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大アジア主義と政教一致

 私事ながら16日から体調を崩していた。動いたり走ったりする体力はないものの、病気に対する抵抗力は強いつもりでいたが、今回は長引いてしまった。
 自ら言うのもおこがましいが、病床にあっても食欲は衰えたが読書欲は衰えなかったところは良かった。時間もあったので、特に読み込むことができたのは田中逸平『白雲遊記』(論創社)と田中逸平研究会編『近代日本のイスラーム認識』(自由社)である。

 田中逸平は明治15年生まれで日本人イスラム教徒の草分け的存在である。田中が『白雲遊記』を著すのと同時期には満川亀太郎が『奪はれたる亜細亜』を、大川周明が『復興亜細亜の諸問題』を上梓する時期に当たる。この三者に共通することは大アジア主義を主張しただけでない。それまでのアジア主義は日本支那印度の関係にとどまっていたが、彼らはそれに加えイスラム圏を「アジア」の問題として捉えたのである。

 田中は、アジアは古来聖人が命を受け、大道を明らかにし、広めてきた場所である。大アジア主義の「大」とは領土の大きさのことではない。道の尊大を以ていうのである。しかし西洋文明が押し寄せることで、智に偏し物欲が人を苦しませている。大道は廃れんとする中、大アジア主義を問うときが来たのであると説く。田中は大アジア主義をアジア諸国の政治的外交的軍事的連帯に求めない。はたまた白人に対する人種的闘争にも求めない。大道を求め、それぞれの文化で培った伝統的思想(「古道」)の覚醒に努めるべきだというのである。日本においては「神ながらの道」がそれにあたるという。田中はイスラムにもその「古道」が流れているのを感じ取ったのである。

 伝統的信仰を取り戻し、侵略者を追い払うことを通じて、立国の精神を共有することが大アジア主義の志であった。それは必然的に政教一致の政体を模索することにつながるであろう。

 そもそも政教分離とは政治と結びついていた教会に反発したプロテスタントが聖と俗を分離し、あるいは市民革命以降の近代西欧国家で既存の境界と結びついた権力を打倒することで確立していったものだ(もちろん国によって複雑な歴史的経緯をたどっている)。政教分離が確立されたことに因り、政治は世俗化し、世界全土にその影響を及ぼすことができるようになった。もちろんカトリックももともと普遍(「カトリック」の語源)を謳う宗教であり、国籍にとらわれるものではないが(その意味ではイスラム教も仏教も儒教も普遍を謳う宗教だ)、世俗と宗教との関係が切れたことで世俗権力は自由に動き回ることができるようになった。もちろんプロテスタントも帝国主義政策に加担しているから完全に逃れたわけではない。

 いずれにしてもその頃より宗教の力は弱くなり、政治に限らず諸事世俗化が進むこととなった。世俗化した世の中は「欲」「利害関係」によって統合されるよりない。それを打破しようとしたのが大アジア主義である。政教分離と言っても政治とは「まつりごと」であり、宗教と切り離せることは絶対にない。

 おそらく大アジア主義は具体的には帝国主義への反発、現代においてはグローバリゼーションへの反発を意味しようが、それにとどまらぬ趣をも含んでいる。それは政教分離原則のもとあまりにも世俗化し過ぎた政治や経済の問題でもあるが、より根本的にはわれわれの生き様の問題である。気づけば世事に追われ、自らの一身より大いなるものに思いを馳せない生活が続いている。「俗中の俗」(村岡典嗣)は休みなくわれわれの日常をさいなむが、その中でも過去・現在・未来を貫く一本の流れに対する敬意と参与を志す、「俗中の真」を忘れずにいることは政局などよりもはるかに重要なことである。

歴史をどう描くか

 私はたびたび実証史学を批判するようなことを書いてきた。自らの存在なしに歴史を「語る」ことは不可能である。にもかかわらず実証史学は己の存在を消してしまう。歴史は自分の鏡であって、歴史を叙述する「自分の姿」を映さざるを得ない。にもかかわらず己を隠す実証史学は、そもそも支離滅裂なのである。
 「実証」に近づけようとすれば、歴史は細切れにせざるを得ない。細切れになった歴史はどこにも住処を得ず、ただほこりをかぶり誰にも顧みられない。実証に空想を以て替えようとするならば、それは荒唐無稽でしかないが、実証するばかりではなく、今歴史を顧みる己の心の中に深く入り込み、その来歴をたどることは、嘲笑されるべきではない。

 明治時代には、「文学」と言えばいわゆる小説のことだけではなかった。詩も、物語も、講談も、歴史も、皆文学であった。文章を以て人々に訴えかけるものはすべて「文学」であった。頼山陽の『日本外史』を文学と呼んだ山路愛山は、決して突飛なことを言うために文学と呼んだのではなかった。

 おそらく歴史はかつてより格段に「実証」的になった。だが、これもたびたび述べているように、実証とは手段でしかない。人々により分かりやすく典拠を示し論じていくことで説得力を持たせ、後学の参考とされるために実証するのである。しかし、実証が自己目的になってしまって、実証するために細切れにされた小さなことしか論じられないのが、今の歴史学なのだ。

 史料に謙虚であろうとする態度は良い。しかし人々がその言葉を残すために如何なる思いを込めたか、その微妙な心理に忠実であろうとしているだろうか。人は、その行動も、言葉も、心の内も、ほとんどを記録に残さないのである。その記録には残らない遺風を慕う心はあるだろうか。それはおそらく、先人の言葉を忠実になぞろうとする態度からしか生まれえないものであろう。

