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政府と愛国心との関係

 内村鑑三は「基督教は宗教にあらず」という言葉と、「天国には教会はない」という言葉を残している。おそらくこの二つの言葉は同じことを意味している。「宗教」、「教会」といった俗世間の枠組みは、人が何かを強く信じる心、すなわち信仰を助けるためにあるのであって、「宗教」や「教会」のために信仰があるわけではないということである。人智で計りがたいものへの敬意、それが信仰である。世俗的な組織は、ときに信仰の力を大いに発揮する力ともなるが、信仰を妨げる力ともなる。政府と愛国心との関係もまた同様である。

 政府はときに愛国心を発揮するための最良の機関である。政府あってこそ国が保たれ、郷土は存続し、伝統は引き継がれる。政府がもたらす秩序なしでは、人間社会はすぐに混乱し、暴力と不信が世に広がってしまう。秩序あってこそ愛国心を発揮できる。秩序なしでは、人々は自らの身も守るのに精いっぱいで、世のことなど考える余裕はなくなってしまうだろう。
 一方で、政府が愛国心を歪ませることもありがちなことである。政治はどこまでも妥協の世界であって、理想を実現する場ではない。政局が理想を歪ませるのである。自らはこうすべきだ、という高い誇りがあったとて、政局は簡単にそれを裏切らせる。例えば今の安倍政権がおかしいと思っても、「安倍さんのかわりの人がいるのか」と言われて押し黙ってしまう。「今はそれをいうときじゃない」そんな言葉の援護射撃で黙らされてしまう。
 だが本当はそのようなことは何の関係もないはずだ。一国民はただ理非曲直を明らかにし、旗幟を鮮明にすれば良いのであって、それをいかにもフィクサーにでもなったかのようにふるまう必要はどこにもない。ときおり安倍政権を批判し愛国の道を語る人間に対し「現実的でない」という批判がぶつけられるが、一国民に過ぎない人が総理大臣の人事まで検討に入れて、「今それをいうのは現実的ではない」というほうがはるかに現実が見えていない態度ではないだろうか。

 人はいとも簡単に世俗組織に取り込まれてしまう。そんな世間に擦れてしまいそうになる自分を救うのは、信仰以外にはない。繰り返すが、信仰とは宗教ではない。信仰は信念という言葉と近い。人は自らの心にだけは嘘をつけない。自らの心だけが本当の答えを知っている。
 信仰は倫理や大義という言葉とも近しい。倫理や大義は共同体の中で醸成され、先人から受け継ぐ貴重な遺産である。その遺産は社会に働きかけるきっかけとなると同時に、社会から個人の心に働きかけるきっかけともなる。社会とは、自分の外側にあるものではない。自分は社会の一部分であると同時に、社会は自分の一部分なのである。

山本七平『現人神の創作者たち』について

 山崎闇斎を嚆矢とする崎門の思想の一つに湯武放伐論の否定がある。湯武放伐論とは、無能で暗愚な君主を天下のために討ち、次の君主になることである。崎門はこれを否定したと聞くと、「なるほど、どんな暗君でも絶対的に従うことを要求した思想なのだな」とわかった気になってしまう。だが、本当にそうなのだろうか。

 よく、「君君たらずとも臣臣たれ」という。「君主は君主らしからずとも臣下は臣下らしくあれ」ということである。この「臣下らしい」とはいったいどういう態度を指すのだろうか。

 崎門の中でも有名な浅見絅斎は『靖献遺言』で忠誠の模範たる人物を支那の歴史から選び、伝記や遺文などを紹介したが、そこで取り上げられている人物はいずれも悲劇的な状況下におかれても節義を貫いた人物が選ばれている。人物の多くが正統でない王に使えることを拒み、虐殺されたり戦死したりしている。それは「宗教的な心情に通ずる」(尾藤正英)ものであったし、「殉教」(山本七平)的性格を持った。君主個人への忠というよりは、「君臣の忠義」という思想に殉じる態度を求めたのである。つまり「彼(浅見絅斎)は、まず個人の変革をすなわち崎門学という疑似宗教への帰依とそれによる回心を求めた」(山本七平)。その点から見れば「湯武放伐論の否定」はもう少し抽象的な理解ができる。人間が肉体を持ち、欲がある限り、力を持つ者、勢いのあるものへの追従がしたくなる自分が出てくる。そうした人間のエゴイズムを見つめるからこそ、かえってそれに屈せず義を貫いた人間への称揚がある。湯武放伐は歴史の現実である。万世一系のわが国体でさえ、院政期など皇室の秩序が乱れたときにはその存亡を危うくした。そうした歴史の現実を見つめるからこそ、にもかかわらず万世一系を貫いているわが国体への誇りが生まれるのである。

 ところで先ほど引用した山本七平は崎門学を「疑似宗教」と呼んだようにかなり突き放した見方をする論客である。その反面山本の『現人神の創作者たち』に代表される国体思想への執拗な関心もまた特徴である。氏はそれを戦争中の体験からであると動機づけている。『現人神の創作者たち』では、山崎闇斎を内村鑑三になぞらえている。思想に殉じる態度、批判者への舌鋒鋭い攻撃などからそう例えたのであるが、実は山本は内村鑑三の流れをくむ人間なのである。それに気づいたとき、この本の違った性格が見えた気がした。

 山本は『靖献遺言』を聖書になぞらえている(山本七平ライブラリー版137頁)。聖書も靖献遺言も、ともに残された生者が自分の意志で変更できない絶対的規範として人々に働きかけるものとして解釈している。
 繰り返すが山本のこの本は終始崎門を突き放した態度で見ている。その同じ人間が自ら信じる聖書と自ら批判する『靖献遺言』を同じ構造だと論じているのである。ここに氏の複雑な心理を見たような気がしたのである。

