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竹内好の怒り

 60年安保では岸内閣の日米安全保障条約改定に反対する大規模なデモが発生している。その過程で、羽田空港で、アイゼンハワー大統領訪日の日程を協議するため来日したジェイムズ・ハガティー大統領報道官が空港周辺に詰め掛けたデモ隊に迎えの車を包囲されて動けなくなり、アメリカ海兵隊のヘリコプターで救出されるという事件が発生した。ハガティーは「この人らは日本に対する忠誠心さえもない人たちである」とコメントした。
 この発言に怒ったのがいわゆる左翼的アジア主義者の竹内好である。竹内は、「本心は日本を独立国と思っていないのではないか。彼が『日本に対する忠誠心』というとき、その本意は『アメリカに対する忠誠心』と重なっているのではないか」と述べた。
 当時の英米世論は概してデモ隊に批判的であった。イギリスの新聞は、「東京の狂信的な若者ども」は「かつて真珠湾をたたき、シンガポールで同胞をいためた狂信者の子供である」と評した。アメリカでは「リメンバー・パールハーバー」、「日本人は、戦前とちっとも変っていない」と言ったという。
 これら英米世論やハガティーの人種差別的な反応には驚かされる。なるほど現代の目から見ればデモ隊がインターナショナルを歌っていたり、ソ連から金が出ていたことなど、その敵意はわからないでもない部分もある。だが、竹内が喝破したように、英米には日本人を自分たちの言うことを聞いて当然という意識がありありと見える。竹内が怒るのも当然だし、そこにはインターナショナル的な左翼思想に収まらない、いわば愛国的な側面も感じ取ることが出来よう。

参考:小熊英二『民主と愛国』540頁

日米同盟の即時破棄を主張する

晩年の平泉澄は、自民党が行う憲法改正に批判的であったという。自民党のやり方に従えば、今よりもずっと対米従属を深めるような憲法に改正されてしまうからに他ならない。

現状北朝鮮情勢が逼迫する中で、米国とさらに関係を深め、共に国防に努めるべしという考え方がある。一見、「現実的」な意見に映る。ただそれは、日米同盟下に於いて日本は外交・国防上の自主決定権をほとんど持っていないという「現実」に目を背けた議論である。現状の日米同盟体制では、日本側の協力が必要か否かはアメリカが決めるのであって、日本が決めるのではない。即ち日米同盟を破棄しない限り、日本の主体的な外交・国防上の政策はないということである。わたしが日米同盟即時破棄を訴える所以である。

過去記事を紹介するので併せてお目通しいただけたら幸いです。
◆まず日米同盟から改めよ~日米同盟の抜本見直しと憲法改正の順逆を問う~
◆良心を問え―自主防衛論―

橘孝三郎と柳宗悦

橘孝三郎と柳宗悦はともに近代都市文明から逃避し、伝統的社会に自らの居場所を求めた。彼らは先天的に伝統的ムラ社会の住人だったわけではない。彼らは後天的に農村に生きることを獲得したのである。

橘孝三郎と柳宗悦の直接的接点を見出すのは難しい。だが、橘孝三郎の兄弟村にはミレーの絵とともにウィリアム・ブレイクの絵も掲げられていたという。ブレイクこそ柳の原点であり、両者の関心が近かったことをうかがわせる。橘孝三郎の妹はやの二年先輩で親しい中だった人物は、柳宗悦の妻兼子であった。宗悦・兼子夫妻ははやを訪ねて水戸に赴いたこともあったという。両者がそこで出会っていた可能性も高い。

そうした人脈的つながりだけではなく、柳と橘は伝統を信仰的に理解していたことも共通している。
柳は「伝統は一人立ちができないものを助けてくれる。それは大きな安全な船にも等しい。そのお蔭で小さな人間も大きな海原を乗り切ることが出来る。伝統は個人の脆さを救ってくれる。実にこの世の多くの美しいものが、美しくなる力なくして成ったことを想い起こさねばならない」(「美の法門」『柳宗悦全集』十八巻19頁)と述べている。ここでの柳にとっての「伝統」は「信仰」に近い。
柳は民藝を共同体によって生み出されるものとして捉えていた。したがって民藝は高名な芸術家によって生み出されるのではなく、無名の庶民が自らの必要に従って作られるものと考えていた。一方で資本主義社会がもたらす機械的な量産をあさましいものと思い、共同体に培われた文化を破壊するものとして捉えている。