 記録されたことだけに忠実であろうとするならば、おそらく歴史は公文書の寄せ集めのようなものになってしまうに違いない。公文書が一番正確かつ詳細に物事を残しているからである。おまけに保存状態も良い。だが、為政者にだって公文書に現れない心情がある。歴史学者はそういう心情を探ろうとするとき、公文書でない書簡などを探ろうとする。だが書簡もまたよそ行きの文章である可能性も否定できない。人間は多面的な生き物である。私的な場面で発した言葉がそのまま真実とは言い切れない。

 おそらくその人の残した言葉を、表層でなく奥深くまで味わい尽くし、心のひだを追体験することでしか心情は描けない。本居宣長を描こうとしたら、本居宣長になろうと努めるしかないのである。その果てに生まれた言葉は、本人よりも本人的である場合だってあるかもしれないのである。

まず日米同盟から改めよ~日米同盟の抜本見直しと憲法改正の順逆を問う~

※本稿は某誌に寄稿するために作成したものだが、残念ながら掲載が叶わなかったためここにアップする。

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 憲法を改正し、集団的自衛権を確立していくことで日米同盟を対等に近づける―。いわゆる「保守派」が描く対米自立への道筋である。だが、そのような道筋を取るべきではない。まず日米同盟から改めるべきなのだ。
日米同盟を改めようとする議論を、「非現実的」だと黙殺してきたのが戦後日本の「保守派」の姿である。だが、独立心を失った防衛論など強者への売国的阿諛追従にしかならない。戦争末期に竹槍で闘おうとした先人や、特攻で敵艦に突撃した先人を戦後の人々は嗤ったが、竹槍を嗤う心情とアメリカの庇護のもと平和を貪る心情には共に見落としていることがある。たとえ勝てなかろうとも相手に傷一つは負わせてやる、日本人の怖さを思い知らせてやるという感情こそが祖国防衛の源泉なのだ。それを抜きにした安全保障の議論こそ空論である。安全保障の問題を軍事力と経済力の問題に矮小化してはならないことは、近年のわが国の対米外交がまざまざと見せつけているではないか。

対米屈従の外交
 小泉内閣がイラク戦争に賛同し、戦争協力に踏み切ってからというもの、日本政府の態度は常にアメリカに寄り添うものであった。この間にわが国の総理大臣は何人も変わっているが、皆ほぼ一様に「テロとの戦い」等、アメリカ政府が述べる「戦争の大義」を繰り返したに過ぎなかった。そこには苦悩も感じられず、自らの言葉すらも失ってしまった姿がある。なぜわが国の首脳はそのような態度に出てしまったのだろうか。日米同盟という祖国の防衛をアメリカに委ねる政策が、国の根本的進路を自ら選択できなくさせているからである。軍事力とは、国家が持つ牙である。牙を失った日本は、自らの生き様を決める力すら失ってしまったのだ。
 アメリカがイラク戦争でフセイン政権を倒したころから、イスラム世界には無秩序が一層広がり始めた。当時、ブッシュ政権は「フセイン政権を倒せばイスラム世界に民主化がドミノのように広がり始める」と薄甘い楽観論を述べていたが、ドミノのように広がったのは「民主化」ではなく「無秩序」や「憎しみ」の方であった。フセインを倒し、ビンラディンを倒し、カダフィを倒したが、中東から無秩序と憎しみの連鎖が断たれることはなかった。アルカイダの次はISILと、イスラム勢力は過激化する一方ではないか。アメリカは泥沼化した戦争に入り込んでしまったのである。グローバル資本に搾取された欧米のイスラム系移民の憎しみと、戦争により平穏な生活を失った中東・アフリカの憎しみが結びついて起きたのが一連のテロ行為である。最近でもパリで同時多発テロが勃発し、120人以上の死者を出す事態となっている。
 日本はアメリカとともにイスラム世界に無秩序や憎しみをもたらした張本人であるということを忘れてはならない。しかも、さしたる使命感もなくただ保身のためだけにそのような選択をしたということを、胸に刻み付けるべきだ。

陸羯南が唱えた国際競争の原理、日本の使命
 明治時代に国民主義を唱えた陸羯南は、明治二十六年に「国際論」を著している。「国際論」とは、国家同士の侵略、被侵略がどのようにして起こるかを示したものだ。「国際論」で重要なのは、国際競争は決して軍事力や経済力だけではなく、国民精神や国の使命を基に考えないと属国化されてしまうことと、欧米偏重の世界観を正すことこそが日本の使命だということである。
 陸は侵略の形を「狼呑(領土侵略)」と「蚕食(属国化)」に分類し、日本人が朝野こぞって欧米に憧れを抱くことそのものが、属国化の始まりであると警鐘した。陸羯南をはじめとする明治二十年代の国粋主義者たちは、当時の明治政府が鹿鳴館外交など欧米列強に媚びる政策ばかりすることに憤りを感じ、立ち上がった人々である。彼らは「欧米にペコペコしているやり口はけしからん」と言いたかっただけではない。欧米の顔色を窺う藩閥政府には日本の未来を決めることができないと感じたのである。
 陸は「国際論」で次のように論じている。国際競争とはどういう意味かと問えば、おそらくは軍事力と経済力の争いであると答えるであろう。だが、軍事力と経済力が足りていれば国は安泰なのだろうか。もし輸出入の増加、人口の増加などを以て国の発展だと言うならば、欧米列強の傘下に入ってしまえば日本の繁栄は成し遂げられるだろう。だがそれではいけない。国際競争は軍事力や経済力の競争ではなく、国民精神の競争なのだ。人に使命があるように、国にも使命がある。国の盛衰は国民全員が国の使命を理解するか否かにかかっている。古今東西の歴史を鑑みれば、国の使命と言える思想がその国の元気を左右するのは議論の余地がないではないか。日本の使命は八紘為宇にある。日本の皇化を世界に広め、世界の公道を明らかにすべきだ。日本文化を保持し世界文明の発展に寄与すること、国際法などの欧米偏重を正すことだと述べている。
 このような陸の意見を参照するたびに、つくづく考えさせられることがある。現代では経済成長に気を取られて国民精神をなおざりにした政策がとられることがある。TPPでは農業や医療などに市場原理を適用し、共同体が破壊されようとしている。アベノミクスでは目先の株価や為替の動きに一喜一憂し、日本の果たすべき使命など全く忘れ去られている。このような事態に痛憤を感じないのであれば、いっそ日本をアメリカの州の一つに加えるように要望してはどうか。そうすれば公用語は英語になりグローバルに活躍する人材も出て、日米間の関税も非関税障壁もなくなり、一層の経済発展が見込めるのではないか。それでもいいと思っている人たちと、わたしは口をきく気にもなれない。日本の独立を守るために精一杯生きた先人たちに申し訳が立たないと思う。