 ちなみに山本は『靖献遺言』に出てくる義士を、「中国人は(中略)政治に救済を求める。それゆえに政治に殉教できる。しかし日本人は決してそうではない」(『静かなる細き声』山本七平ライブラリー版148頁)と書いている。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。「決して」とまで言い得るかはともかくとして、日本人は政治思想に絶対性を認めづらい。政治思想に殉じる態度が始まったのは江戸、幕末頃からではないかという感覚は確かにある。時折浅見絅斎は『靖献遺言』を幕府の追及をかわすために日本人ではなく支那人の伝で書いたのだ、と言われる。本当だろうか。そういう態度こそ絅斎の戒める態度ではないだろうか。幕府がそれにより獄につないだり殺そうとするならば、自らの所信を述べて堂々と殺されることこそが崎門の教えらしい態度ではないだろうか。わたしはおそらく絅斎は日本人よりも支那人のほうが義士が見つけやすかったからそうしたのであって、それ以上の意図はないのではないかと思っている。

 相変わらず余談ばかりでまとまりのない記事となってしまったが、崎門についてはわからないことばかりである。だがわかるまで待っていると一生書かなくなってしまうと思いとりあえず今わたしが考えていることについて記しておきたいと思い書いた。

「旧皇族の子孫」という女系的存在

 折本龍則氏が「崎門学報」の中で「時論」として皇位継承について書かれている。その記事はこちらから見ることができる。わたしも皇位継承についてはこのブログで何度か書いたことがあった。折本氏に触発され、わたしも皇位継承について書いてみようと思う。

 まずわたしの意見と折本氏の意見の相違点を整理しておく。

同じ点
・安倍内閣がわが国の宰相として皇位継承の問題に方策を講じないのは怠慢の極みである。
・現状のままでは皇位継承は大変危機的状況にある。
・わが国は有史以来男系の皇室によって継承されてきており、女系に皇位継承範囲を広げるべきではない。

違う点
・戦後臣籍降下した11宮家を皇籍に復帰、場合によっては養子に迎えることで皇位継承させるべき。
 ⇒あってはならないことである。

 同じ点は重複するので説明するつもりはない。違う点だけ述べておきたいと思う。

 もっともこの問題はいくつかの事項を指摘するだけで了解しうることである。
1.戦前の典範においても「旧皇族」は臣籍降下されることが決まっていた。
2.「旧皇族」でご存命の方はいらっしゃらない。皇位継承の議論で取り上げられているのは「旧皇族の子孫」である。
3.「旧皇族」よりも今上陛下に男系として血統が近い方がいる。
4.3.により「旧皇族」が皇位継承者になりうると考えるのは「旧皇族」が明治天皇と母系でつながっているということを根拠とした女系的発想である(したがって女系論者こそ「旧皇族」の皇位継承を主張するのが自然である)。

 1.2.はよく指摘される事項なので、3.と4.を解説したい。
 3.の「旧皇族」よりも現皇室に男系として近い人物。それは近衛家などである。戦国時代~江戸初期に天皇家から養子に行っているのである。「皇族に養子を迎える」ことを主張するならば「皇室から養子に行った方」も考えなければならないだろう。まさか近衛家に皇位継承資格があるなどとは言うまい。そうするとなぜ近衛家でなく「旧皇族の子孫」が対象となるのだろう。わたしには「母方が明治天皇に繋がっているから」という理由しか思い浮かばないのである。これは立派な女系継承ではないだろうか。
 もっと言おう。「旧皇族の子孫」に皇位継承資格があるというのならなぜ細川護熙氏には皇位継承資格はないのだろうか。それともあるとお考えなのだろうか。細川家は源氏の家柄で、平安時代にまで遡れば皇室につながる家柄である。なぜ室町時代はよくて平安時代はダメなのか? 武田信玄に皇位継承資格はあったのか? 吉良上野介や今川家、島津家にはあるのか? 蘇我氏は武内宿禰の子孫とも言われるが、皇位継承資格はあったのか?(現代の歴史学では怪しいと言われているが) 小野妹子は敏達天皇の皇胤だとか孝昭天皇の子孫とも言われるが、皇位継承資格はあったのか? そしてなによりも、足利高氏や足利義満に皇位継承資格はあったのか? 大げさな言い方をすれば、これは日本史の破壊ではないだろうか。意外にも「男系男子」というだけでは皇位継承候補者は日本史上にあまりにも多いのである。

 わたしは公にするかしないかはともかく、現皇族に側室を持ってもらうことでしか行為の安定継承は成し得ないと考えている。

 なお、皇位継承について陛下のご聖断を仰ぐべきという意見があるが、臣下の間で議論百出して煮詰まったうえで陛下にご聖断を仰ぐというのであれば賛成であるが、大した議論もせず陛下に決めて戴こうというのであれば、これは臣下たる者の責任の放棄ではないかと思う。

伝統という革新

 伝統とは、先例を守る心とか、旧来のものをひたすら墨守する心情とは全く違うものを秘めている。むしろ伝統は時代の変化や外国の思想すらも受容していく力を持っている。例えば蓑田胸喜は日本が仏教や儒教を受け入れてきた歴史を積極的に認めつつ、それは外来思想を日本思想が吸収・消化し自らのものとしたと捉え、肯定する立場を取った。これは明治二十年代の国粋主義ともまったく同じ論理構造である。

 伝統とは解釈であり、原点回帰であると言える。それを促すのであれば、外来思想も時代の変化も恐るるに足りない。蓑田は外来思想を受け入れるというからには受け入れる方(=日本人)に主体性がなければならず、したがって外来思想の受け入れは、日本人の自覚と日本思想を見出そうとする研鑽なしには到底できようがない、という立場を取った。即ち外来思想の受け入れと自国文化への目覚めは同時並行で訪れなければならないのだ。伝統の自覚と革新が同時並行で起こる所以はそこにある。

 そもそも物事は言葉を通じて理解される。即ち新たな事象も言葉を通じて人々に広められ、理解される。新たな事象も日本語で解釈される限り、それまであった日本語の語彙に少なからぬ影響を受けるのである。こうしてもともとの日本語にあった意味や感性に引きずられながら新たな思想を捉えていくため、伝統は革新と同居するのである。

