学を興し絃歌の声所在に起る。而して儒臣学士大義名分を曲解し甚だしきは冠覆倒置の言を為して以って天朝を侮蔑するに至る。世人察せず以って当然と為す。蓋し時勢爾かるなり。先生の学、已に闇斎絅斎の上に駕し其の大義名分を説くこと糸絲紊れず。以って一国人士の心を感孚するもの有り。当路の人蓋し之を説かず。公の館を捨つるを機とし之を排陥するなり。先生既に禁錮せられ毫毛も怨尤の色無し。昼は則ち書を抄し文を改め夜は則ち天象を観、星宿を認め十有二年一日の如し。享保三年六月晦以って終る。年五十六。嗚呼先生既に時に遭わず。命又長からず。満腹の経綸施為する所無くして歿す。豈慨嘆に勝ゆべけんや。然りと雖も一国感孚の効、世を累いで益験あり。遂に勤王の唱首を以って大いに顕るに至る。蓋し先生の志業は当時に屈して後世に伸ぶ。偉なりと謂ふべし。著する所の書某某、皆子爵干城君の家に蔵む。子爵の秦山集を刻するに当り豊多に嘱して之を謄写し之を校正し且先生の小伝を為して其の後に繋げしむ。豊多不敏不文其の伝を為んこと素より其の人に非ず。然れども豊多子爵の眷顧を蒙ること此に三十余年義辞すべからざるもの有り。謹んで其の梗概を叙して上ると云ふ。

 

明治四十三年十二月十五日
安房 松本豊多謹誌

栗山潜峰と『保建大記』

『保建大記』の著者である栗山潜峰は元の名を長沢成信という。長沢氏の先祖は上野に発し、その後丹波に移ったとされるが、父の良節は淀の城主石川氏に仕えて儒を講じていた。潜峰14歳のとき京都に上って桑名松雲に弟子入りし、以後十年に亘って師事した。その際、潜峰と松雲を引き合わせたのは父良節と親しかった鵜飼錬斎とされる。錬斎は松雲とともに山崎闇斎の弟子であったから良節は錬斎の勧めによってその子を松雲に従学せしめたのである。かくして潜峰は松雲を通じて山崎闇斎に始まる崎門・垂加の学を修めることになった。

そんな折、京都には御西天皇の第八皇子である八條宮尚仁親王ましまし、幼くして学を好み英物を予感させた。当時14歳でこの尚仁親王と同年齢であった潜峰は、錬斎の推薦によって親王に近侍することになった。恐らくはご学友の意味を以っての近侍であったとされる。またこのとき、師の桑名松雲も親王の顧問に備わり、潜峰や雲松の存在を通じて闇斎門下の俊秀が親王の下に参集した。

かくして潜峰が18歳のときに、著述して尚仁親王に献じ奉った書が『保建大記』である。ときに元禄元年(1688年)のことであった。この『保建大記』は後年の改定による書名であり、元は『保平綱史』と題した。題名の「保建」は保元と建久であり、本書の内容は潜峰の厳格な史的考証と簡潔な筆致によって、大体保元から建久に至る三十八年の間における朝廷の衰微と武家の台頭の次第が記されている。大体といったのは、厳密には本書の記述が保元元年の前年である久寿二年に始まっているからである。この久寿二年は後白河天皇が御践祚遊ばされた年であり、本書の記述は建久三年、天皇の崩御を以って終わっているのである。

表題としては通常「保平」でも良さそうなものであるが、敢えて「保建」に改題したのは、潜峰が歴史の根本に道徳を仰ぎ見ており、当時に至る武家の専横が朝廷内部における道徳的堕落、なかんづく後白河天皇の失徳に多く起因することを重く見ているからであろう。かくの如くであるから、本書の内容は朝廷衰微の道徳的動因の解明に主眼が置かれ、国家禍乱の俑を作った暗君乱臣賊子には仮借ない筆誅が加えられている。よってこの直言不諱 の態度について、不遜不穏として憚る向きもありそうであるが、平泉澄先生は「第一に事実を直視して真相を把握しようとする学者の良心から出た事である上に、第二には諷諌をたてまつって帝徳を輔翼し奉らうとする忠誠の至情より発する所である事を知らなければならぬ」と述べておられる(「保建大記と神皇正統記」)。

崎門学によって君徳を涵養せられ前途を嘱望せられた尚仁親王であったが、潜峰が『保建大記』を捧呈した翌年の元禄二年、俄に薨去し給うた。御歳僅かに十九の若さであった。潜峰は京都柳馬場に隠遁して学問を続けたが、やがて元禄六年、二十三歳のときに、またしても前述した鵜飼錬斎の推薦によって水戸光圀に禄仕することを得た。元禄の十年には若干二十七歳にして水戸彰考館の総裁に就任している。かくして彼の余生は大日本史の編纂に捧げられたが、病を得て寛永三年四月七日長逝し、駒込の龍光寺に葬られた。享年三十六歳。