独立を守る態度
 イラク戦争以降、アメリカのいう「大義」にただ付き従ったわが国の在り方は、果たして国の独立を守る態度なのか。自ら政策を選択する言葉すらも失った政府首脳のやり方は、もはや「外交」と呼ぶに値しない。そして、安倍内閣に期待する人の中には憲法改正を唱える人もいるが、外交的進路さえも自らの言葉で語りえない今の政府に、国の根幹を示す憲法を描くことなどできるはずがない。もし、現状のやり方が改められることがないまま憲法が改められるとすれば、それは更なる属国化の表明にしかならない。幸い、日米安全保障条約はどちらかが「更新しない」と言えばそこで終わる。そうなったとき日本人は、アメリカに依存せず自国を防衛する方法を考えなければならなくなる。その時「日本国憲法」などというものは自然に改められるに違いない。アメリカにとって、日米同盟体制とは極東戦略の拠点構築であるとともに、日本を封じ込める「ビンのふた」としての役割を持つ。いつまでもアメリカに封じ込められる生活に甘んじていて良いはずがない。「戦後レジームの脱却」とは日米同盟を改めることだ。
 いわゆる「保守派」は、「憲法改正」をまず成し得べき課題であるとしてきた。そのうえで日米同盟をより対等に近づけることを理想としてきた。そういう人々は、「日米同盟をなくしてしまったら、他国から侵略されるではないか」、「自国の軍事力だけで防衛するのは費用対効果の面で適切ではない」といった意見を述べることだろう。だがこうした議論は根本的なことを忘れている。「他国に軍事基地を置き、軍事的に依存させる同盟は、そもそも「同盟」の名を借りた侵略なのではないか」ということだ。そして、陸羯南も述べていたように「日本には国際的使命はないのか。日米同盟を重んじるのは、軍事力の多寡のみに囚われて国が持つ使命をなおざりにしていないか」ということである。明治時代の日本と欧米諸国の軍事力の差は、今とは比較にならないくらい大きかった。それでも陸は、欧米との同盟よりも日本の使命を第一に考えた。欧米に対峙しろという、断崖から飛び降りるような覚悟がなければ言えない科白を吐けたのは、日本人が一致団結し、祖国防衛の魂を全霊で発揮しなければならないという危機感である。欧米のどこかに従っていれば、政府や市場は残るかもしれない。だがたとえそこに政府や市場が残っていたとしても、祖国に魂をささげる人が残らなければ、それは死んだ国である。われわれは生きながらえるだけではなく、日本人の魂を後世に伝えなければならないのだ。