 もちろん伝統は過去の原点を尊重する立場だから、継続性を重んじる立場でもある。変えまいと頑強に抵抗してそれでも変わっていくものこそ、時の流れでやむを得ないものと言えることは疑いない。しかし抽象観念はこの図式が全く生きないのである。したがって先に述べたように、伝統は革新と同時並行で語られなければならないし、そうでなければただの外国の先兵にしかなっていないということになってしまう。

 それゆえに不思議な現象も起こる。例えば浅野晃などの一派は、戦前共産党内部の勢力争いに敗れて転向するが、彼らは日本の土着性に興味を持ち、柳田国男に教えを乞うまでに至っている。しかも彼らは、戦前あのマルクスやらレーニンやらの引用ばかりで文書を組み立てたと悪名高い、福本和夫の一派だったのである。その頭目であった福本自身も、戦後は伝統的捕鯨の研究などに打ち込むことになるのである。この不可思議な現象をどう解釈したらいいのだろう。分かりやすい説明をつけられないことはない。講座派と労農派に分かれた戦前共産主義の内、彼らは講座派にあった。講座派とは日本はブルジョア革命も経ておらず明治維新によって日本は半封建的な特殊状態に陥っているという「日本特殊説」の立場だから意外に民俗学などと馬が合うのだろうと語れなくもない。だがわたしはこの説明には説得力がないと思う。労農派は労農派で支那事変のときに歓喜して転向するようなこともあったり、必ずしもこの図式的な思想理解が当てはまらないこともあるし、何より人の心をそのようなわかりやすい紋切型で片づけてしまえないような気がしてならないからだ。

 話がそれた。歴史を通して物事を理解しようとする立場(=伝統)はある面で決定的に遅れている。だが彼らは遅れているようでいて「言葉」を通して概念そのものに立ち向かっているのである。彼らはもっとも伝統的であると同時にもっとも革新的である。抽象理念と言う先例墨守が通用しないものに対しては、伝統的でありかつ革新的であるという態度を身に着けることでそれを日本史の中に位置づけてきたのである。

価値観外交という薄甘い世界観

 本日は坦々塾新年会に出席させていただきました。二次会で一言発言する機会を戴いたので以下にその内容を記します。
 実際はもっと拙いものでしたがこういうことが言いたかった、ということでご容赦いただければと存じます。

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 わたしは戦後70年の安倍談話に違和感がある個所がありまして、違和感だらけなんですが、本日のシンポジウムで登壇者がご指摘されなかった部分について述べたいと思います。以下その違和感のある個所について読み上げます。

 私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携え

 と書かれているのです。

 外交は自由、民主主義、人権などという薄っぺらな価値観で決まるものではなく、国際情勢や国益など、さまざまなことを総合的に判断して決められるべきものであります。もちろん不自由ではない方がいいでしょうし、独裁者なんかいない方が良い。自国民を迫害する政権など論外であります。しかしその程度のことを外交的価値観として、しかも普遍的なものとして打ち出すことに大変強い違和感を覚えます。

 この論理構造、どこかで見たことあるなと思ったら、日本国憲法前文に「政治道徳の法則は普遍的なものであって」云々と書いてあるんです。これを見ても、わたしは安倍談話は戦後レジームの克服に何ら寄与していないと思います。ゆえに支持できるものではないと考えます。

――――

 「自由、民主主義、人権」とか「法の支配」等を普遍的な価値観とみなす価値観外交というのはアメリカのネオコンが生み出した概念だと言われる。それに安倍や麻生といった自民党の主要政治家が共鳴したのだと言われる。それはその通りであろう。だが同時に東京裁判史観や日本国憲法を押し付けた世界観とも不思議と共鳴することも忘れてはならないのではないか。安倍談話ではそれを「国際秩序への挑戦者となってしまった過去」と、戦前にまで当てはめているのである。全く噴飯物の歴史観である。と同時に価値観外交は、利害関係や謀略渦巻く国際政治のどろどろした部分を何も見つめていない。ただ、「自由、民主主義、人権」を共有する国と手を携えましょう。それで世界平和が成し遂げられるのですという全くのお花畑的世界観に貫かれていることも指摘しておかなくてはならない。

 安倍総理は安倍談話の最後を「終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。」と結んでいる。「そのような日本」とはどのような日本か。どう読んでも安倍総理は「「自由、民主主義、人権」の価値観を共有する国と手を携えることで世界平和に貢献する日本」を思い描いているとしか読めないのである。このような子供でも信じないようなことを平然と言える総理大臣で日本は大丈夫なのだろうか。外交上の深謀遠慮があるのかもしれない。それはわたしにはわからない。だが、それにしてもこのような近代的価値観に対する疑いの念が全くない世界観はあまりにも軽薄で、到底承服できるものではないのである。

テロとホームグロウン

 今、東洋・西洋をおおう世界史的動揺は、イスラム過激派がもたらしたものである。彼らは各地でテロ事件を起こし、世を騒がせている。しかも最近では、テロを起こす張本人はイスラム過激派の本拠地である中東世界から来たのではない。ホームグロウンと呼ばれる、移民の子孫がテロを起こしているのである。彼らを単純な過激派とみなすのは物事の表層しか見ない態度である。彼ら移民の子孫をイスラム過激思想に結びつけるものへの考察が必要だろう。

わたしはイスラム過激派に賛同する者ではない。彼らは取り締まられるよりないだろう。だが一方で「テロとの戦い」だと無条件にイスラム過激派を悪とみなす人間にも違和感を感じる。イスラム過激派が処罰されることを認めるためには、以下の三条件を認めることが不可欠ではないだろうか。