橘は「日本愛国革新本義」で、「東洋の真精神に還って、世界的大都市中心に動かされつつある個人本位的烏合体的、寄合所帯的近世資本主義を超克、解消し得るに足る、国民本位的、共存共栄的、協同体完全国民社会を築き上げることより外ないと信ずる」と述べた(『現代日本思想体系31超国家主義』222頁)。また、「社会主義と言はず、個人主義と言はず、西洋唯物文明精神の本質に属する思想はその唯物精神の然らしむる処に従つて、だんだん聞いてゆくと、結局人間といふものは「胃袋と生殖器」だといふ事になつてしまふようだ。(中略)成程、人間は胃袋と生殖器に違ひない。さういふ言葉にはまことに耳聴けなくてはならん真理がある。然し、胃袋と生殖器である人間は同時に、頭脳と心臓であつた事を忘れてはならない」(『農本建国論』237頁)。
橘も物質文明を超克するところに共同体の意義を見出していた。

田崎仁義「東洋の経済と西洋のエコノミー」要旨

田崎仁義は日本の皇道経済学者の一人である。
田崎は明治十三年、新潟県に生まれた。明治大学講師などを経て大正五年に米ハーバード大学へ留学。帰国後、大阪商業大学教授となる。その後、ロンドン大学に留学し、帰国後、大阪商業大学に皇道研究会を設立。その後神宮皇学館大学講師を務めたほか、戦後も明治大学講師、国士舘大学教授などを務めた。昭和五十一年、満九十五歳で亡くなった人物である。主に儒学的観点から皇道経済を説いた。

主な著書に、『王道天下之研究』『皇道原理と絶対臣道』『孔子と王道の政治経済』『皇道・王道・覇道・民道』『大木国家日本』などがある。『皇道原理と絶対臣道』では浅見絅斎『靖献遺言』を取り上げるなど崎門学の造詣も深い人物である。徳富蘇峰は「田崎博士は予の尊敬する学者の一人也。研鑽兀々、世上の営利名声を無視し、只だ講学是れ事とす。然かも其の論ずる所、決して迂腐寒酸の学究にあらず。而して亦た固より曲学阿世の徒と其科を殊にす。所謂る道を信じる厚くして、自ら知る明なるもの、君に於て之を見る」と評している。

田崎仁義の人生で転機となったのは明治天皇の御不例御崩御の際に、平癒回復を純真に祈る国民の姿に感動したことである。その時田崎は、自らの心に抱いてきた皇道國體観に更なる確信を得た。また、ハーバード大学留学時などに欧米人の有識者と言えども日本の国家観を理解できないことに気づいた。また、同時に日本人が欧米人の意見をありがたがる風潮に疑問を持った。そこで皇道國體を立証するために心血を注いだ。

頭山満は、「さきにねる 後の戸締り 頼むなり」という久坂玄瑞の辞世の句をそのまま田崎に託したという。

そんな田崎が昭和三十六年に書いた原稿に「東洋の経済、西洋のエコノミー」というものがある(国士舘大学政経論叢所収)。本稿ではこの要旨を以下に掲載する。

「経済」という言葉は熊沢蕃山、貝原益軒、太宰春台などによって用いられてきたが、明治以降エコノミーの訳語として定着した。しかしそれは真に適切だっただろうか。「経済」とは「経世済民」、「経国済民」が語源であり、天下国家を経綸し、世俗人民を救済厚生せんとする意味が込められている。一方エコノミーはラテン語の「Oeconomia」に基づくもので、要は家計のやりくりを示す言葉であった。東洋の経済は「営利」や「蓄財」を思わせない言葉であるのに対して、西洋のエコノミーは個人的な理財の側面があり、経済が公を意味するのに対してエコノミーは私身的である。故にエコノミーには「庶民の窮乏を救済する」とか「天下国家を経綸する」という意味合いはない。これは偶然発生したものではなく必ずそれぞれの文化、文明的経緯を経ているものである。

資本の目的は自ら膨張することにあり、必ずしも自国政府の言うことを聞く必要はない、嫌ならタックスヘイブンを求めて移動したって良いのだというのが近頃のグローバル資本の言い分である。そういいながら国家が提供するインフラや文化、教育、通貨及び通貨の安定性、安全保障、外交交渉力などに全く依存しきっているのが今の大資本の姿である。このような態度を理解するカギとなるのが「自己利益」である。自己利益の追求のためなら傲岸にも利用できるものはすべて利用し、自己利益に不利と思えばヒステリックに攻撃し、しかもそれを恥とも思わない態度の由来は西洋の「エコノミー」にある。「エコノミー」を超克し「経済」に回帰することが必要なのだ。
田崎の論考自体はここまで踏み込んでいないが、自然とそのように考えさせられるものとなっている。