日本の使命
 わが国はキリスト教が深く浸透した欧米社会とは異なる。そしてアジアを防衛するために立ち上がった歴史を持つ。現代における日本の使命とは、宗教による対立を止揚し、世界文明の発展に貢献することだ。八紘為宇とは日本による世界征服ではない。各自が道義的感化のもとにあるべき場所を得ることである。中立的立場からイスラム過激派の活動を抑制するとともに、憎しみの連鎖を断ち切ることは日本にしか果たせぬ偉大な仕事である。そのためにはまず日米同盟を改めることが必要だ。アメリカの顔色をうかがうような国に果たせることは少ない。
 先人の生き様はわれわれに強く問いかける。「日本に果たすべき使命はないのか。わが身の安全ばかりで祖国の魂は守ることができるのか」。現代の日本人はこれに答える必要性を痛感すべきだ。わが身の安全が守りやすいというだけのことを簡単に「現実的」だと言ってはならない。日本人の魂の輝きがなくしていかなる現実がありうるのか。使命を心に抱かなければ、いのちを見失ってしまう。われわれが将来の日本人に残すのは安全なだけの日本なのだろうか。
 戦前の農本主義者である権藤成卿は「理想の実現のために軍閥に期待すべし」という自らの支持者に対し「政党や財閥が汚いのは無論だが、軍閥も汚い。綺麗なのは皇室とそれを戴く国民だけだ。わたしはただ綺麗なものが欲しいのだ」と述べた。自分が自分を支配しなければならない(自治)と述べる権藤に対して、支持者は新たに自分を支配する権力者を見つけたがっているだけだ。だが、己の良心は誰にも支配することができない。良心を信じず権力を信じる心から米国などあらゆる強者への屈従が始まっていくのである。
 三島由紀夫は「反革命宣言」で「日本の文化・歴史・傳統」を護った上であらゆる共産主義に反対することを宣言した。その上で、「われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、日本の國土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る」と述べた。現在はあの頃と違い日本が共産主義化する可能性はなくなったといってよい。しかし「日本の文化・歴史・傳統」や「日本精神」があの頃よりわれわれの身近な存在になったかといえば、必ずしもそうではない。共産主義化する脅威がなくなったのはあくまでも共産主義国家の自滅によるものであり、「日本精神」が勝利したわけではない。インターナショナリズムが抜けた空白はグローバリズムという新たなイデオロギーにより満たされている。三島が闘うべきと考えた「水際」は、日本の国境ではなかった。日本の国境は守られた。だが「日本人の魂の防波堤」はどうだろうか。経済発展に毒されて、「魂の防波堤」はどこかに置き忘れてしまったのだろうか。
 読むとは、新たに書き直すことだという。先人の言葉に、生き様に触れた瞬間、われわれはもう自分がいかなる言葉を残すか試されている。われわれが後世に残すべき言葉や生き様は、どういう姿だろうか。使命を自覚する日本か、アメリカに遠慮し尻馬に乗るだけの日本か。問題は常にわが国の側にある。国際社会の力関係に囚われ、「アメリカに同調しなければ国が保てない」と委縮し、魂の声を聴くことを忘れている。同盟は作戦の共有であっても、一蓮托生の運命共同体ではない。同盟を口実にしたアメリカの内政干渉を非難しても仕方がない。それは国際社会の常套手段だからである。
 われわれに必要なのは、日本の使命を自覚し、そのために何が必要なのかを考え、発信していくことである。わたしは日米同盟を改めることが、今の日本の状況を打開するために必要だと考える。憲法改正はその後の課題である。わが国が真の意味での独立を達成し、使命を果たしていくことが喫緊の課題なのである。

学問と生活

 学問は出世や生活のためにするものではない。己を磨くためにするものである。このことは深い真理であるが、口で言う以上に行うことは難しい。

 親などの家族は学問を功利的動機のために行うことを期待する。学問は給料の良い会社等に入ってもらうためのものであって、決してそれ以上ではない。家族は、己を錬磨するような学問を行うことを期待しないし、あらゆる手段でそれを行わないよう妨害するものである。さらには、人が学問しているにもかかわらずカネを稼げない存在だとわかった瞬間、人をごくつぶしとしか見なさなくなる。「浮世の沙汰も金次第」と言うが、家族の縁もカネ次第である。嘘だと思うなら無職になってみるがよい。家族がどういう態度を取るか、わかるはずだ。「家族なのだから助けてくれるはずだ」と薄甘い期待を抱くのは、大きな間違いであったことに気付くはずだ。

 友人は名利を求めて派閥を作ろうとする。コネを作ってその縁で何か自分に有利な方向に動いてもらおうと期待する。これまた人は利用価値や肩書で判定されがちであり、そういうものが無くなった人間には誰も見向きもしない。

 いささか悲観的なことを書いてしまったが、人間にはそういう冷酷薄情な面があり、そこから逃れるのはとても難しいということだ。
 おそらく無職になってしまった人に対して、赤の他人のほうがごくつぶし呼ばわりはしないだろう。腹の底でどう思っていようが、他人に対してあえて波風を立てるような人は多くないだろう。むしろ家族という、一生無関係ではいないという親愛の情が、かえって人を傷つける言葉を放つきっかけになってしまう場合もある。心配、不安な感情が自分と違うことだと突き放してみることを許さないのである。
 友人も同じである。コネを期待すると言っても、おそらくほとんどの人は完全に利害関係だけを念頭にコネを求めたりはしない。利害の計算以前に何らかの理由で親しみを抱いている人を選んだうえで、つながりを求めていくはずだ。あくまでコネクションの構築は二の次であったはずが、いつしか自らの欲望に取り込まれてしまう。
 人の心の弱さが、利害を超えていたはずの感情を利害関係に引き戻すのである。

 亀井勝一郎は「人間は真理より世評を恐れる。ほんたうに、いつでも真理を恐れるようになったら偉い。」と言った(『亀井勝一郎全集』二巻442頁)。悪評を恐れないのはむしろ易しい。難しいのは自らを良く評価していただいている人の意見に寄り添わないようにすることである。つい筆を曲げて、読者の意見に寄り添ってしまう。嘘をつこうと思って寄り添ってしまうのではない。自らが読者の側に引きずられてしまうのである。それは悪影響ばかりではない。それによって世界が広がる場合の方が多い。それでも、いつか耳障りのいいことばかり言っていられなくなる。
 それだけではない。なんだかんだ言っても家族や友人はかけがえのないものである。しかし、かけがえのない存在だからこそ、それらの意見に引きずられないことも難しくなっていく。

 人間社会に渦巻くのは悪意ばかりではない。だが善意ならばすべてがうまくいくとも限らないのだ。そして人の善意が学問の励みになる場合もあるが、妨げになる場合もある。人が生きるということが既に真理から遠のくきっかけにすらなる。

