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アマゾンのレビューを書きました

アマゾンのレビューを書かせていただきました。

まずは坪内隆彦氏の『維新と興亜に駆けた日本人』である。

本書は西郷南洲から内田良平まで、明治~戦前昭和期に活躍した國體の理想を追求した20人の評伝である。
著者が編集長を務める「月刊日本」の連載をまとめたもので、連載の全体像およびそこからの単行本収録者は著者ホームページで示されている。

著者は、「私利私欲を優先させ、長いものに巻かれ、行動する勇気を持たない。国家の理想を描かず、愛国心を持たず、ただ強い国に阿る。そのような政治家や言論人は、決して本物の日本人ではない。」(はじめに)と強く語る。では著者にとっての「国家の理想」とは何か。「国体の理想の追求はまた、物質至上主義、人間中心主義、競争至上主義といった西洋近代文明のあり方を乗り越えようとする文明戦でもあった。」(同)という。本書は、反共を旨とした戦後の右翼思想に一石を投じるとともに、「国家の理想」を抱いた真の日本人のあり方を戦前の日本人の生き様を通じて描こうとした労作である。

次に同じく坪内隆彦氏の『アジア英雄伝』である。

興亜論者がアジアの志士とともに目指した西洋近代文明の克服。この大理想が完全に忘却され、戦後日本はいまだに対米従属の状況に甘んじている。これは占領政策によって自虐史観と物質至上主義を植え付けられたからだという。つまり日本がアジアと向き合うためには、まず国内維新を必要なのだ。

アジア主義は、アジアの広大かつ多様な歴史、宗教、民族、文化を前提としていないといわれる。だがアジア主義はアジアに一様な共同体を確立しようという動きではない。アジアの多様性を、多様なままにその特色を発揮しつつ、相互に認め合うことを理想としている。本書は歴史人物の評伝でありながら、そのような著者の理想が伝わるものとなっている。

本書はそうした興亜論、対米自立の最良の手引きである。

今後もレビューを書くことがあればご報告いたします。

澁川春海の尊皇思想

本稿はネット検索と私の事前知識だけで作ったものだが、今後文献研究も行い、良いものとしてまとまりそうならしかるべき媒体に活字化すべく努力したい。本稿は下書き、骨子案といったところである。

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澁川春海という人物
澁川春海(しぶかわ・しゅんかい または はるみ)は、江戸時代の天文学者として著名な人物である。また、近年では冲方丁『天地明察』の主人公としても有名であろう。日本で最初に地球儀を作った人物としても知られている。また、囲碁棋士としての側面も知られており、多彩な活躍をした人物である。だが、澁川春海は山崎闇斎から垂加神道を学んだ人間であり、尊皇思想家でもあったのだが、その一面はほとんど忘れ去られているといってよい。本稿ではそうした澁川春海の尊皇家としての一面を紹介したい。
皇紀二二一六年(寛永十六年)、澁川春海は江戸幕府碁方の安井家・一世安井算哲の長子として京都四条室町に生まれた。父の死とともに「安井算哲」の名を継ぐが、年少のため安井家は継ぐことができなかった。二三一九年、二十一歳の時幕府から初めて禄を受けるが、その年にはもうシナで元の時代に作られた授時暦の改暦を願い出ている。その時は、春海の改暦願いは受理されなかったが、春海はシナの暦をそのまま採用しても決して日本には適合しないと主張し、国産の暦の作製に尽力。ついに三度目の上表によって春海の暦が朝廷により採用されて、貞享暦となった。これが日本初の国産暦であった。この功により、二三四五年(貞享元年)に初代幕府天文方に任ぜられることとなった。

暦を作るということ
ところで暦というと、現代人はカレンダーのような実用的なものと思ってしまうが、実用性だけではなく、暦を採用するのは天子の専権事項であった。江戸幕府の圧迫下に置かれていた当時の朝廷においてすら、それは例外ではなかった。即ち春海は幕府の天文方として録を食むも、天使の専権である暦の採用をわが国風に基づいたものにすることに成功したのである。
余談ながら島崎藤村の小説『夜明け前』において、主人公青山半蔵は明治政府の太陽暦の採用に対抗して皇国暦の建白書をしたためるのだが、これも暦というものが単なる実用品を超えた存在であることを念頭に置いての行動である。
天子とは天地を総攬する存在であり、天を司るとは暦を定めるということであり、地を司るとは土地制度を定めるということである。したがって、古来政治においては暦の策定と土地制度は、単なる実用的な政策以上の意味合いを持つことになったのである。
春海は囲碁を打つ時も天文の法則をあてはめて、北極星を中心に天体が運行する発想から、初手は必ず碁盤の中央、天元に打ったという。ところで北極星、即ち北辰も、『論語』に「子曰わく、政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所に居て、衆星のこれに共するがごとし」(金谷治訳注)とあるように、天子のもたらす理想の統治を示すものであった。即ち、春海にとっては暦も囲碁も、天子を中心とした「あるべき秩序」を立証していく存在に他ならなかったのである。