 一つ目は欧州の近代化以来の帝国主義による植民地争いが問題の出発点であることを認めることである。中東からアフリカにかけて、欧州の植民地争いにより歴史や文化と無関係に国境線が引かれることになった。それに伴う紛争の歴史はこの地域に大きな混迷をもたらしたことを認めなくてはならない。それが中東から北アフリカに至るまでを紛争の火薬庫とさせているのである。
 二つ目はグローバリズム、資本主義がホームグロウンによるテロをもたらした根本原因であることを認めることである。移民の子孫が自国社会に適応できず疎外され、低賃金労働につかざるを得なくなっている。移民一世では本国よりは生活状態が良くなることや、本国への仕送りの使命感から労働に甘んじることができるが、二世以降はそうではない。言葉もセミリンガル化し高度な事象を理解することは難しく、将来の展望もない彼らが過激思想に染まることも不思議とすべきではないのである。もちろん外国人が即犯罪者であるかのような偏見は慎むべきなのであろうが、それは問題の根本原因をおおい隠すことになってはならない。
 三つめは、わが国に限って言えば、戦後の対米従属体質、特にイラク戦争以後の対米隷属的外交により、わが国も世界に混迷をもたらした張本人となってしまったということを認め、深刻な反省をすることである。アメリカの外交に唯々諾々と従ってきたことで、わが国はフセイン、アルカイダ、ISISと過激化する一方の中東情勢に火をつけた当事者となったのだ。

 資本主義の発達はグローバリズムをもたらしたが、このグローバリズムは人々を故郷喪失の憂き目にあわせた。それは移民により故郷から引きはがされた人々を指すのはもちろん、資本主義的開発で故郷が様変わりし、すっかり民族の面影を破壊されてしまったことをも示す。祖国の共同体が機能しなくなってきたことが、資本主義即ちグローバリズムがもたらした負の側面である。ホームグロウンの問題はその極端な事例として注目されるべきであろう。

 移民も定着してしまえば、低賃金労働を生まれながらに押し付けられなければならない理由を持たない。その不満にテロ組織が忍び寄り、心の隙間を利用するのだ。大事なのはその「心の隙間」をもたらしている資本主義、グローバリズムに対する疑念を持つことである。

 逆に考えれば移民の心の隙間に漬け込む過激派がもしいるならば、ことはイスラム過激派に限定されないということである。例えば今後、日本の支那人移民二世、三世が支那本国の反日思想に共鳴し、ホームグロウンテロを起したとしたら…。たびたび言うが、外国人への単純な偏見は慎むべきである。だが、同時に根本原因が解決されないのならばそういったことも起こる可能性があるのではないか。もちろんこれはわたしの妄想であることを願ってはいるが…。

 根本原因に目を向けることなく、目先の武力によりテロ組織を壊滅させるだけでは何の解決にもならない。「テロとの戦い」を叫ぶ前に、「なぜ彼らがテロに走ったか」、思いをはせるべきではないだろうか。

社会に潜む暴力と大義の希求

 野村秋介は『さらば群青』で次のように語っている。

 私は沁々思うのだが、明日の命を保障されている人など一人もいない。「一日一生」という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。
 戦後日本人は、「死」や「暴力」といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。
 人間は「死」とは無縁であり得ない。社会は「暴力」と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落していく。(はじめに)

  現代の日本はおそらく物質的には史上最も満たされている時代であろう。にもかかわらず、あるいはだからこそ、何か薄皮をまとった閉塞感が人々の心を覆ってやまない。右肩上がりの時代は終わりを告げ、成熟へと歩き始めた日本社会だが、歩き始めてふと、成熟とは何かまるで分らないことに初めて気づいたような、そんな心境であろう。そして何より、今の日本社会を回している「秩序」は、右肩上がりの時代に作り上げられたものだ。果たしてこの秩序というものを追究せずして、日本は未来に歩みを進めることができるだろうか。秩序のもつ便利さと恐ろしさを、もう一度見直す必要があるのではないだろうか。

 秩序とは暴力である。もちろん暴力とは警察とか軍隊といったことだけではない。数の力やカネの力、世俗的権威、あらゆる力がわれわれを抑圧すると同時に、われわれを守っている。そうやって組織と付き合いながら、人々は今の社会生活を送っている。われわれは社会の一部であるが、同時に社会はわれわれの一部でもある。

 戦後、経済発展し、日本は確かに豊かになった。だが、豊かになり、社会が複雑化すればするほど、わかりやすい悪辣な権力者が目の前に見えるわけではなくなったにもかかわらず、何かに支配され身動きできない情況が続いている。われわれはその中で、自らの命を超えた大いなるものへの一体感を失い続け、自意識は卑小な小市民の感情に収斂されるばかりである。

 我々は見失いかけている大義に思いをはせるべきである。

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 下(終)

第二部 陸羯南にとっての「国際」

 人はその国、その土地に根付かなければ決して信用を得られない。「親米保守」は冷戦の崩壊とともにその存在意義を失った。今後求められるのは佐藤優が言うところの「親日保守」であり、それは自国の伝統や文化を重んじ、自国の国益を主張するというごく当たり前の態度である。なぜそれが当たり前の態度か。国際社会は力により物事が決定していくからである。武力や経済力、国際社会での発言力が物事を左右するのは、帝国主義時代も今も全く変わるものではない。力こそが国際社会の標語である。

 国際化するとは、決して自国をグローバルスタンダードに合わせるということではない。国際化とは自国の概念を他国に広げることを指す。国際化とは、何か普遍的なルールを共有するということではない。強国のルールを受け入れること、あるいは自国が強国となり、国際社会に自国のやり方を強制していく、そんな力と力のやり取りのことである(佐伯啓思『従属国家論』57~60頁)。このような正しい意味での「国際」関係を理解していた人物に陸羯南がいる。
 陸羯南は『国際論』で、日本の国家目的を欧米の侵略を止めさせることに置いた。陸の国際認識は『国際論』に言い尽くされている。陸は世界史を力による侵略、非侵略の歴史と見做し、侵略がどのようにして行われるかを詳細に論じた。それによれば、侵略は外交に対し憧れのような感情を持たせることから始まり、次に経済的に依存させ、最後には領土を奪うのだという。ただし近年の侵略は領土まで欲するものは少なくなっているといったことまで触れている。そのうえで日本がどう対抗するかといえば、まずは自国の使命を自覚することだという。日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だといっている。
 ここでは国際関係を非常に現実的にとらえる陸の目が感じられる。国際社会を現実的な力関係で捉えるのはそう珍しい意見ではない。だがそうした論客はたいてい日本が生き残るためには、「強いものに付け」という態度に出ることが多いように思われる。しかし陸はそうではなかった。ここに陸の凄味があるように思われる。そしてだからこそ陸は欧米に与せず、アジアの側に立ったのであった。
 国際社会が力関係で動くということを認めるということは、必ずしも強国への従属につながるわけではない。強国への無思慮な追従こそ属国化を招くものだという言い分も充分成り立つからである。侵略は敵国からだけなされるのではない。同盟国が同盟をたてに侵略することなど日常茶飯事である。同盟とは作戦の共有であって、運命共同体ではないからだ。