※3月7日少々追記致しました。

崎門の矜持

 崎門は君臣の絶対的忠義を重んじた。それは師弟関係や親子関係にもおよび、上位者に尽くすべきことを説いた。それだけだとしたら、崎門は陳腐極まりない学問であろう。師匠さえいれば弟子は必要ない、その程度の存在であっただろう。だが、そのような思想が世に大きな影響力を持つはずがない。変革のエネルギーにもなりえない。崎門には上位者への献身的精神とともに、上位者をも恐れない強い心を問うたと考えるべきではないだろうか。

 ここで思い出されるのは崎門の三傑と言われるうち、浅見絅斎も佐藤直方も山崎闇斎から破門され、葬儀への出席もかなわなかった人物だということだ。二人は師匠の説に従わなかったからということで破門されたように、崎門は師匠の考えに弟子は従うことを要求される。だが同時に二人に限らず、崎門の有名な人物には師匠の説に従わなかったことで破門された人物もまた多いのである。
 崎門は理論としては師弟間の序列を示したが、一方で、一介の思索者が自ら大義と信じたことは、たとえ師の説と違ってもそれを貫くという生き様を見せた。この両方の側面を考えなくてはならないのではないか。

 山崎闇斎は「たとえ敬愛する孔子、孟子が攻めてきたとしても(日本人として)孔孟と戦うべきだ」という教えを説いた。通常この逸話は国家への忠、日本精神の唱道として受け取られてきた。だが違う読み方も可能ではないか。
 山崎闇斎は朱子にかぶれて常に赤いものを身に着けていたような人間だった。当然、儒学を篤く信じていた。その闇斎が「孔孟とも戦え」と述べたのは、「たとえ自らが道を教わった師匠であっても、己の信念に反するならば対峙しなければならない」と説いたとも言える。崎門は君臣師弟親子の上下関係を説いたが、同時に一介の思索者としての矜持を、その生きざまで示していたのである。

 だからこそその思想が後に世を変革する力ともなったのである。

右翼から国士へ 四(終)

右翼から国士へ

 近頃世に「保守派」と見なされる論客の中には、冷戦的な右翼左翼保守革新の構造を乗り越える発言も見られる。例えば岩田温氏は『逆説の政治哲学』で、「同じ日本人が困難に陥っている。この現実を見つめず、結果として弱者の切り捨てを進めていくのではなく、日本人の同胞意識を根底に置いた弱者救済を目指すナショナリズムの形があるべき」であるとし、「貧困にあえぐ同胞」に手を差し伸べることを考えることもまた、「ナショナリズムの一つの形」であるとした(93~94頁)。氏は自身のメールマガジンで、「以前、『逆説の政治哲学』を執筆した際に、保守派が貧困問題に取り組むべきだと書いたら、「お前は左翼か?」と非難されたことがあった。事ほど左様に、保守派は貧困問題に無関心なのだ」(平成26年4月25日配信分)と論じているが、確かにまだまだこういった考えは少数派なのかもしれない。
 古谷経衡氏は『若者は本当に右傾化しているのか』で、「同胞融和」の観点を「国民国家を形成する愛国心の重要な根幹の一つ」であるとし、「反貧困」を「愛国心」を重んじる立場から評価した。その上で、「保守派は愛国心の有無(あるいはその濃淡)を踏み絵に用いておきながら、実際にはその愛国心の具体的発露の結果である反貧困と言うテーゼを愛国心の範疇には入れていない」ことを「倒錯」であると批判した(143~146頁)。
憂国者とはこの国をよりよくしようと思う人のことであり、「国士」とはそれを歴史と伝統に根付いた形で行おうとする人のことだ。守るべきものは何か。それを真剣に考えることから明日が生まれるのではないだろうか。政策は守るべきもののためにしか生まれない。

 「国士」というと、大時代的で豪放磊落な印象を受ける。わたし自身も自らを国士というにはあまりに軟弱でためらいを覚える。ゆえに「国粋主義者」などと言ってきたわけである。
 国粋主義が信じる対象とは「国民国家としての大義(国家主権)」、「自民族の歴史、文化」の二つ、つまり広義の「国家」である。政府ではない。国粋主義の思想の源泉は何か。それは皇室と靖国神社である。国のため命を捧げた英霊に対し敬意を表し、自分も国のために尽くす、尽忠報国の決意を固めるのである。何に忠かといえば、ご皇室であり、国家である。皇室に忠であるとは今上陛下への個人崇拝をするということではない。天皇が国を治めるこの国の原点に忠実でありたいということである。国家に忠であるとは政府に盲従するということではない。歴史と伝統、民族文化が織りなすわが国の美質とそれに殉じた先人への敬意を失わないということである。
 しかし一方で戦争を経験もせずに「国のために」と叫んでも空疎である。実際戦争になったら、「死にたくない」という気持ちで苦しむだろう。そのほうが人間として自然な姿である。だが「実際どうか」という姿と「理想はこうだ」という姿は矛盾していて構わないではないか。それが理想の姿だという姿勢が大事なのである。第一、英霊だってこうした苦悩なしにいたわけがない。その恐怖を克服して、国に尽くしたからこそ英霊は偉大であり、賞賛されるべきなのではないだろうか。

 自らを国士と呼ぶには未熟に過ぎるが、まさに国士と呼ばれるべき人物へのあこがれは胸に秘めているつもりである。おそらく国士は周囲を威圧する類の人物ではない。平常心を保ち、おごらず、後輩や目下の者にも丁寧で、それでいて義憤するときははばかることがない。そういう人物である。
右翼から国士へ。反共から正統の追求へ。目指すべき道は眼前に広がっている。

(了)

