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噴飯物の明治百五十年事業

いま政府は明治百五十年を機に記念事業を行おうとしている。
わが国の歴史に鑑み、記念事業を興し、国民に再度過去の事績の意義を思い起こさせるのは、決して悪いことではない。ただ、今回の「明治150年」事業はその内容があまりに噴飯ものであり、看過できるものではない。

下図をご覧いただきたい。首相官邸が公表している「明治150年」事業の中身である(上リンクから見ることができる)。
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若年層、女性、外国人の活用という政府の成長戦略をなぞっただけの代物となっている。

元来明治維新の意義は、幕府政治を改め、王政復古の大業を成し遂げたところにある。また、政府が指摘するような「近代化」という側面はないとは言わないが、それは西洋列強による植民地化、属国化の脅威に対抗するものであり、百歩譲って王政復古の大業に触れないとしても、そうした「西洋の侵略に対抗した生き残り」の側面は触れない方がおかしいと言わざるを得ない。

本事業には山内昌之氏、筒井清忠氏が会議に出席し、意見を述べているが、いずれも政府があらかじめ引いた筋書きをなぞるような意見しか述べていない。特に山内氏は明治期のお雇い外国人に対して「恩」を受けたと信じがたい発言をしている。

坪内隆彦氏はこうした政府のやり方を受けて、「王政復古という維新の本義が封印されたまま、明治維新150年という極めて重要な機会が、グローバル化の推進、女性の社会進出の促進のためだけに利用される」と警鐘を鳴らしている他、五十年前の佐藤栄作内閣による「明治百年」の際にも、維新の大義を軽視する記念事業が行われ、一部の心ある人士による異議が出たことを紹介している。

翻って明治百五十年を迎えようとする今日では、政府のこのような噴飯物の記念事業に、王政復古の大義を重んじる立場から抗議しようという声は聞かれない。事態は五十年前より悪化していると言わざるを得ない。

◆参考:
坪内隆彦氏ブログ「グローバル化に利用される政府の「明治150年」事業─王政復古の意義を封印」
日本独立党ブログ「「明治百五十年」プロジェクトに異議あり。」

「伝統と信仰」(愛媛県師友会機関紙「ひ」)

愛媛県師友会機関紙「ひ」に掲載された拙稿「伝統と信仰」について本ブログに掲載する。

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伝統と信仰

義に生きる
人は義によって動き、義によって生きる。人間の魂から出た言葉は、人の心に働きかけ、魂を揺さぶり、義を貫く生きざまにいざなう。
吉田松陰は、高杉晋作や久坂玄瑞らと対立したとき、「僕は忠義をなすつもり、諸友らは功業をなすつもり」と言った。松陰は政府を転覆し権力を握りたかったのではない。ただ己の魂に働きかける忠義に突き動かされたのである。
愛国の情は国粋への信仰の念があって初めて成立するものである。自らの発言は国粋の殿堂に新たな黄金の釘を打ち込む姿勢でいるかどうか、常に問い続けなければならないからだ。愛国は、ちっぽけな功名心や政府に追従する気持ちとは峻別されなければならない。先人からの賜り物である伝統は、自己決定をはるかに超越したところで一人一人の人生の規範となっている。
 現代日本において、信じる力が絶望的に落ち込んでしまっている。われわれの日々の生活において、大いなるものに頭を垂れる機会は少なくなってしまっている。だが、大いなるものへの敬意と、自らの利害を超えた大義に参与したいという心は、本当に失われてしまってもよいのだろうか。

立極垂統
 竹葉秀雄は『立極垂統』で、天之御中主神から今上天皇まで続く系図を「立極垂統日嗣の道」として示したうえで、「この系図を観ておれば、あらゆる悩みはみぞぎはらわれ、更に之を礼拝信仰すれば、宇宙の大生命がそそぎこまれて躍動歓喜し、諸神・諸仏・諸天嘉し加護し給う」という。それは神代から続くわが国の根幹への確信であり、それへの奉仕を人々の使命とするのである。
 竹葉は『青年に告ぐ』で、「我自体が、神の自己顕現の相であるのであつて、欲望も神のものである」といい、「いちばん深い欲望を最もよく生かし、それぞれの欲望を正しく生かし、心の安んぜられる、天の声を聞いての行いをすることである」という。天の声を聞いて、それに基づく行いをすることこそが大欲であり、使命に生きる姿だとしたのである。現代人は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、精神の救済を後回しにしている。心ある人でさえ、その主張は単純な政策論議に限定されていて、その奥に潜む魂を問題としない。政府や市場は利害関係で人を誘導することはできるが、心まで支配することはできない。
 個人の生命は有限である。しかし、悠久の大義のために全身全霊を尽くせば、その魂は永遠に語り継がれることになる。国家には、そういう信仰が不可欠である。政治経済にばかり関心を向けて、こうした信仰、文化の側面を軽視すれば、国家は単なる大衆の集合体となり、各人の溌剌とした生命力を発揮する場所ではなくなってしまう。
『青年に告ぐ』の安岡正篤による序文では、「我々が現在享楽してゐる科学技術による産業的繁栄に対して、それに調和し、それを修正するような、精神的・理性的・道徳的発達が今後行はれなければ、恐らくそれは正しい意味の革命的努力でなければ、文明の没落は救はれまい」と述べられている。共同体が解体され、露骨な競争社会となりカネと暴力に支配される世の中になる。そうした負の側面を修正するのは、精神の働きなのである。竹葉は、神代から垂直に降りてくる道にこそ、この精神の働きを見たのである。