 長谷川三千子の『正義の喪失』(PHP文庫)の中に「難病としての外国交際―『文明論之概略』考―」という論文がある。長谷川に限らず日本の多くの論客は福沢諭吉を引用し、考察したがる癖があり、私は内心それに辟易している。外国交際について語るのであればぜひ陸を基に論じるべきであったと惜しむ者であるが、それはこの論文の価値をいささかも減ずるものではない。

 長谷川は『文明論之概略』に「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着とが同居してゐる」(113頁)という。それは西欧的国家システムに否応なく入り込まざるを得なかったということを、いかに「自主的な加入に転化できるか」であるという(116頁)。外国交際は「商売と戦争の世の中」であり、それは西洋人が我利我利亡者であるからそうなったのではなく、近代国家的なシステムが人々をそのような方向に駆り立てるからである。それは土着的産業を近代産業に根こそぎ変革してしまわねば到底生き残れないような代物であり、しかもそれに適用するような人心の変革を必然的に求めるものであった(126頁)。そしてそのことに対して福沢は「無頓着」にも何の批判もなそうとしないのである。だから福沢は和魂洋才の説などには見向きもしない。そのような生易しい変革では到底生き残れないと考えていたという(131頁)。福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立て、上っ面の「西洋化」ではなく人心に至るまでの「文明化」を主張したのである。

 長谷川が福沢諭吉に感じた「この上なく正確で鋭い状況の認識と、信じ難いほどの野放図な無頓着」はむしろ陸羯南においてより深い分裂となって表れている。陸もまた日本が国際社会で生き残るために、西洋的国家システムへの参与を推進せざるを得なかった。しかし陸は福沢のように「人心に至るまで完全に文明化すればいいんだ」と開き直るわけにはいかなかった。陸は日本の国粋を顕彰する信念を持っていたからだ。陸は「国際論」の中である二つのキーワードを使うことでこの矛盾を全く解消させてしまっている。そしてそれは福沢の議論が持つある陥穽をも突く内容となっているのである。その二つのキーワードとは、「国民精神の競争」と「日本の使命」である。

 福沢は国際競争を軍事力と経済力の競争であり、それを支えるのが文明化であると主張していたが、陸は異なる。陸は国際競争とは軍事力や経済力の競争ではなく、国民精神の競争であると位置づけることでまず日本の独自性を維持したのである。そもそも陸が指摘しているように、国際競争がもし軍事力や経済力、文明化の競争であるならば、日本が一国を保つ意義が失われてしまうのである。福沢はそのことを「痩せ我慢」、「偏波心」としか位置づけられていない。そうではない。国際競争とは国民精神の競争なのであり、だからこそ日本人は「自国を守り抜くという国民精神」を強くもって国際競争に臨まなければならないのである。そうでない国は、欧米に飲み込まれて滅ぼされてしまう。
 福沢は世界を文明、半開、野蛮の三層に見立てているが、陸も世界を三層に見立てている。トリビュ、エター、ナシイヨンの三層であり、それを分ける境界は、(文明化ではなく)国民精神の強さなのだという。陸は西洋を国民精神の強い国であるとみなすことで日本の国民精神の発揚を称えた。ここに陸の屈折がある。

 陸は、人に使命があるように、国にも使命がある。自らの国に使命があることを知れば、皆で知恵を出し合い、生き残ることができると主張した。先ほども述べたように、日本の使命は「六合を兼ねて八紘を掩う」ことにあり、世界に公道をもたらし弱肉強食の国際関係を止めさせることにある、という。国際法は所詮欧米が決めた、欧米に有利なルールに他ならないが、先の日本の使命から国際法に東洋の立場も盛り込ませることが重要だと述べている。つまり日本の近代化=文明化は決して西洋に倣うために行うのではなく、西洋の弱肉強食策を改めさせるために行う日本の使命なのだ、と位置付けたのである。これは維新の際に言われた「大攘夷」の発想と言ってよかろう。
 この「大攘夷」は「自らが行っている文明化は決して西洋化ではなく、攘夷なのだ」と無頓着に目をつぶらなければ到底成し得るものではない。表面上はやはり西洋化に他ならないからだ。しかし「西洋化しなければ生き残れない」という絶望の中から生まれた精神とも言えよう。日本のルールを世界に認めさせるには、まず日本が西洋のルールに倣わなければならない。しかしそれは西洋のルールを改めさせることが日本の使命なのだ。そう見なすことで陸は日本が国際社会にこぎ出でることを正当化している。それは日本の先例を墨守しようという態度ではない。「和魂洋才」とも異なる。「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」に近い。

結論

 陸羯南は「西洋化しているにもかかわらず、西洋化を頑として認めない態度」によって国粋主義を主張した。それは西洋化しなければ生き残れなかった当時の日本の世相と、「日本固有の元気」を保持、顕彰していこうという国粋主義の理想がぶつかった挙句生まれてきた概念である。結果として陸は西洋に対抗すべき「日本」を見出すというよりは「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって唱える」と言う態度に出たのであった。それは西洋に対抗すべき「日本」が見出せなかった、あるいは否応なしに西洋化するしかなかったからである。陸をはじめとする国粋主義者の屈折は、明治日本の屈折でもある。

(了)