右翼から国士へ 三

右翼左翼保守革新などもうない

 松尾匡は『新しい左翼入門』の中で右翼と左翼の定義について書いている。要約すると、右翼は世界をウチとソトに分け、ウチを擁護する思想であり、左翼は世界をウエとシタに分け、シタを擁護する思想だという。その上で、「本当の右翼ならば、「ウチ」の内部では、共同体としての団結と助け合いを求める。したがって、その団結を乱す競争は制約しようとするし、共同体が「上」と「下」に分裂していくことを肯定したりはしない」という(254~256頁及び254頁にアドレスが紹介されている著者ウェブサイト参照)。まさにその通りだ。
 しかし、例えば戦前の「右翼」と呼ばれた人たちは欧米のアジア侵略に義憤し、欧米に対抗することを訴えた。いわゆるアジア主義と言われる主張である。アジアをウチと考えて、ソトである欧米に対抗する思想だ。また、日本の社会主義者と呼ばれる人たちは、少なくともその初期はあくまで日本国内のウエとシタでシタを擁護する存在であった。シタの国民の生活が向上すると言って支那事変に積極的に賛成した人物もいた。原則は松尾氏の言うとおりだろうが、論者が何を念頭にしていたか、慎重に考える必要がある。
 例えば若き日の葦津珍彦は「日本民族の世界政策私見」で日英同盟を「アングロサクソンの利益のために、印度民衆を抑圧せしむべき義務を承認した」と厳しく批判しつつ、併せて「民族の地位と歴史と現勢に鑑み、遠き将来をも慮り、天地の正道に立ち、根本国策を練り、上日本天皇の御裁可を仰ぎ、絶対不可侵の根本国策を確立」しなければならないと説いていた。そのためには「内政の改革の断行」が必要であり、「外に、暴風雨の如き重圧を迎へ、内には資本主義のために激成せられし「階級の対立」を放任したならば、何を以てか民族の独立を保ち得るの途があらうか」と論じていた(『神道的日本民族論』14~15頁)。ここでの葦津はアジア主義的主張を出発点に反資本主義的主張に着地している。右翼と左翼の原理原則は松尾氏の通りなのだが、論者の意図によって簡単にかつ大胆に飛躍可能な分類であると言わなければならない。

 冷戦が崩壊してから、もう長い。共産主義対民主主義と言った二項対立はもはや通用しない。左翼の敗北と共に親米右翼が勝利を収めた形になっている。しかしそもそも民族主義において、「米国に甘く、支那朝鮮に厳しい民族主義」などありえるのだろうか。しかしこの少しゆがんだ民族主義が小泉・安倍時代の特徴である。世界の国々の国益を破壊しているのは米国なのに、それに対する義憤がない。むしろ米国についていくことが「現実的」だと思っている。確かに「現実的」ではあるだろう。だがそれを唱えるネット右翼や親米保守は政治家でもなんでもないのだ。国際情勢を評論してみせてそのあと「日本は米国と共に特亜に立ち向かうべきである」と「現実的」に語られた日には、私には腹に一物のこらざるを得ない。一体、「現実」とは何なのか、考え込まざるを得ないのである。彼らの思想的根幹が伺えず、何か底が見えない恐ろしさのようなものを感じてしまう。靖国に祀られている英霊は半分以上が米国に殺されたのである。今現在のご皇室が「象徴天皇」などと呼ばれているのもアメリカがしたことである。断じて特亜がしたことではない。彼らは一体、英霊に何を祈るのだろうか。「思想的根幹」を常に重んじる意見は少数派なのかもしれない。少なくとも私はネット右翼のように特定の民族に対する差別的な発言はしないし、言う人が理解できない。彼らは「死ね」と言いながら朝鮮人を一人も殺さなかった。家には包丁という凶器があるにも関わらずである。言行不一致であり、自分の発言に責任も持てない愚か者である。「言論の自由」と言うが、こんな自分の発言に責任も持てない輩に発言の自由はないし、彼らを認めてはいけないと思う。それは「無責任な発言」を擁護したと言うことであり、自分がしている発言も無責任なものである、という印象をもたれてもやむをえない。
 このことはネット右翼に限ったことではない。もはや冷戦は体験的事象ではなく歴史的事象である。人は己が正しいと思うことを述べれば良いのであって保守とか革新などはどうでもいいことである。しかし右翼的、左翼的と罵倒し合わなければ政治家も政治論壇誌も成り立たないと考えられている。だから未だに三文芝居が国会でも論壇でも行われているのである。これでは論壇誌の低調も当然ではないだろうか。右翼左翼保守革新などもうない。むろんこれらを意識しつつ「右翼左翼どちらも極端で間違っている」などという日和見な態度も成立しえない。わたしは右翼でも保守でもなく、左翼でも革新でも無く、ましてや中道でもない。

(続く)

右翼から国士へ 二

国士の源流と、国士がいなくなるまで

 もともと「右翼」と呼ばれる人は右翼を名乗っていなかった。頭山満などは「国士」を標榜していたのであって決して「右翼」と最初から名乗っていたわけではない。それが大正時代ころより右翼左翼という名称に徐々に変わっていく。この間何があったかといえばロシア革命である。共産主義化が進んだゆえに共産主義者が自己と違う思想の人間を「右翼」、「保守反動」と罵倒したのである。したがって右翼左翼保守革新などという二分法は共産主義の消滅とともに闇に葬るべき概念である。保守思想だとか右翼思想などというものは本来存在しえないのである。