 安岡正篤は「口舌の徒」か
 竹葉の師である安岡正篤は、戦後は無論、戦前においても「口舌の徒」という偏見で見られていた。だが安岡が終生問題にしていたのは道義と信仰であって、それを確信しなければあらゆる政策の実行も無駄になってしまうと考えていた。それは一部の人間にとっては、抽象理論をもてあそぶ「口舌の徒」にしか映らなかっただろう。しかし、一番大切なものをおざなりにしておいて「具体的」な政策を云々することこそ無駄なことと言わねばなるまい。
 影山正治の『維新者の信條』に次のような一節がある。「維新者は、その本質に於て何よりも絶対なる国体信仰の把持者でなければならない。/如何に維新を論じやうとも、不動の国体信仰に徹せざるものは遂に維新者たることを得ない。/思想も理論も学も、破壊も建設も闘争も、政治も経済も文化も、すべてはこの信仰に根ざしてのみ考へられ、戦はれ、実現されなくてはならない。/国体は絶対に手段化さるべきではない。戦争遂行のための維新、資本主義否定のための維新、国民生活安定のための維新ではない。国体を明らかにするための維新、国体を実現するための維新であり、その結果として、戦争の遂行も可能となり、資本主義も否定され、国民生活も安定されて行くのだ。/維新とは単なる組織機構の変革ではない。神代復興であり、国体復帰である。この意味における世界の変革、価値の転換である。」(/は改行)
維新は世の革新である以上に己の原点回帰でなければならない。影山はどちらかと言えば排儒的な論客であり、儒学の素養をもとに発想していた安岡とは思想的背景が大きく異なる。だがこの二人は、共に道義と信仰の確立を目指した点で共通するものがある。
安岡は『東洋倫理概論』で「信仰と謂へば普通宗教の代名詞の様に解されて、道徳と対称せられるが、私はさう解さない。信は純一な生活であり、仰は理想の欣求である。其処には当然敬と懼とがなければならぬ」と述べたうえで、王陽明の、山中の賊より破りがたきは心中の賊だという逸話を述べ、さらに孔子の「信なくば立たず」の「信」をも、信仰と解するのである。安岡にとって信仰がいかに大きな問題であったかうかがいしれよう。

 天の声を聞く
 西郷隆盛の「敬天愛人」という言葉は、大いなるものへの畏れを抱くこともまた人間に備わった愛しむべき感情であり、共同体に裏打ちされた道徳の先に「天」があることを教える。
 竹葉秀雄は『青年に告ぐ』で、「孔子も、釈迦も、キリストも、ソクラテスも、マホメットも、道元も、中江藤樹も、吉田松陰も皆その青年時代に、内奥の神の声を聞いて、その道に生きた人たちである」という。内奥の神の声は宗派を選ばない。どの先人も魂を揺さぶってやまない声に突き動かされたのである。
 例えば孔子でいうと、白川静は『孔子伝』で、哲人を「伝統のもつ意味を追究し、発見し、そこから今このようにあることの根拠を問う。探究者であり、求道者であることをその本質とする」と定義したうえで、孔子を「述べて作らず、信じて古を好む」人であったとする。「述べて作らず」とは、天からの言葉を余すことなく記録し、伝統と信仰を後世に伝えようという精神である。
 伝統とは人生のあらゆる規範としてはたらく。伝統とは言葉を中心として構成される慣習のことだ。先人が「神」と呼んだ人智を超えた何か、そして人間そのものへの関心を言語化したものが「伝統」なのではないだろうか。過去を振り返って追体験し、各人に内在するものになった時、伝統ははじめて生きるものとなる。日本人の精神生活に根付いた伝統を信じようとするとき、まず行うべきは先人の言葉を虚心に受け取ることであろう。八百万の神の国であるわが国は、あらゆる事物に神性が宿るのと同時に先人にも神性を感じてきた。即ち天の声を聞くということは、伝統を信じることと不可分になる。
 哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。日本人の精神生活と信仰は切っても切れない関係にある。言葉一つとっても、日本人は言霊と呼び、言葉に魂が宿ると考えられてきた。人の心に宿るさまざまな感情の流れが言葉となって出てきた瞬間、天地をも動かし、神をも揺さぶる力を持つ。人は言葉によって、過去、未来、さまざまな人、ものとつながることができる。言葉こそ伝統であり、言葉こそ魂だ。してみれば人の魂が他の人の魂を揺さぶることができるのは、至極当然ではないだろうか。日本人の信仰とは、日本の伝統の上に咲く花である。

死者と生きる
明治時代の文明開化以降、信仰や伝統文化の影響力は小さくなる一方である。資本主義、ビジネス偏重の社会に抵抗する精神はほぼ見られなくなってしまった。現代人の生活は、より経済成長し、より消費し、より寿命を延ばした方が良いという物欲に常に煽り立てられている。われわれは否応なしにモノに塗れた生活に巻き込まれているが、そうした生活はどこか胡散臭い。なぜかと言えば、死と信仰の問題を置き忘れているからではないか。
平泉澄は『山彦』で次のように言う。「戦後社会の動搖、人心の不安、今に至つておさまらぬは、けだし過去との連鎖を絶ち、父祖の歴史を忘却した所に、その根本の原因があるのであらう。/およそ社会は、これを現在の相においてのみ見てはならぬ。死者もまたその構成分子であり、発言権を有するものである。それら先人の温情を体認して、初めて正しい道を歩むこともでき、歴史に参じてこそ、真に文化に貢献することもできるのである。」(/は改行)
わが国の土着的な信仰では、死者は遠いどこかに旅立ってしまうのではない。わが国土を離れず、故郷の山河や子孫の生業を見守っていると考える。お盆には死者が帰って来ると言われるが、生活に息づく信仰は死者の存在にあふれている。死者への弔事は死者に話しかけるような形で述べられる。死者の魂が天国や極楽と言った遠いどこかに行ってしまうと考えない世界観とも無縁ではないだろう。死者に囲まれ、見守られる生活には社会がある。死者を遠ざけてきた現代社会は、社会の代わりに市場が大きくなり、便利になる反面、どこか生活が窮屈なものになってきた。