陸羯南論―「自由」と「国際」に潜む絶望― 上

第一部 陸羯南にとっての「自由」

 明治維新により、過去の政治体制が崩壊した時、政治思想もまた混迷の中に投げ込まれた。如何なる政治倫理を以て政治および経済を位置付けるか、明治期にはそれが問われていたのである。特に、「日本」を見直そうという国粋主義者にとって、その問いが重かったことは容易に想像できる。政治体制は既に変革され、政治倫理も今までと同じではいられない。だがそれは西洋から流入してくる近代政治思想を無条件に受け入れればよいというものではなかった。近代西洋思想が耶蘇教と切り離して考えることはできないものであるからこそ、やはり日本流の「答え」を必要としたのである。
 明治維新とは日本の資本主義化だったといってもよい。それを支える「自由」という思想をいかなる理由で裏付けていくか。その役割を担った一人に、陸羯南がいる。
 陸羯南は明治二十年代の国粋主義の流れの中心人物の一人である。明治二十年代の国粋主義とは、文明開化の風潮に反発し、日本は日本の美質を育成、発展させていけばよい、というものであった。こうした風潮の中で、富士山(志賀重昂)や忠臣蔵(福本日南)、仏教美術(岡倉天心)、日本画(岡倉天心・狩野芳崖)、短歌や俳句(正岡子規)などが見直されることになった。だが、陸がいつの間にか受け持つことになった政治思想の分野では、対抗すべき「日本」というものが、先ほどの事情によりあてにならないものであった。陸はこの困難な命題を如何に対し如何なる答えを出したのであろうか。
 そもそも西洋文明を受け入れるということは、西洋文化を受け入れるということであった。「和魂洋才」などという器用なまねはできるはずもなかった。いや、蒸気機関車やガス灯といったことならできたかもしれない。だが、陸が対峙したのは「自由」という「洋魂」であった。「和魂をもつて洋魂をとらへようとして、はじめて日本の近代化は軌道に乗りうる」(福田恆存「伝統に対する心構」『保守とは何か』文春学芸ライブラリー版、205頁)のだとすれば、それをしようとした人物は、私には陸羯南をその筆頭に挙げなければならないように思えてならないのである。
 日本は、帝国主義で生き残るために近代思想を経なければならなかった。だが、安易に近代思想を導入してしまえば、日本の伝統が破壊される。しかも、先例などほぼないのである。
三宅雪嶺の『真善美日本人』は、「日本人とは何ぞや。これ何らの問いぞ。問う者すでに日本人たり」という印象的な一文で始まる。「日本人とは何ぞや。日本の人なり。日本の人とは何ぞや。吾れ答ふる所以を知る、吾れ答ふる所以を忘る。日本人、日本の人、黙して想へば其の意義ありありとして幻像のごとく眼前にちらつけども、口を開けば忽焉として影を失ふ」(『日本の名著 陸羯南 三宅雪嶺』287頁)。日本人とは何か、それは自明なようであるが、いざ説明しようとするとうまく表現できない。そんな戸惑いに似た感覚をまず表明するのである。その中で、三宅は日本人とは単に日本国籍を持つ人と言うだけではなく、長い「日本」と言う国家の歴史の一分子たることを以て「日本人」であると規定していくのであるが、そもそもその「日本の歴史」そのものが自意識たりうるのかが問われなければならなかった。なぜなら日本はすでに「文明開化」という大きな思考的屈折を経ていたからである。三宅がそれに気づいていなかったはずがない。だがそれを問うてしまうと、やはり「吾れ答ふる所以を忘る」しかないのである。あるいは、志賀重昂が「『日本人』が懐抱する処の旨義を告白す」で、「西洋の開化を悉く是れ根抜して日本国土に移植せんとするも、此植物は能く日本国土の囲外物と化学的反応とに風化して、太だ成長発達し得べき乎」という疑問をぶつけたうえで、「日本の国粋を能ふ丈け成長発育せしむるの太だ経済的なるに若かざるなり」と主張した(『近代日本思想体系31 明治思想集Ⅱ』8~9頁)ように、海外のものをそのまま移植してもうまくいくものではない。それよりも海外の事例を参考にしつつ日本の良いところを伸ばすべきだ、というある意味楽天的な主張なのである。
 そもそも日本は弥生時代に稲作や鉄器・青銅器の活用など大陸から怒涛のような文明を受け入れている。仏教や儒教もそうであるし、後述するように漢字もまたその文明の一環であった。だがそれらを巧みに「日本化」していった。例えば蓑田胸喜などはその「日本化」を高く評価したうえで、他国の文明を受け入れるには、受け入れる側にも主体性がなければならないと考え、「日本」と言う主体を考えることになるのだが、そこには海外の文明も日本に合うような形で受け入れることができるというある種の楽天性が付きまとっている。それは陸も含めたすべての国粋主義者に共通した傾向であり、そうでなければ日本が古代に大陸文明を受け入れたことや、明治期に西洋文明を受け入れた歴史を到底正当化できなかったであろう。
だが私はここでこの志賀や蓑田の「楽天的」な発想は本当に楽天的だったのか、という大きな疑問にぶつかる。大陸文明や西洋文明は、日本が望んで受け入れたわけではない。当時の情勢から受け入れざるを得なかったに過ぎない。それを自覚してもなお、海外の文明を「日本化」したのだと主張することが、本当に「楽天的」な発想から生まれるのであろうか。
 その答えを出す補助線となるのが、長谷川三千子『からごころ』だろう。長谷川はいきなり「何故かうも「日本的なるもの」は気を滅入らせるのであらうか? どうして自分は生まれ故郷である「日本」という国にいつまでたつても馴染めないのであらうか?」という疑問をぶつける(中公叢書版3頁)。そして、「「日本的なるもの」をどこまでも追求してゆかうとすると、もう少しで追いつめる、といふ瞬間、ふつとすべてが消えてしまふ。我々本来の在り方を損ふ不純物をあくまで取り除き、純粋な「日本人であること」を発掘しようと掘り下げてゐて、ふと気が付くと、「日本人であること」は、その取り除いたゴミの山のほうにうもれてゐる」(同8頁)のだと言う。「自分は「日本人であること」といふこの根本の事実にしっかりと目をすゑて生きよう、と決意する。と、まさにその決意そのものによつて、その人は知らぬ間に「日本人であること」から逸脱してしまふのである」(同19頁)。長谷川はこうした日本人の思想的特徴を、漢字を受け入れたことに求める。漢字を受け入れたということは当時の中華文明と言う「異言語による支配」を受ける恐れがあったことに他ならないが、それを徹底的に拒絶して国が保てるはずもなかった。日本人は「訓読」を発明することで、かろうじてこの文化的危機から脱したのだという。しかしそれには、「いやしくも漢字で書かれたものはすべて中国語である」という原則を無視することによって成り立っている。「漢心は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけてゐるのは、自分が知らず知らずの内に、外国崇拝に陥つてゐるといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである」(同53頁)と言う。同様に、明治の「文明開化」の時代にも、欧化政策なのではなく文明を学ぶのだ、と信じ込むことによって危機の脱出に成功したのだと言う。それは「西欧化」ではなく「文明化」だと文化の国境を見ないことで成り立ったのだ。だとすればひたすら「文明化」を主張した福沢諭吉のような人間と、国粋主義者は同じということになってしまうのだろうか。陸羯南のように、生き残るための「文明開化」が一応一段落した時期に日本の国粋主義を主導した人間が、いかなる理屈で「文明」を正当化し、批判したのであろうか。