 頭山満は高山彦九郎を豪傑とみなしていた、と松本健一は言う(『雲に立つ』19頁)。ここでいう豪傑とは、現代人が思い浮かべる豪快で強い人、という意味でもなければ、支那の原義のように才知あふれる人という意味でもない。たとえ志を果たし得ない場所にいたとしても、独り道を実践していく人のことだ。名利をもとめず、憑かれたように志の実現に邁進する「狂」の態度こそが豪傑の条件であった。この「狂」の感覚を松本は「原理主義」と呼ぶ。松本にとって「原理主義」とは、合理的で近代的な態度ではない、ある種の「狂」の感覚であった。そして松本はこの「狂の感覚」に「原理主義」を見出した。右翼と左翼とはナショナリズムとコミュニズムではない。ある時期まで、右翼と左翼は分かちがたく一体であった。豪傑か否か、「狂」の感覚を持ち合わせるか否かだけが問題であった。冷戦が、「狂」の感覚を右翼と左翼に引裂いた。ここでいう「冷戦」とは、通例とは違い、ロシア革命間際に共産主義運動が盛んになった頃から始まる。「狂」の感覚、「原理主義」は社会の底流にマグマのように流れる土着的エネルギーの爆発を呼び覚ます。「原理主義」は文明への反抗である。あまりにも文明化された今日、「原理主義」はあまりにも忘れ去られてしまった。しかし、同時に冷戦が終わり引き裂かれた右翼と左翼が再び元の「狂」者に戻れば、あるいは近代思想からなる今日の堕落と利益社会のはびこりを改めるきっかけとなるかもしれない。
 中江兆民はルソーの社会契約論を日本に紹介した人として知られるが、その思想は儒学をもとにした理想的道徳を現代によみがえらせようというものであった。中江と頭山は交流があり、見解を同じくすることもあった。頭山を右翼の源流、中江を左翼の源流のように言われることもあるが、その「源流」は分かちがたいほどに共通している。松本健一が「玄洋社員で、頭山の黙認のもとに大隈重信に爆弾を投じた来島恒喜が、兆民の仏学塾の出身であることや、仏学塾の出身者で、兆民のもっとも可愛がった小山久之助が、内田良平の黒龍会の会員であることからもわかるように、頭山満と中江兆民は決して右と左というふうに、対極に位置してはいなかった」(『思想としての右翼』12頁)と言うように、もとともと国権と民権は遠いものではなかった。小林よしのりは、『大東亜論』で「後から付けられたレッテルで、彼は右、彼は左と、人を振り分け、「右と左が交流できるわけがないから、これは無思想だったのだ」と決めつけるような単純な分析は意味がない。中江兆民も頭山満も「民権」論者であり「国権」論者だ。ナショナリズムは両者とも強い。戦後、GHQや学者がルソーを日本に紹介したから中江は「左翼」としただけである」(113頁)と述べている。右翼と左翼なんてものは後世の人間がいい加減に付けた区分であり、お互いの主張に通じ合うものがあればいくらでも連帯したのである。
 木下半治『日本国家主義運動史』によれば、内田良平の黒龍会は労働宿泊所を設けたり、「自由食堂」を作るなど社会事業も行っていたという(慶應書房版10頁)。同書はこのほかにも、大川周明を会頭とする神武会が「一君万民の国風に基き私利を主として民福を従とする資本主義経済の搾取を排除し、全国民の生活を安定せしむべき皇国的経済組織の実現を期す」と謳っていること(99頁、旧字を改めた)や、石川準十郎の大日本国家社会党が「我等は現行資本主義の無政府経済組織を以て現下の我が国家及び国民生活を危うする(ママ)最大なるものと認め、公然の国民運動に依りこれが改廃を期す」と謳ったこと(242頁)など、国家主義団体が資本主義による格差に対抗しようとしたことが多く記されている。それこそが戦前昭和の「国家改造」の内実であった。
 河上肇は、島崎藤村にもっとよくヨーロッパを知ろうじゃないかと話しかけられた時に、「愛国心といふものを忘れないで居て下さい」と答えたという(牧野邦昭『戦時下の経済学者』3頁)。河上は晩年、『自叙伝』で「私はマルクス主義者として立つてゐた当時でも、曾て日本国を忘れたり日本人を嫌つたりしたことはない。寧ろ日本人全体の幸福、日本国家の隆盛を念とすればこそ、私は一日も早くこの国をソヴェト組織に改善せんことを熱望したのである」と回想している(同6頁)。牧野が「河上にとって、ナショナリズムとマルクス主義は両立可能なものであり、最後までナショナリズムを捨てることはなかった」と評している通り(同6頁)、「ソヴェト組織」に変ったほうがよかった否かは別にして、河上は「シタ」の為に発言していたというよりは「ウチ」の為に発言していた。
 このように、「右翼」とか「左翼」と言った区分を思想家は簡単に乗り越えていく。だが、ソ連ができたころからこうした傾向は少しずつ少なくなっていき、戦後の米ソ対立時代からほぼ皆無になってしまった。

(続く)