 「利」の時代から「義」の時代へ
戦後、敗戦のショックから、人間は義では動かず利害関係で動くものだという世界観のもと、「義」よりも「利」、「公」よりも「私」という風潮がはびこった。問題なのは、そうした「義」よりも「利」の思想がGHQのもたらした平和に甘んじる自己の罪の意識を巧みに隠したことである。戦後は共産主義的義に対して「利」と「現実」を説くいわゆる「保守」が登場したが、結局彼らがやったことは日本国憲法と日米同盟の戦後体制を残存させたことだけだった。真剣にこれらの打破、克服を目指すならば、日本人が歴史的に抱いた大義に今一度立ち返ることが必要だ。近代以降、政治は君主と人民の慈愛による関係ではなく、人間の顔を失った権力の作用と反作用の応酬となり、人々は政治や経済政策にますます依存することになった。命令する側とされる側の区別は封建制の撤廃によりなくなると思われていたが、実際は、権力の作用と反作用は抜きがたく社会に存在し続けることとなった。
伝統を先例と混同してはならない。人々に宿る魂に学び、揺さぶられる敬虔な気持ちを忘れた途端、伝統は先例に逆戻りする。先例は制度であり、伝統は心である。制度が表面上変わっても、心が変わっていなければ、それは変わっていないのと同じことである。伝統とは精神の連続性である。伝統は、いつも変化しているにもかかわらず決して全面的に崩れない、社会の羅針盤である。伝統を考えるということは、国家について考えるということだ。
日本人が日本の伝統、信仰や文化を知らないで、次代に伝えず生きていてよいのか。日本の美質を称え、欠点を改善していくことは日本人に課せられた使命ではないのか。日本史を知識的に学んだだけでは日本史が人格を構成するまでには至らない。日本人がこれまで考えてきた考え方、発想が自らの発想と分かちがたく結びついていることを自覚し、その中で生きていくことを自認して初めて、自己の思想は深まるのである。
 あらゆる学問は国民、あるいは人類の幸福のため、叡智への敬意のために行われていた。それは公共性への深い信頼からなる行為に他ならない。だが、次第に学問は実証の名のもとに専門家の仕事となり、社会貢献を資本主義的、経済的価値にすり替えてしまった。近代思想の荒波の中で、人を魂から鼓舞するものが解体されていった。宗教もそうであるし、芸術、文学、音楽、そして学問もそうである。これらのものから人々が本当に理想とすべきものへの関心が薄れてきたように思われてならない。
 学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、ある人々にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。学ぶことそのものが人生を「生きる」ことに他ならないのだ。自分が学んだことと自分自身が不可分になる。そうした態度から人を魂から鼓舞するものが生まれてくるに違いない。学問は世のため人のために役立たなければならない。だがそれは金銭的価値や計量的成果に置き換えられるものではない。
 
 おわりに
 竹葉は『青年に告ぐ』の最後にこう記している。「私は、祖国の明日を思うとき、胸痛むのである。/その青年が、祖国を愛せず、この高貴な伝統を捨てて顧みず、純真を失うて、/何の祖国の明日があらう。畏るべき後生をもたざる民族は、ついに存在の価値なく、滅亡にいたるであらう。/いまや、世界が、二十五時の暗黒を告げ、機械と組織の中に、人間性を喪失せんとして、アジアに光を求めているこの時。/そして今度の戦いの後、日本は敗れたけれど、アジア・アフリカの諸民族が、つぎつぎに独立して、アジアの心を求めているこの時。/資本主義と共産主義の争いが、ともに唯物に立脚していて終わることなく、ついには人類は破滅にいたることを知つて、第三の出生すなわち心と物の一致、心を持つ人間が、純粋経験によつて物を格しく体認して知を致し、意を誠にして、心を正し、天下を平にする道、そこに人間性の尊重と発揮のおこなわれる、光りの世界を求めている時。/分化の極まりから総合統一へ、西洋から東洋へと、心の向けられている時。/エネルギーの根元である太陽エネルギーと、万物に宿る日の霊との、物質と精神との一致の世界、「ひの道」が、いまや明らかにされんとしているこの時。/日の国、日本の青年は、このままでよいであろうか。まず/自らの明徳を明らかにし、/国家の鎮護となり、/民族の伝統を、継承発展せしめ、/大和世界建設のために、/巨いなる「ひ」を、揚げねばならないのだ。/私は万禱して、青年に告げる。」(/は改行)
 現代は利害関係から考える以外に世界を認識する手段を失いつつある。だが、反面、だからこそ伝統と信仰という大いなる価値について思いを致すことができる。伝統も信仰もどこか遠くにあるものではなく、自らの魂にすでに備わっている。あとはそれに気づくか否かであり、気づいたときにはもう大義を果たす大望が、自らを鼓舞してやまぬようになるだろう。それが人々に広まった時、真の維新は達成されるに違いない。