 福沢諭吉は『文明論之概略』で、文明を「人の精神発達」(岩波文庫版9頁)と捉え、決してそれを地縁によるものであるとは認めなかった。陸の『自由主義如何』もまた、その論理の中にある。両者の違いは、福沢が漢学や国学を馬鹿にするところがあったのに対して、陸はそうではなかったということだろう。というのも、文明を人間の精神の発達と捉える議論は、儒学や国学の中にも明白に見出せるからであろう。
 余談ながら少し『文明論之概略』について語ろう。福沢も漢学や国学を馬鹿にして一掃してやろうと思っていた。にも関わらず、『文明論之概略』の読者層を五十歳以上で視力が衰えた人間を想定し、太平記などと同様の体裁に印刷したという(『文明論之概略』岩波文庫版297頁、富田正文による後記より)。漢学や国学で自己の思想形成をした層に向けて書かれたのが『文明論之概略』だというのだ。これは「儒学や国学なんか学んできた憐れな連中に文明とは何かを教えてやろう」という福沢の尊大な風を感じなくもないが、洋学に凝り固まり、何事も西洋風をまねようとする人間を「開化先生」と揶揄してやまなかった福沢にしてみれば、開化先生のような救いがたい愚か者よりは、漢学や国学を純朴に学んだ世代のほうがまだ救いがあると考えていたのかもしれない。

 陸は「自由主義如何」で以下のように書いている。
 「日本における自由主義は吾輩その起源を探るに難からず。明治維新の大改革は啻に封建制の破壊のみならず、また啻に王権制の回復のみならず、この改革は実に日本人民をして擅圧制の内より脱して自由制の下に移らしめたり。即ち維新の改革は日本における自由主義の発生と言うも不可あらず。しからば自由主義は福沢先生の『西洋事情』より出たるにもあらず。中村先生の『自由之理』より来たれるにもあらず。当時洋学者の機関たる『明六雑誌』によりて現らわれたるにもあらず。征韓論を名として袂を払いたる民選議員の建白書によりて生出したるにもあらず。これらの事実は自由主義の誘導者たりしに相違なしといえども、日本の自由主義は維新の改革に先立ち早く既に日本有識者の脳裏に感染したるや明らかなり。ああ自由主義、汝は日本魂の再振と共に日本帝国に発生せしにあらざるか。日本の有識者は欧米人の来航に当り、早くも既に日本国の独立及び振興を策したり。日本の愛国心即ち日本魂は大八洲の威武名誉を海外に輝かさんと欲し、その籌策を探りてついに最も剴切かつ公平なる良謀を発見し得たり。国家権力の統一と個人智能の発達とは、日本の独立に已むべからざるの大政義なりし。日本魂を有するの識者はみなこれを認めて維新の大改革を成就せしめ、しかして自由主義は日本に発動を始めたり」(岩波文庫版『近時政論考』90~91頁)。日本の自由主義は、福沢諭吉がもたらしたのでもなく、中村敬宇(正直)でもなく、明六雑誌でもなく、維新志士の行動によるのだという。自分の国の進路を自分で決める、これが自由主義なのだと言うのだ。
 これは吉田松陰に通じるものがある。松陰は佐久間象山の甥に書簡でこう語っている。「独立不羈三千年来の大日本、一朝人の羈縛を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーへード(自由)を唱へねば腹悶医し難し」(奈良本辰也編『吉田松陰著作選』421頁)。三千年もの間独立を保ってきた日本が外国人に縛られる様子は見るに忍びない。ナポレオンのようにクーデターを起こして自由を唱えなければ腹中の悶々とした思いは癒せそうにない、と言った意味だろう。松陰が自ら起すべき行動をナポレオンになぞらえるなどとても新鮮だが、陸の自由主義論もこの松陰の考えの延長線上にいることは理解できよう。陸には松陰の弟子品川弥次郎との関係があった。谷干城や近衛篤麿との関係は公にされていたが、品川との関係は伏せられていた。品川との関係はむしろ谷などより古く、重要な関係であったことが伺える。陸が品川からこの吉田松陰の書簡について教えられていたかどうかはわからないし、「自由主義如何」を書いたときに松陰が念頭にあったかどうかもわからないが、品川を通じて松陰の考えが陸に入ったことも考えられる。