断じてリベラルにはなりたくない

わたしは資本主義批判を書くことも多いが、その資本主義批判がリベラルや社会民主主義と錯覚・混同されるのを恐れる。薄甘いリベラルなど断じてお断りだ。次代を真に切り開くのは、保守でもリベラルでもなく、そうした「現実的」な対立を突き抜けた思想によるものであろう。池上彰のような、いろいろな人の言っていることをそつなくまとめて中間点をとるような論じ方は、わたしの目指すところではない。

ここで戦後史を振り返ってみると、昭和二十年代までは、憲法改正の機運は実は強かった。当時の世論調査でも憲法改正に「賛成」が「反対」を大きく引き離していた。
その機運が変わるのが昭和三十年代である。戦後復興が徐々に本格化する時代である。人々は「花より団子(竹内洋)」の風潮に染まりつつあった。憲法改正に「反対」が「賛成」を上回るのは昭和三十二年、岸内閣の頃である。その後の池田内閣では所得倍増が掲げられ、岸内閣にあった安全保障論議は棚上げされた。その前からすでに「もはや戦後ではない」などという標語が叫ばれるなど、「個人的な生活の豊かさ」にばかり目線が向いていた。当時の「進歩的」知識人はそれを自らの議論の勝利であるかのようにとらえ、「新憲法感覚の定着」だと寿いでいたが、その中で忘れられていったのは何も右派的議論だけではなく、左派的議論も徐々に退潮していくこととなった。

このような、池田内閣が成立した昭和三十五年(1960年)の頃の日本を、桶谷秀昭は「六〇年代の日本は、ふりかへつて茫然と困惑に陥るやうなものがあつた」と述べている。これは、政治の季節が終わり、政治で解決できなかった賃金格差などの問題が(のちの時代から見れば一時的にせよ)「経済成長」ですべて解決してしまったという困惑ではないだろうか。

こうした経済成長にうつつを抜かす戦後日本に絶望的な思いを持った人物の一人に三島由紀夫がいる。三島は「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と記す。この言葉は池田内閣から十年後の昭和四十五年に記されたものであった。

翻って現代は、その経済成長すら危うくなった時代である。大企業や一部の富裕層はいざ知らず、一般国民が経済成長を実感することなどまずありえない。それどころか格差が開くことを「自己責任」であるとする新自由主義や、移民を肯定するグローバリズムが平然と唱えられている。これらを採用しなければ経済成長は達成できないという。そうかも知れない。だがそれは、そもそも何のための経済成長か、という議論を決定的に欠いている。

このような時代にリベラルや社会民主主義は、「生きさせろ」と富の分配を訴えることはできるが、何が社会として「正しい」分配なのか、それを問えなくなってきている。せいぜい「個人の人権が蹂躙されている」などというばかりだ。それは全体構造の欠陥を無視した弥縫策に過ぎない。だからリベラルや社会民主主義は決定的にダメなのである。西欧近代の超克と國體の明徴を論じていた戦前の論客の足元にも及ばない。彼らは國體の明徴が民主主義、資本主義、共産主義、帝国主義などを真に超克すると信じた。戦後、人々はそれをアナクロで狂信的、封建的だと罵っていたが、その戦後知識人は近代思想の問題点には踏み込めないでいる。
大理想による文明の転換こそが必要なのであって、「現実的」なリベラル、社会民主主義は時代の荒波にもまれ海の藻屑と消えるべき存在である。

参考文献
竹内洋『革新幻像の戦後史』
桶谷秀昭『昭和精神史 戦後編』
三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫版)

大杉栄と権藤成卿

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭になる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。
精神そのままの思想は稀だ。精神そのままの行為はなおさら稀だ。生まれたままの精神そのものすら稀だ。
(中略)
僕の一番好きなのは、人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。

大杉栄の「僕は精神が好きだ」の一節である。わたしの好きな詩でもある。
この世の現実は保守とリベラルのせめぎあいである。だがそうした現実そのものへの批判的意識が、思想家には必要だ。思想は党派性を拒む。党派から発言するようになった時、人は思想家から政治家になる。