書評 井尻千男『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』

月刊日本9月号に掲載された、井尻千男『歴史にとって美とは何か』の書評について、同誌の発売から日数が経過したこともあるので、本ブログに掲載する。

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本書は井尻の遺稿集である。単行本未収録の論文を集めたもので、本稿では主要論文である「醍醐帝とその時代」を紹介する。
井尻は、本論文執筆の動機を「戦後の日本人は、かつての日本人がシナ文化に憧憬したようにアメリカ文化に憧れて、いま失敗しつつある。その危機感を深めながら、現代と宇多・醍醐の時代を往還したい」と表明する。そのうえで宇多天皇、醍醐天皇の時代を「シナ文化への憧憬」から「天皇親政」「自国文化への確信」への大転換期と位置づけ、摂政・関白の廃止、遣唐使の廃止、古今和歌集の編纂をその時代精神の表れであるとみた。本論文は単に過去の歴史を描いたのではなく、過去を通して國體の大理想を強く訴えかけているのである。
当時の世界大国唐を相手に国交を断つことがどれほどの大事件だったか、現代のわれわれには想像を絶する出来事であろう。たしかに唐には衰亡の兆しがあった。しかしそれでも超大国と付き合いを断つことは、果断なる政治的決断を必要としたはずだ。それを主導したのが宇多天皇であり、菅原道真であった。遣唐使は、菅原道真が廃止を建議した時点で既に六十年も派発しておらず、自然消滅させることもできた。しかしあえて途絶を宣言したことは強い意志があったからに他ならない。菅原道真が廃止を建議する六十年前の遣唐使では、副使の小野篁が派遣命令を拒否し流罪になっている。唐の衰亡に促されただけではなく、遣唐使によってもたらされた唐の実態への失望が、唐文化との訣別と国風文化の発揚を決意させたのだ。
宇多天皇の後を継いだ醍醐天皇はわが国をいかなる国にしていくかという重大な使命を背負っていた。醍醐天皇が出した答えこそ、最初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂であった。当時は仮名文字が発明されて八十年ほどしか経っていない。漢字仮名交じり文が発明された創初期にあって、わが国の文学をわが国の言葉で残すことは万葉集や記紀の編纂にも匹敵する畏るべき大事業であった。唐の傘下から離脱したことで自国への意識が高まり、国風文化が興隆し、古今和歌集の編纂に繋がったのである。
醍醐天皇が行った偉大な事業はそれだけではない。宇多天皇と醍醐天皇の治世は後世天皇親政の模範とされた。それまでわが国の官僚制度は唐に倣って形作られていたが、遣唐使の廃止は、わが国固有の新しい政治体制を模索させた。菅原道真の登用からして、藤原氏等の名門貴族を避けた天皇親政の実践の一過程であった。それを引き継いだ醍醐天皇も摂政関白を置かない政治を実践した。さらに醍醐天皇は土地制度改革にも着手している。形骸化した土地制度を、土地を通じて天皇と国民が繋がる大化改新の理想に復元させたのである。
遣唐使廃止による日本の自立、摂政関白を置かない天皇親政、土地制度改革、そして国風文化の結晶たる古今和歌集。それらはすべて國體に基づく統治という大理想のもとで繋がっている。井尻は、当時國體に基づく統治が目指されたことを繰り返し語り、政治、外交の次元にとどまらず、文化、美意識に至るまでわが国独自の在り方が模索されていたことを強調する。それは軍事に依らない「たたかい」であった。元寇の際に亀山天皇が祈願したことで有名な「敵國降伏」の勅願は、その三百年以上前の醍醐天皇の時代に始まったものなのである。
実証史学では醍醐天皇の治世は後世理想化されたような政治ではなかったとみなしている。しかし、井尻はそうした実証史学の見解を「なにもかもが出世欲、権力闘争、閨閥同士の勢力争い……まことに唯物論的というか素朴実在論的というべきか、人間観としてはきわめて貧しいというほかない。戦後の国史が陥った惨状というものである」と一蹴している。先人の精神の働きは実証的なだけの歴史学では到底描き得ない。井尻は「日本人が肇国の太古から試みてきた国づくりの精神史をいまこそ再点検せねばならない」と述べ、先人が国づくりに懸けた精神を鮮やかに描き出した。その筆致は感動的であり、読む者を惹きつけてやまない。
本稿で紹介した「醍醐天皇とその時代」の初出は平成二十五年に「新日本学」に掲載されたものである。井尻はその翌年に入院し、平成二十七年に亡くなった。本論文は井尻の最期に遺した論文といってよい。本書を耽読することで國體に基づく統治という大理想を再確認してはいかがだろうか。

ご譲位のお言葉に関して―「皇室令」「宮務法」の体系を復活せよ―

 本年八月八日、今上陛下がご譲位のご叡慮を示されたが、そのお言葉を享けて、いわゆる保守派を中心にある種の「困惑」があったように思われる。その一つの要因に、陛下が「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したい」とされていながら、摂政の設置を明確に退けられている点にも表れている。というのも、多くのいわゆる「保守派」は、有識者会議を見てもわかる通り、陛下のご譲位に向けたお言葉が発表されるようだ、というニュースが流れても「摂政を置くということでよいのではないか」という程度の認識でしかなかったからだ。もちろんわたしも例外ではなく、不明を恥じなければならない。やはり陛下が当用憲法における天皇の地位、権限にあれほど配慮されていながら、それでもなお摂政の否定に言及されたのは、深い意図があると理解すべきではないだろうか。しかし陛下はその「深い意図」を公にはされないであろう。したがって拝察申し上げるよりないのであるが、不勉強なわたしにはそれも難しく、述べられることは限られているが、二、三書き残しておきたい。

 すでに多くの識者に指摘されているのが、陛下は宮中祭祀の削減への対策として、ご譲位を決断されたのではないか、ということだ。戦後、GHQは当用憲法において天皇を「国民統合の象徴」とし、その地位を「国民の総意」に基づくとしたうえで、神道や日本神話との関係を絶つことに血道をあげた。その一つに「神道指令」があり、その結果宮中祭祀は国家的儀礼から、「天皇家の私事」へと変更された。
 変えられてしまったのはそこだけではない。皇室典範は、戦前は憲法と並立した存在であったが、戦後は憲法下にある一法律に改められた。なおかつ、皇室典範の下位にあった天皇や皇室に関する法律、いわゆる「皇室令」「宮務法」はことごとく廃止されることとなった。「皇室令」は皇室、家族等に係る法律の総称で、帝国議会は関与せず定められた一連の法体系のことを指す。具体的には、「皇室会議令」、「摂政令」、そして「皇室祭祀令」などがある。「皇室祭祀令」は祭祀の日にち、儀礼等について定めたものである。宮中祭祀は「天皇家の私事」とされたために、公務としての法的根拠をGHQに失わされているのである。
 昭和天皇の御代の最後期には、宮内官僚が暗躍し、祭祀を簡略化、形骸化、廃止すべく動いていた。それへの対抗策として昭和天皇もたびたび「ご譲位」を口にされていたという。平成の御代になっても、今上陛下が体調を崩された際に真っ先に削減されるのは宮中祭祀であるという。
 これらの事象は、官僚がイデオロギー的に宮中祭祀を疎ましく思い、廃止に走ったというだけではない。既に述べたように、皇室の「私事」としてすでに公務としての法的根拠を失っている宮中祭祀は、法的根拠のある他の公務より軽んじられるのは、官僚が機械的に事務作業を行うだけであったとしても、有りうべきことなのである。宮中祭祀は皇室と国民の信仰的、精神的結びつきを考えるうえで欠くべからざる行事であるが、このようにして徐々に形骸化されつつあるのである。
 ところで、有識者会議では一部委員が「摂政」を提案しているわけだが、しかし摂政に関する規定も戦前の宮務法にあったにもかかわらず、それが失われているということは、摂政を設置することは法整備を行わなければ実質的にできないということである。現状、摂政は「公務を代行する」という程度の規定しかないが、戦前の宮務法では、「摂政は憲法改正の発議ができない」など、天皇の権限との違いも明確に定められていた。そうした体系が閉ざされてしまったのである。