右翼から国士へ 一

※本稿はいままで「歴史と日本人」に書いてきたものを再構成し、加筆修正したものである。

「右翼」「左翼」という幽霊

 日本には、いや日本だけではない。現代世界には幽霊が出るようである。しかも暗がりではなく、明るい場所を堂々と闊歩しているのだ。「右翼」、「左翼」という亡霊が。あらゆる政治勢力がこの亡霊を一日でも長く存続させようと躍起になっている。「敵」を作り出すことが自分たちを栄えさせるからだ。従って自己利益のために亡霊退治に乗り出すことはない。
 冷戦崩壊は、「左翼」だけでなく「右翼」までも完膚なきまでに崩壊させた。断じて「資本主義の共産主義に対する勝利」ではない。混迷した現在の世界の政局が、それを如実に物語っている。
冷戦崩壊は、政治勢力にとってある種の危機であった。わかりやすい争点をなくしたために、政治家は言葉の貧困にあえいだ。イラク戦争を眺めれば、アメリカの「ネオコン」と呼ばれる人達は「イラクに自由、民主主義を輸出する」と言っていた。だが「自由」だ、「民主主義」だ、という言葉はもともとフランス革命で革命派が圧政に対抗するために唱えた言葉ではないか。アメリカの「右翼」がそれを戦争の動機にしているのだ。錯乱というべきである。もっとも、それはアメリカという国の特殊な成り立ちによると言えなくもない。冷戦期には、そういう論法もありえた。だが、現在にいたってみれば世界中が「アメリカ化」しているのである。
 日本人はあの「改革」の合唱の果てに何が残ったかを知るが良い。日本の「右派」は自由主義経済を進めるということになり、日本の「左派」は人権だ、差別解消だと言っている。嗚呼いつの間にかアメリカの「右翼」「左翼」と同じではないか。自民党は共和党に、民主党は米民主党に脱皮したのであった。アメリカ化は「改革」で完成した。「構造改革」とはすなわち「日本の構造をアメリカの構造に改革する」ことでしかなかったということである。「改革」の行き着く果ては「日本」の喪失でしかなかったことに、そろそろ気づかなくてはならない。
 「右翼」は反共であり、共産主義の終焉とともに共産主義の役割を否定し、「男女平等」、「信仰の自由」、「移民」を否定し「自由競争の経済」により一層移行しなければならないと説く。なぜならば冷戦は共産主義に対する自由主義、民主主義の勝利であり、したがって共産的な政策は改めなければならないからだ。
 一方「左翼」は「民主」の時代であるからより「寛容」で「平等」で「人権」の認められた世界の実現を主張する。民主とは一票の平等のことであり、したがって国家の構成員の平等を意味する、と説いている。だがこれらの議論はどちらも破綻している。もちろん「右翼」は男女や信仰の問題を差し置いて「自由」な競争だとは馬鹿げているし、「左翼」は平等や人権を保障するためには強い国家が必要だが、概して彼らは国家主義に反対だからである。
 日本の元来の「右翼」と「左翼」の姿はこうした「グローバル」なものではなかった。だが冷戦崩壊と一連の「構造改革」の合唱の果てに、新たにできた構造とは日本の構造を破壊した、ただの世界の亜流であった。「格差を擁護する自民党=右翼」、「格差に反対の民主党=左翼」という図式はいかにも「構造改革」がもたらした結果でしかなく、鼻白まされる思いである。両者とも伝統とか共同体としての在り方には興味がなく、ただ己の利益増進と利権保護にあくせく励んでいるにすぎない。

(続く)

フェノロサ伝説

 フェノロサといえば岡倉天心などとともに日本美術の復興に努めたお雇い外国人という印象を持っている人も多いだろう。フェノロサは西洋崇拝の時代の中で見捨てられてきた日本美術を高く評価した「恩人」であるという。だがその俗説は本当だろうか。

 フェノロサはたしかにお雇い外国人として日本に来た。だがその専攻は政治経済学であり、美術は学生時代にかじったことがある程度でしかなかった。ただしフェノロサは美術品の収集には熱心だったようで、フェノロサによって欧州に転売された日本美術品は数多く、それによりフェノロサは巨利を得ていたようである。
 フェノロサが岡倉天心らに日本美術の素晴らしさを説明し、感化させたのではない。その逆で、岡倉らがフェノロサという看板を担ぎ上げたのである。そもそも明治十年代から欧米崇拝への批判は少しずつ広がりつつあった。そんな中で「外国人も日本美術の素晴らしさを認めている」という傍証に担ぎ上げられたのがフェノロサであった。フェノロサが日本美術について書いたものには、その「秘書」役たる岡倉天心の手が入っている。「秘書」がゴーストライターとして書き上げた可能性も否定できないのである。

 岡倉とともにフェノロサを担ぎ上げた人物に狩野芳崖がいる。芳崖は後に「非母観音像」を書いて有名になるが、当時は明治維新で落ちぶれた江戸幕府御用絵師の家柄、狩野家の末裔に過ぎなかった。山師的雰囲気のある天心と没落絵師の芳崖が、西洋崇拝見直しの機運に乗じて一発逆転を狙ったのが、「フェノロサ担ぎ上げ」なのである。フェノロサ一派は文人画などの復興には反対で、日本画を強く推奨した。その人脈から考えても勘ぐってしまうような評価である。

 フェノロサと天心は後年仲たがいする(その時芳崖は既にこの世を去っている)。国粋主義の復活のために担ぎ上げられたフェノロサであったが、志を一定程度果たしてしまえば彼ら外人の力など無用というわけである。フェノロサはお払い箱にされ、ロンドンで客死している。

 「フェノロサという稀有な感性を持つ外国人により日本美術が再評価され、復興された」。これは天心と芳崖が描いた神話である。その実は本人は美術品の転売にいそしむ人間であったし、日本美術に関する発言は天心のものの可能性が高い。フェノロサ伝説を信じているうちは、まだ天心と芳崖という二人の男の掌の上で踊っているようなものである。