大杉栄が死んだとき、内田良平は良いことだと喜んだ。それを知った権藤成卿は、内田と義絶した。
たしかに権藤と大杉には親交があった。だがこれは親交ある友人が殺されたというのに喜ぶとは何事だ、という話では恐らくない。権藤は内田のブレーンだった。大杉以上に内田と親しく、同志と言ってよい間柄であった。にもかかわらずなぜ縁を切ったのか。根拠のないわたしの妄想に過ぎないが、恐らく権藤は、内田は党派から発言するようになってしまったと、深刻に失望したからではなかったか。
身一つで義侠心から立ち上がった男に対して、たとえ意見が違ったとしても、官憲に殺されて良かったなどといくらなんでも失礼ではないのか。そう感じたのではないだろうか。

たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していこうとする人、名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件である。この「狂」の感覚は、合理的で近代的な態度ではない。右翼か左翼か、そんなことはどうでもよい。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。権藤は、内田でさえも「狂」の感覚を失ってしまったのかという失望に深くさいなまれたのではなかったか。

今日の記事は皆様の目を煩わせるにはわれながらあまりにも根拠薄弱な妄想の類である。
だがこうとでも想像しない限り、権藤の行動は理解しかねるのである。

そして権藤の考えかどうだったかはさておき、「狂」の感覚を持ち続けることは、志あるものにとって何よりも大事なことだと思えてならないのである。

「資本主義の精神」とは何か

現在世間に流布されているところの「経済学」は、近代以降の自由競争による市場競争は自然であり、正常であるという暗黙の前提を疑いもしなかった。それはマルクス主義経済学においても例外ではなく、あくまでプロレタリアート独裁による共産社会が登場するまでの過渡期と見なしていたとはいえ、市場競争を当然のものとしてみていた点では近代経済学と何も変わらない。
だが、それは商売が基本的に越境性を持ち、境界を破壊する力を持つことに思いを致していない。商売を、町の商店街のオヤジが愛想を良くし、様々な商品を取りそろえたら売上が上がりましたというような牧歌的な個人の努力譚として捉えることはそろそろやめにするべきだ。
既に書いたように、経営トップの仕事とは、「win-win」ではどうにも解決できない事態に対し、カネの力や人脈の力、政府権力などありとあらゆる手段を活用して自社に利益をもたらすことである。「win-winで片が付くことなど下っ端でもできる」。えげつないいやらしい手段であろうとも全くためらいもせず取ってくるのが「商人」の考え方であろう。自社のシェアが奪われれば、難癖でも何でもいいからいちゃもんをつけ、ヒステリーになってバッシングする。自らの利益を守るためなら倫理道徳などドブに捨てられる。資本主義の精神とは、努力して「良いもの」を作るということではない。自らが儲けるために他人を振り回すことを正当化する精神である。ブラック企業はまさしく資本主義の精神にのっとった存在であると言える。資本主義を批判しないものにブラック企業を批判することはできない。
近代経済学とは、それ自体倫理が崩壊した後に訪れる異常な状態である。ちょうど支那の徳治主義が、正統なる君主が滅んでしまった後に次善の倫理として登場したように、資本主義とは社会の倫理道徳が毀損された後に、社会秩序を生み出す方策として生み出されたものであり、積極的に参与するに値しないものである。資本主義の精神などゴミ箱に投げ捨てたうえで、正統なる倫理道徳を取り戻すことが重要なのである。

学問の道と孤独に耐えること

学問は出世や生活のためにするものではない。己を磨くためにするものである。家族や世間から「もうやめろ」と言われて学問をやめるならば、その人はやはり出世や生活のために学問をしている人である。ある意味そういう人はまっとうな人だ。そういう人が多数でなければ社会が回っていかないことも確かである。しかし、「あなたが死んだらどうするの」と説教されて、それでも学問をやめない変わった人だけが知者たる資格がある。

そうした知者に焦がれる人間であっても、難しいのは人間関係である。

学問をするからには、現代の日本、将来の日本に何かを遺したいという大欲を持つ。それには、他者と積極的に交流しなくてはならない。ひとりでは何も変えることができない。しかしそうした人間関係が自らの学問を縛ることがある。誰かと群れて、何かを成した気持ちになって、自分を慰めてしまう。