 このたびのご譲位の思し召しは、陛下の健康問題に矮小化して捉えられてはならない。それらは単なる引き金に過ぎない。戦後ほとんどの日本国民が見て見ぬふりをしてきた皇室に関する法制度の破壊が、これほど問われている事象はないのである。戦後日本人が伝統の保持を皇室にのみ押し付け、GHQに毀損された法制度は触れず、経済成長に邁進してきたツケが噴出したのである。
 この問題は摂政でも特措法でも解決できる問題ではない。また、単に陛下のご意志でご譲位を可能にするだけで解決する問題でもない。日本人にとっての皇室を改めて確認し、法制度としては皇室典範を戦前のように憲法の外に出た存在として位置づけなおし、宮務法の体系を復活し、当用憲法の破棄ないしは無視が必ず必要となる。そのうえで、ご譲位を可能にするのであれば、宮務法の体系に、戦前にはなかった「太上天皇」の規定を設けなければならないのである。もちろん「摂政」を置くという選択をしたとしても同様である。

 既に述べたように、宮中祭祀は、さまざまな変容がありながらも、記紀や民族信仰に端を発する、ご皇室と国民の民族的信仰的紐帯というべき最重要事項である。それを歴代陛下や皇族の努力に押し付けることはその性質にふさわしくないことである。今回のご譲位に関する事態でまず最初に議論されなくてはならないことは、戦後における天皇の位置づけの異様さを認識し、それにもかかわらず歴代陛下の努力によってかろうじて伝統を繋いできた事態に深く思いを致したうえで、「皇室令」「宮務法」の体系を速やかに回復すべく制度を整えることである。

本を買う悦び

 先日、久々に池袋のジュンク堂を訪れた。ジュンク堂は比較的学術的な専門書も多く取り揃えており、ここを訪ねて関心のある分野の書架に行き、背表紙を眺めているだけでも大いに刺激を受けることができる。
 ついネット書店に頼ってしまうと、「読むべき本がない」なんて思ってしまう。そうではない。自分が本を探していないのだ。ネットのような検索頼みのツールでは、読書は広がりを見せない。ネット書店は大変便利ではあるが、やはり本屋に行って背表紙を触っていくことがとても大事なのだと気づかされる。本屋に行かないと読書が貧しくなる。

 同じく本を探す悦びを感じることができる場所に古書街がある。古書街をゆっくり散策して、表のワゴンセールから奥の雑然と積み上げられた本まで眺めると、うれしくなってくる。「まだまだ読みたい本がこんなにある。」それだけで生きていける。

 そういえば私生活で嫌なことがあると、いつも大型書店か古書街に行く自分がいる。本の背表紙を一冊一冊触って、舐めるように見回すことで何となく癒される自分がいる。まだ読むべき本がある、まだ自分の知らないことが世の中には山ほど眠っている。そう思うだけで日ごろの嫌なことなどもうそこまで深く気に留めなくなっている。まぁなんとかなるだろう。そんな気持ちになるのである。どうせ世の中は未知で溢れているのだから。気にしたって仕方ないのである。

 本を買うことは一種の娯楽なのだ。私は買った本はすべて読むが、たとえ読まなかったとしても本を買うこと自体に一種の娯楽性が潜んでいる。たいてい本を買うことが好きな人は、本を読むことが好きな人ではあるが、「本を買うこと」と「本を読むこと」はやはり別個の趣味である。「本を買う楽しみ」というものが間違いなく存在するからだ。

 批評家若松英輔氏の父は、晩年目が悪くなり本をほとんど読めなくなっても、本を買い続けたという。それも家計の負担になるほどに買い続けたという。何となくわかる気がする。やはり私も、本を読めなくなったとしても、本を探し、買い続けるような気がする。
 本の存在自体が何か人を癒し、鼓舞する力を持ち続けているように思えてならない。

本土決戦論―敗戦の日を迎えるにあたって―

今年八月に書いた没原稿を掲載する。

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日本人の心

わたしにとって切実に論ずべきこととして心から離れないことは、日本人の心の問題である。経済成長がかくも日本人の心をむしばみ、日本社会を堕落させてしまったことに対するやるせなさである。「インバウンド」とか「爆買い」と言って誤魔化しているが、いまや日本は、外国人の購買力に依存し、彼らの無尽蔵な欲望を満たすことでかろうじて経済を維持しているのである。その意味では、「Tokyo」とか「Osaka」と言った経済圏は、意外にしぶとくその命脈を保つのかもしれない。だが、日本の伝統や、共同体や、民族性はどうだろうか。既に過去の遺物となってしまったのだろうか。
日本人はもう、伝統や先例、因習を頑なに守っていこうという意志を持たない。生活の便利さの追求は世を挙げて行われ、信仰心も薄く、共同体意識も弱い。微弱になった信仰の代わりに、数々の電化製品やレジャーが入り込み、便利ならそれでよし、楽しければそれでよしとなり、国はただの市場と化した。市場は、文化も伝統も民族性も破壊しながら、カネは天下の回りものとばかりに、今日も空転し続けている。
なぜ、いつから日本社会はこのように堕落してしまったのだろうか。そして、われわれがこの堕落から立ち直る方法はあるのだろうか。わたしは、本土決戦にそれを探る鍵があるのではないかと考えている。

