わたしは資本主義批判を書くことも多いが、その資本主義批判がリベラルや社会民主主義と錯覚・混同されるのを恐れる。薄甘いリベラルなど断じてお断りだ。次代を真に切り開くのは、保守でもリベラルでもなく、そうした「現実的」な対立を突き抜けた思想によるものであろう。池上彰のような、いろいろな人の言っていることをそつなくまとめて中間点をとるような論じ方は、わたしの目指すところではない。
ここで戦後史を振り返ってみると、昭和二十年代までは、憲法改正の機運は実は強かった。当時の世論調査でも憲法改正に「賛成」が「反対」を大きく引き離していた。
その機運が変わるのが昭和三十年代である。戦後復興が徐々に本格化する時代である。人々は「花より団子(竹内洋)」の風潮に染まりつつあった。憲法改正に「反対」が「賛成」を上回るのは昭和三十二年、岸内閣の頃である。その後の池田内閣では所得倍増が掲げられ、岸内閣にあった安全保障論議は棚上げされた。その前からすでに「もはや戦後ではない」などという標語が叫ばれるなど、「個人的な生活の豊かさ」にばかり目線が向いていた。当時の「進歩的」知識人はそれを自らの議論の勝利であるかのようにとらえ、「新憲法感覚の定着」だと寿いでいたが、その中で忘れられていったのは何も右派的議論だけではなく、左派的議論も徐々に退潮していくこととなった。
このような、池田内閣が成立した昭和三十五年(1960年)の頃の日本を、桶谷秀昭は「六〇年代の日本は、ふりかへつて茫然と困惑に陥るやうなものがあつた」と述べている。これは、政治の季節が終わり、政治で解決できなかった賃金格差などの問題が(のちの時代から見れば一時的にせよ)「経済成長」ですべて解決してしまったという困惑ではないだろうか。
こうした経済成長にうつつを抜かす戦後日本に絶望的な思いを持った人物の一人に三島由紀夫がいる。三島は「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。」と記す。この言葉は池田内閣から十年後の昭和四十五年に記されたものであった。
翻って現代は、その経済成長すら危うくなった時代である。大企業や一部の富裕層はいざ知らず、一般国民が経済成長を実感することなどまずありえない。それどころか格差が開くことを「自己責任」であるとする新自由主義や、移民を肯定するグローバリズムが平然と唱えられている。これらを採用しなければ経済成長は達成できないという。そうかも知れない。だがそれは、そもそも何のための経済成長か、という議論を決定的に欠いている。
このような時代にリベラルや社会民主主義は、「生きさせろ」と富の分配を訴えることはできるが、何が社会として「正しい」分配なのか、それを問えなくなってきている。せいぜい「個人の人権が蹂躙されている」などというばかりだ。それは全体構造の欠陥を無視した弥縫策に過ぎない。だからリベラルや社会民主主義は決定的にダメなのである。西欧近代の超克と國體の明徴を論じていた戦前の論客の足元にも及ばない。彼らは國體の明徴が民主主義、資本主義、共産主義、帝国主義などを真に超克すると信じた。戦後、人々はそれをアナクロで狂信的、封建的だと罵っていたが、その戦後知識人は近代思想の問題点には踏み込めないでいる。
大理想による文明の転換こそが必要なのであって、「現実的」なリベラル、社会民主主義は時代の荒波にもまれ海の藻屑と消えるべき存在である。
参考文献
竹内洋『革新幻像の戦後史』
桶谷秀昭『昭和精神史 戦後編』
三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫版)