 一方で陸は明治維新後、自由主義がはびこることで格差が開き、拝金主義的な堕落が起こったことをつぶさに見ていた。したがって陸は簡単に自らを「自由主義者」に任ずることはなかった。陸羯南は『自由主義如何』で、「しかれども吾輩は単に自由主義を奉ずる者にあらず、即ち自由主義は吾輩の単一なる神にあらざるなり。吾輩は或る点につきて自由主義を取るものなり。故に吾輩は自由主義もとよりこれに味方すべし。しかれども吾輩の眼中には干渉主義もあり、また進歩主義もあり、保守主義もあり、また平民主義もあり、貴族主義もあり、各々その適当の点に据え置きて吾輩は社交及び政治の問題を截断すべし」(岩波文庫版『近時政論考』103~104頁)と言う。これは恐ろしいほどの楽観である。プラグマティズムとも言えるのかもしれないが、要するにそれが日本人にとって有用であるならば、干渉でも自由でも何でもよろしいと言っているのである。だが、この恐ろしいまでの楽観は、猫の手も借りなければ日本は到底独立を維持できないという悲観のなかから生まれたものとも言える。
 「祖国の興隆に役に立つならどんな思想だって共存して唱える」と言う態度は無節操とは異なる。「良い」と評価する人間(=羯南)がおり、その評価軸を「祖国の興隆」においていることを明言しているからである。

(続く)

『絶望的楽観主義ニッポン』より

 野坂昭如が亡くなった。深い思い入れがあった作家ではなかったが、亡くなったとの報道を目にしたとき、ふと『絶望的楽観主義ニッポン』を読んでいたことを思い出した。以下そこからの抜き書きである。

 「タブーのない世の中は自由で、生き易いかもしれないが、「原罪」について思うことのない者が、タブーを失えば、結局、自分の生を何に確かめていいか判らない。自分という存在そのものが悪であるという考え方に、普遍性があるかないか、ぼくには判らないが、以前は、いちばん悪い形で、国家が、あれこれ規制を持ち出し、これに従順でなければ非国民と、決めつけた。それぞれが素直にかえりみれば、自分は非国民に近いと悩んだ。(中略)人間を超えた存在に対し畏れる気持が、どの民族にもある。そして、この根源的な罪の意識、畏れをあえて超えるものが、「恋」だった。(中略)「豊かな」文明とか称せられるかりそめの充足により、日本人は「恋」を失った。」(120~121頁)

 「アメリカの強制による米余り現象に、当初こそ、少し戸惑ったが、たちまち慣れてしまって、文明を摂り入れるのならけっこうだが、農、ひいては文化を殺した。日本の堕落は、このあたりから顕在化して来た。一方では高度成長、豊かな国めざして一直線、あげく、日本人の心は蝕まれた。拠って立つ基盤を失い、当節の荒廃の大本は、農、土の恵みをおろそかにしたことに因る。」(131頁)

 「日本に市場開放を求めながら、アメリカは、日本のミカン一個たりとも輸入を認めていない。かの地でさえジャンクフードとみなされている、ファーストフード屋が日本に氾濫、伝統的日本食は、今や、家庭から放逐されつつある。」(151頁)

 「国全体のレベルが低下、モラルが失せ、秩序が乱れ、ひいては国家の威信が問われるなどとはいわない。現大統領の、歴史上例をみない性的醜聞も、それほどのこともなくおさまる。ただ、ソ連崩壊、資本主義、民主社会、人権尊重の社会こそ正しかったと有頂天に、アメリカがなるのは自由だが、日本がこれに同調するいわれはない。
 今、並べた項目は、すべて上に「アメリカの」がつく。決して、そのまま世界に通用する普遍性を持つものではないし、ましてや、その掲げる理想まことにけっこうだが、「人権侵害」を理由に、他国への干渉は許されない。
 アメリカの唱える「人権」を尊重していたら、国民の大半が飢え死にしてしまう国だってある。「差別」をなくすべく強権を発動するなら、民族相争う事態だって興る。」(251頁)

 思想を多数決で考えたり、敵味方で考えると、得るものが少なくなる。本はその著者の言葉に向き合ってこそ深みが出る。西尾幹二は言う。「本の中に立ち止まって、それが自分に突き刺さってくるような経験をせよ。/自分の弱点を洗いざらい見抜かれて、背筋の寒くなるような体験をしながら本を読め。/あるいは逆に、まるで自分のことを語ってくれているみたいだと、自分の意を代弁してくれている著者の言葉に思わず喜びが込み上げてくるような読み方をせよ。/すなわち、どんな本でもいい、ともかく本の中の一語一語が自分に関わってくるような本とのつきあい方を身につけることが、まず何をおいても大切な人生の智恵の一つである。/自分がいないような読み方だけはしてはならない。」(『男子、一生の問題』220~221頁、/は改行)。

 反支那、反韓国だけではあまりにも底が浅すぎる。そんな予定調和のマンネリでは心が震えない。守ろうとする文化的価値、そしてあるべき政治の在り方を模索することこそ日本人であることに誇りを持つ人間の生き方ではないのか。自民党の応援団に過ぎない連中が多すぎる。自民党は保守政党である。ただし戦後日本を保守する存在である。アメリカに依存し、自国の価値観、主張を持たず、自由と民主主義は普遍的価値なんて言っている。商売に興じて、人々の生活を踏みにじることに頓着しない。外国の方式、もっと言えばアメリカの流行を取り入れる耳の速さだけは持ち合わせ、それが彼らの保身の術となっている。
 言論は政治演説ではない、と私は思う。保田与重郎は「紙無ケレバ、土ニ書カン。空ニモ書カン」と言った。それは比喩ではない。頭に浮かぶ言葉を書き留めておかなければ、どこかに行ってしまう。それを惜しむのである。頭に浮かぶ言葉は天からの啓示であって、後から思い出そうと思っても書き留めることができない。

 小林秀雄は「僕が、はじめてランポオに、出くわしたのは、廿三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった」(ランポオⅢ)と書いている。
 私にとっては陸羯南との出会いがそうであった。大学二年生のころであった。神保町で、表にワゴンセールで出ていたのが『日本の名著』の陸羯南、三宅雪嶺であった。600円だったと思う。値段など関係なく、本との出会いは私を打ちのめした。100年以上前に書かれた書物が、私に語りかけたのである。日本には使命はないのか。弱肉強食の国際社会の中で何を守り抜くのか。そんな声を聴いたような気がしたのである。

 野坂の話からそれてしまったが、私と氏は意見が異なるところが多いと思う。しかしそんなこととは無関係に働きかけてくる言葉はある。そんな声をこれからも聴き続けていく。