本土決戦の経緯と「心法」

昭和二十年夏、わが国の戦局が思わしくない中、軍部は日本本土における地上戦を構想するようになる。國體護持を目的として、大本営を松代に移し、連合国軍の上陸に備え始めた。連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の消耗を図りつつ、侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するというものだ。
昭和二十年四月から沖縄戦が開始され、六月には沖縄がほぼ占領される。七月にはポツダム宣言が出され、降服が現実味を帯びてきたが、はたして國體が護持されているのか不明瞭であったために、国内でも降服すべきか論争があり、受諾しないでいたが、原子爆弾の投下を受けて降服することとなった。
日本の降服に当たっては、断固降服すべきではないという一派が存在した。彼らは戦争の続行を主張し、クーデターを計画したが失敗に終わっている。俗に宮城事件という。彼らはなぜ戦争の続行を主張したのだろうか。クーデターの中心人物の一人である井田正孝中佐の手記がある。長いが引用したい。

国敗れんとするや常に社稷論―すなわち「皇室あっての国民、国民あっての国家、国家あっての国体である」となし、国体護持も皇室、国民、国土の保全が先決なりと主張する。唯物的な国家論―なるものがある。社稷論は敗戦の寄生虫であり、亡国を推進する獅子身中の虫である。
社稷論第一の誤謬は、形式的なる皇室存続主義にある。形骸だけを残して精神を無視するものである。皇室の皇室たる所以は、民族精神とともに生きる点にあるがゆえに、精神面を没却した皇室には、意義も魅力もないことを深く考察すべきである。さらに彼らの出発点は、皇室の名を利用する自己保存であることを看破せねばならぬ。
社稷論第二の誤謬は、機械主義的な敗戦主義にある。開戦に当たっては傍観的あるいは逃避的態度を取り、戦局の推移につれて、第三者の立場から戦争を批判し、国民戦意の喪失にこれ努めたのである。その言うところは皇室の存続であるが、真の狙いは国家の面目よりも、物質的な生活苦ないしは戦争の恐怖に対する利己心以外の何物もない。
さらに戦争を挑発しながら、敗戦主義を指導した一派のあることを忘れてはならない。かくて、社稷論は軍人を除く上層階級に瀰漫し、さらに平泉学派も節を屈してこれに参画するに及び、神州不滅論は大転換を見るに至った。
(田々宮英太郎『神の国と超歴史家平泉澄』180頁からの孫引き)

彼らは皇室も国家も単に存続するだけでは駄目で、「形骸だけを残して精神を無視するものである」ものであり、民族精神とともに生きなければいけないという。彼らは勝算などまるで問題にしておらず、ただ「民族の精神」、「国民戦意」、「国家の面目」を失わないようにするため、戦争の継続を主張したのだ。
桶谷秀昭は「本土決戦といふのは、一億総特攻の思想であり、日本国民の生命のすべてを挙げるだけでなく、日本列島そのものを特攻とする思想である。/これは戦術とか作戦構想の名にあたひするであらうか。それは戦法といふよりは心法である。」(桶谷秀昭『昭和精神史』587頁、/は改行)と評している。本土決戦は作戦の問題ではなかった。後に残された日本人の精神(=「心法」)の問題である。
本土決戦以外にも、作戦の問題ではなく後に残された日本人の精神の護持を目的として立案されたものに、特攻がある。特攻作戦の発案者とも言われる大西瀧治郎は「この神風特別攻撃隊が出て、しかも万一負けたとしても日本は亡国にならない。これが出ないで負ければ真の亡国になる」「ここで青年が起たなければ日本は滅びますよ。しかし青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と言ったという。大西のこの発言は、軍事的効果のみを考えたのでは全く理解することはできない。しかし、戦闘の勝敗を超えた「日本人の存続」を考えたとき、どうしてもなされなければならぬ作戦であった。

戦後、茫然とした日本人

結果として言えば、本土決戦は沖縄を除いてなされなかったと言ってよい。それが現在まで残る沖縄の「捨て石にされた」という意識の所以であろう。
沖縄戦は凄惨な持久戦となり、多数の犠牲者が発生した。沖縄にのみ自国民と領土を犠牲にする選択を負わせる結果に終わったことで、戦後、沖縄は本土が主権を回復した後もアメリカに占領されることとなり、今も多くの米軍基地が残ることとなった。それ以上に問題であることは、現代の日本人がこうした経緯にほとんど無自覚なことである。特攻は後生の日本人のための貴い犠牲だと考えることはできても、沖縄に対してもそのような目で見ることができる人は、残念ながらほとんど稀なのである。
戦後の日本人が敗戦により茫然とし、それが落ち着いたときに、まるで敗戦を見ないようにするかの如く経済大国の実現に邁進したことを丹念に取り上げる論客に、桶谷秀昭がいる。
桶谷は「昭和二十年八月十五日の正午」には、敗戦による茫然自失の感覚がかつてはあったが、「この嘘のない純粋な感触の記憶は、やがて戦後の新文学の高い声に吹き消されたかのやうに、人の記憶から失はれた。かういふ記憶を抱いて生きるといふ生き方をしなかつた。/それが日本列島の美しい海浜を埋め立て、石油コンビナアトを建て、経済大国を実現する本能に駆り立てられた生き方であつた」という((「近代日本人と道」『時代と精神 評論雑感集 上』31頁/は改行)。
また、「敗戦時の空白と寂しさがわたしに教えたものは、体制であれ反体制であれ、およそ支配イデオロギーはその中核に決定的な虚偽を隠蔽して、のさばるということである。そしてその虚偽を見抜くのは、すべての橋を焼き、己一個の生存の暗い根底に立ったときである。敗戦時の感慨は、国破れて山河あり、であった。戦後二十五年の今、国は復興して山河は滅びようとしている。公害だけではない。われわれの内なる日本の滅亡である。これがほんとうの滅亡ではないか。」と記している(「八月十五日の記憶」)。
「内なる日本人の滅亡」を問題とする桶谷の議論は、後生の日本人のために本土決戦や特攻が必要だと考えた先人と、深く魂で通じ合っているように思われる。