亀井勝一郎は「人間は真理より世評を恐れる。ほんたうに、いつでも真理を恐れるようになったら偉い。」と言った(『亀井勝一郎全集』二巻442頁)。意見が異なる人や対立する人の悪評を恐れないのはむしろ易しい。難しいのは自らを良く評価していただいている人の意見に寄り添わないようにすることである。これを言うとあの人は不快に思うかもしれない。敬愛しているからこそ、そういうことが気になって仕方なくなる。

誰かと群れなければ人は何も成すことはできない。しかし、最後は一人で自らの考えを練り上げらなければならない。勉強会で切磋琢磨するのはよい。しかしそれでも学問をする者は独りでいることに耐えなければならない。独りで虚心になって先人の言葉に向き合う時間が自らの学問の土台になる。

頭山満の有名な言葉に、「太陽の光が輝けば蛍の光は消えてしまう 火種が強ければ火は燃え上がる 一人でいても寂しくない人間になれ」というものがある。独りでいても寂しくない人間。群れても己を失わず、恥じることがない。それにはやはり勉強量が必要だ。自らの確信となるまで深く学ばなければならない。

日本の根本問題

 いまわが国を覆う欺瞞と堕落、無関心と危機感のなさ、そういうものを見るにつけて鬱々とした感情に駆られるのだが、その思想的根源はどこにあるのだろうか。

 問題は、右翼でも左翼でも保守でも革新でもない。そういったものは冷戦構造の残滓である。そういった二分法を超えて、真にわが国の抱える問題の本質に迫らなければならない。

 それはGHQにより日本が弱体化された、という話ではない。もちろんそういう話も重要ではある。だが、占領から離れてから久しい現代にいたってもまだその迷妄から覚めないとすれば、それはわが民族の惰弱さを示す証左でしかないのではないか。

 日本は明治維新後、富国強兵、殖産興業の政策を勧め、それを「文明開化」であると正当化してきた。もちろんその背景には植民地化の恐怖があり、一端近代文明を受け入れたうえで日本の独立を達成しようという大攘夷の精神があった。わたしはその大攘夷の精神を嗤う者ではないが、それによる負の側面を見ないわけにはいかない。福沢諭吉は和漢の学を罵倒し、津田左右吉はご皇室が日本の神話に繋がっていることを、近代人の理性に堪えないと愚弄した。ベルツに「日本の歴史はない」といった輩がいるように、大攘夷の精神の裏には、日本の歴史や伝統、信仰を否定せずにはいられない何かが潜んでいた。

 欧米ではいまでも職業の世襲や、地元の商店街を守るためのフランチャイズ資本の規制は珍しくないとも言われる。わが国は、後発近代化国であるからこそ、近代化を猛進(妄信)し、欧米以上に近代化され過ぎてしまった国なのである。

 和漢の学の代わりに入ってきたのが、資本主義の精神であった。人間は自己利益を追求する存在であり、人生とは要は銭儲けのことであるという考えが徐々に人々に染みついてきた。新自由主義者やそれを支援する財界に至っては、それ以外の生き方を述べる者をほとんど負け犬の遠吠えとしか見なしていない。
 しかしそうした連中の所業を軽薄だと見なす心ある草莽は、いまだ草莽でしかなく、連帯することもできずにいる。日本の真の危機は、ここにこそあるのではないか。

アマゾンレビュー「山本直人『敗戦復興の千年史』」

本日紹介するのは山本直人氏の『敗戦復興の千年史』である。わたしがアマゾンに書いたレビューは以下の通り。

白村江戦と大東亜戦争の交錯

昭和二十一年八月十四日、昭和天皇は首相、閣僚が出席したお茶会で、「(白村江の敗戦の後に)天智天皇がおとりになった国内整備の経綸を、文化国家建設の方策として偲びたい」と仰せられたという。大東亜戦争の敗戦という事態に直面したとき、昭和天皇が思い起こしたのは白村江の敗戦に向き合った天智天皇のお姿であった。わが国の悠久の国史においてただ二回だけの敗戦であり、どちらも皇室の存続の危機でもあった中で微妙なかじ取りを迫られた時期であった。
この両時期とも日本は外来の律令制度や「民主」制度をひたすら導入することに努めた時代であった。後の時代から見れば、そのように外来の文化を際限なく受け入れて、日本は大丈夫かと思わず考えてしまうような状況であった。しかしそれはひとまず勝者の文明を受け入れたうえで、長い年月をかけて押し返そうという決意でもあった。そうした千年先を見据えた計によって、日本の存続はなされたのである。

そのような両時代を往復しながら「千年史」を考察する一冊である。