現代人の心性について

日本は本土決戦を行わず敗戦という選択をした。これは皇室の国民とともにある姿勢、国民の犠牲を避けようとされる叡慮、国民と日本文化さえ残っていれば、日本は必ず甦るという確信と、さまざまな思いの果てに決断されたであろうことは疑いようがない。世界史においてたびたび繰り返された、国王がさっさと亡命してしまう事例などよりもはるかに偉大で崇高な態度であった。しかし物事には裏表があるものであり、やはり本土決戦を行わないことによって、「生き延びられればそれでよい」という観念を植え付けはしなかったか。醜の御楯となる誇りは忘れ去られてしまい、現代人はいきなりその感覚を取り戻すのは難しくなってしまった。少なくともその感覚を持てない自分を恥じ入ることから始めなくてはならない。
「特攻隊員の犠牲のおかげで今の経済発展がある」と言われることがある。坂口安吾ではないが、「嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!」と叫びたくなる。特攻隊員は、家族、故郷、生まれ育った自然のために命を散らしたのであって、その故郷を荒廃させ、自然をショッピングモールに変えた我々の堕落した生活なんぞのために命を散らせたのではない。特攻隊員は、我々が豚のように肥え太るために命を散らせたのではない。われわれはむしろ、祖国のために命を懸けた彼らを裏切ることで日々を生きている。その罪悪感から逃れることはあってはならない。
靖国神社は信仰的施設である。信仰とは特定の宗教を指すものではない。信仰とは己の一身を超えた大いなるものへの帰依である。靖国神社に宗教性があるかどうかは何とも言い難い。国民儀礼とも言えるからだ。しかし間違いなく信仰性はある。信仰とは先人の声を聴き、己の生き様を省みることである。その意味で靖国神社はまさしく信仰的な施設である。靖国神社はむしろ「○○が叶う」と言った現世利益を売りにした宗教施設よりもはるかに信仰的とさえ言えるのかもしれない。靖国神社への参拝は現世利益と言うよりも、むしろ現世否定と言ってもよい。靖国神社に眠る英霊より祖国に献身した人間は、今生きている人間には一人もいないからだ。祖国に献身した生き様を突き付けられ、欲望に塗れただらしない自らの生活を恥ずかしく思い、せめて一つだけでも英霊に恥じぬ行いをしようと努めようと決意する場所が靖国神社なのである。

後生に伝えるべき日本人の魂

日本人が一致団結し、祖国防衛の魂を全霊で発揮しなければならない。そのような危機感を心底抱かねば、独立を維持していくことなど到底できない。形式上の独立は保てるかもしれないが、強国に蝕まれて手も足も出ない姿しか許されないであろう。
強国のどこかに従っていれば、政府や市場は残るかもしれない。だがたとえそこに政府や市場が残っていたとしても、祖国に魂をささげる人が残らなければ、それは死んだ国である。われわれは生きながらえるだけではなく、日本人の魂を後生に伝えなければならないのだ。

書き手になるということ

書き手になることは、書くことを生きることの中軸に据えることである。人は誰でも、心のうちにあることを真剣に書き記そうとするとき、書き手に変貌する。
逆に、どんなにたくさんの書物を世の中に出していたとしても、自らの心の奥底にあるものとの出会いから逃れようとする者は、ここでいう書き手ではない。
文字を書く人は無数に存在する。しかし、書き手が同様に存在するわけではない。魂の言葉を世に顕現させたいと願ったとき人は、はじめて書き手となる。
(若松英輔『生きていくうえで、かけがえのないこと』31頁)

当時一大学生だったわたしがこのブログを始めてから10年が過ぎた。自分なりにまじめに考えたり、調べたり、言葉を紡いできたつもりである。だがわたしがやってきたこの程度のことはしょせん独りよがりというか、他人からしてみたら取るに足らない努力に過ぎないのではないか。そんな不安も同時に持ち合わせている。

わたしは書くことを本当に生きることの中軸に据えてきただろうか。書きたいことを文字に残すために、文字通り身を振り絞って、寝る時間をも惜しむように取り組んできただろうか。

おそらく性格的には、毎日コツコツ体を壊すほどの無理はせずなすべきことを少しずつ進めていく方が性に合っている。何時間寝たか寝なかったかなどは自己満足の世界であり、何の関係もないことだとも思うこともある。だが、それでも自分には全霊を傾けているのだろうか、と劣等感にさいなまれる。

ただ、読むことと書くことなしの人生を生きなさいと言われたとしたら、そんな人生に希望も喜びも何も感じられないだろうということも確かなのだ。

アマゾンレビュー「ルポ ニッポン絶望工場」

本日紹介するのは出井康博の『ルポ ニッポン絶望工場』である。私がアマゾンに書いたレビューを引用する。

外国人を酷使し、見捨てられる日本

日本にも他国と同様、多数の外国人が「移民」として流入している。しかし政府は公式には移民政策をとっていない。彼らは「留学生」や「研修生」という名目で日本に入ってきている。これが非人道的な低賃金労働の温床となっている。
彼らを酷使する日本企業は無論、現地の業者、日本語学校などが彼らを送り込み、ピンハネをしている実態も描かれている。
彼らがこの構造に気づいたとき、日本人を恨み、「反日」化して日本から去っていく…。
一説には欧米で繰り返されるテロ行為はこうした低賃金労働による「恨み」が大きな影響を与えているとも言われるだけに、この問題は看過できるものではない。
一般の日本人にも無縁な話ではなく、彼らが超低賃金労働で働かされていることは日本人労働者の賃金の下降圧力にもなっている。
もはや現代日本の生活は彼ら超低賃金外国人労働者の存在なしには成り立たない。
しかしこの生活は法や人道を公然と無視する労働環境によってまかり通っているのであって、われわれは今の「豊かな」生活なるものを根本的に疑ってかかるべきではないだろうか。
ヒトモノカネが「自由」に行きかうグローバリズムがゆがみを見せる中で、全く新しい共生の理論が求められているように思う。

ところで「絶望工場」という書名は鎌田慧のルポから来ていると思われるが、鎌田のルポも私は好きである。いわゆる左翼的な論調ではあるが、非正規雇用の問題など低賃金労働の問題点を先駆的に取り上げたことは注目すべきである。

アマゾンレビュー「GHQが恐れた崎門学」

坪内隆彦著『GHQが恐れた崎門学』についてレビュー致しました。

脈々と継承された國體思想の大義
親から子に、師匠から弟子に脈々と國體思想の大義は継承、発展され、ついに明治維新に至った。
本書はこれを証明するために維新志士を鼓舞した5冊の本を取り上げ、その本の内容ばかりではなく、周辺の情報を織り交ぜながら、大義の継承の歴史を描いている。

補論として書かれた原田伊織批判、大宅壮一批判も秀逸で、大義からではなく権力闘争と利害関係からしか歴史を見れない不毛さを論じている。

ちなみに本書で批判している原田伊織『明治維新という過ち』についてもレビュー致しました。

浅薄な幻想史観
著者は今の安倍政権を首相の家系から「長州」とみなし、「長州」に日本が支配されている状況を明治維新に遡って批判している。
だがこれは歴史を見ない(あるいは表面上見たふりをしているだけの)ファンタジーである。
既に戦前においても護憲運動や宮中某重大事件などで「長州閥」は解体させられていた。著者が口を極めて非難する大東亜戦争は「賊軍」の家系を持つ東条英機によってはじめられたではないか。

この本は維新期をダシに安倍政権を貶めようとする意図で書かれたものであり、噴飯物である。
わたしも安倍政権には批判的ではあるが、こういうやり口は好まない。

なお、本書を徹底批判した本に、坪内隆彦『GHQが恐れた崎門学』がある。

原田氏の坪内氏への反論も聞きたいところである。

アマゾンのレビューを書きました 二

またアマゾンのレビューを書かせていただいたのでご報告します。

井尻千男『歴史にとって美とは何か』
本書は井尻の遺稿集である。単行本未収録の論文を集めたもので、主要論文に「醍醐帝とその時代」が挙げられる。
宇多天皇、醍醐天皇の時代を「シナ文化への憧憬」から「天皇親政」「自国文化への確信」への大転換期と位置づけ、摂政・関白の廃止、遣唐使の廃止、古今和歌集の編纂をその時代精神の表れであるとみた。本論文は単に過去の歴史を描いたのではなく、過去を通して國體の大理想を強く訴えかけている。
「醍醐天皇とその時代」の初出は平成二十五年に「新日本学」に掲載されたものである。井尻はその翌年に入院し、平成二十七年に亡くなった。本論文は井尻の最期に遺した論文といってよい。

竹葉秀雄『青年に告ぐ』
学問という「道」
現代人は資本主義的な自己利益の充足に馴れきって、精神の救済を後回しにしている。心ある人でさえ、その主張は単純な政策論議に限定されていて、その奥に潜む魂を問題としない。『青年に告ぐ』は、「使命に生きる」ことを称えた本である。
孔子も、釈迦も、キリストも、ソクラテスも、マホメットも、道元も、中江藤樹も、吉田松陰も皆その青年時代に、内奥の神の声を聞いて、その道に生きた人たちである。哲学と求道は不可分のものである。思想とは単純な論理的正しさを問うだけのものではなく、人格の陶冶、社会の道義的進歩と結びつかなくてはならない。
学問は世界を認識する手段に過ぎないというのが近代科学的態度であろうが、竹葉秀雄にとっては、学問は全身を捧げるべき「道」であった。本書は竹葉のそうした姿勢がうかがえるものとなっている。

藻谷浩介『里山資本主義』
里山から見る新たな価値
資本主義はマネーゲームの域にまで高められ、現実の生活と全く乖離したところで巨額のカネが動くようになっていた。その体制の崩壊がリーマン・ショックだったと言ってよい。本書はそうした認識の下に、里山を媒介とした地産地消の経済を取り上げていくものだ。中でもエネルギーの地産地消の事例は本書でたびたび取り上げられており、エネルギー効率だけを目的とした発電ではなく、その地で取れるもので、環境に負荷をかけることなく発電し、生活する方法を模索している。
今の日本の都市部の経済の仕組みは複雑に入り組んだ流通経路により成り立っているが、ひとたびその流通経路が途絶えてしまうと何一つ生活できないコンクリートジャングルになってしまう。生きるのに必要な水、食料、燃料をお金を払わずとも、完全にとまではいかなくとも、ある程度自給できる社会こそ本書が豊かな生活としてたたえるものである。金銭は所詮物と物の交換に使うものであり、それ以外ではない。しかし資本主義に染まりきった生活では金銭は単なるものの交換手段ではなくそれ自体が一つの価値になって、カネを持つものが持たぬものより立派で上等な人間であるかのような観念が人々に染み付くことになった。だが金銭のみに守られる人生はさもしく、金銭以外のものに支えられる人生は豊かだ。

いずれも本ブログもしくは活字媒体にわたしが書かせていただいたものからの部分的な抜粋です。