皇紀のはじまり
神武天皇の即位した年を元年とする皇紀は、明治五年の太政官布告を以て定められた。西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定は、この時初めて公式化された。しかし皇紀は明治維新政府が日本書紀の記述を基にこの時突如定めたものではない。その前の江戸時代からの議論の積み上げがあったうえでの公式化であった。
その西暦でいう紀元前六六〇年を皇紀元年とする算定を初めて行った人物こそ、澁川春海に他ならない。春海は『日本長暦』において、日本において暦が施行された以降の全ての暦を参照し、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を作成した。春海は垂加神道の説に従って、古暦復元と貞享暦編纂の意義を説いたのである。後に本居宣長は『真暦考』で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったと批判しているが、おそらく春海にとってそのようなことは大した問題ではなかったであろう。北辰(=天皇)を中心として天体が運行し、その秩序を以て時が定まることを立証することが目的であったに違いないからである。
春海の『日本長暦』に刺激され、様々な人物が『日本長暦』を補完、訂正し、日本古来の暦を充実させていった。藤田幽谷は、『暦考』の中で日本の最初の暦の頒布を、推古天皇十二年の元嘉暦(当時百済で採用されていた暦)導入とする説を唱えた。

おわりに
既に本文中にも述べた通り、澁川春海の事跡を想うに、天子を中心としたあるべき秩序を立証すべく奔走したと考えられる。春海にそのような強い尊皇思想をもたらしたのは、山崎闇斎の垂加神道と考えてよいであろう。

生命の希薄化

 啓蒙的な合理主義によって世の中が進歩していき、発展していき、幸せになっていくー近代社会が描いた未来像である。それを達成するために、合理主義の名の下にまず信仰が「迷信」とされた。次に芸術が解体され、学問は実証可能なもの以外は排除され、文学や音楽は売れ行きだけがそれへの価値を示す指標となった。歴史が権力闘争と利害関係の織り成す群像劇に置き換えられていくのと同時に、人々が真に仰ぎ見る正義を貫いた姿が見えにくくなった。その合理主義の究極が、国家を解体するグローバリズムである。だが、グローバリズムの破綻と金融工学の失敗は、われわれに合理主義の限界を教えた。むろん、合理的な態度は冷静な判断をもたらすと言う意味で人間に必要なものだ。捨てられるべきは合理主義以外のいかなる発想をも打ち捨て、未開野蛮時代遅れとみなす態度であろう。

 イスラム原理主義はそれら合理的世界観へのアンチと見られる事がある。だが、彼らもジハード以外に信仰的価値を見出せないある種のニヒリズム的心情を抱えている。さらに言えば彼らのルーツは、ソ連に抵抗するためにアメリカが育成した集団である。アメリカとイスラム原理主義もまた、同じところに起源を持っている。

 国家と、伝統的に培った信仰とが巧みに共存し、人々の精神的安寧をもたらす世界観は、なかなか現代で想像しづらくなってしまった。わが国では伝統的に民俗信仰による共同体的国家観を培ってきたと言える。しかしそのわが国ですら、ビジネス文化と外国人労働者の流入なくして回らない経済が、共同体的国家観をはぐくむ事を妨げている。今こそ日本の伝統の古層に還り、自ら培った世界観を取り戻す事が求められているにもかかわらずである。

 神武天皇は八紘為宇を宣言し、それがわが国の建国における大きな精神のひとつとなっている。八紘為宇はナショナリズムではない。しかしすべてをまぜこぜにするグローバリズムでもない。「各其処を得る」、すなわちすべての民族がその培った伝統を発揮し、共存していくことである。相互理解の下に各住む領域を定め、共存していく事ではないだろうか。

 最初に書いたとおり、合理主義による近代社会は人間を真に鼓舞する、生命の源を希薄化させてしまった。それへの批判精神を持った上で、新たな理想を提示しなければならない。それこそが「八紘為宇」の世界観である。新たな大理想を描き、それへの実現に努めることがわれらの使命ではないだろうか。

靖国神社に参拝

 昨日は仕事終わりに靖国神社に参拝に行ってきた。

 手と口を清めて参拝のために並んでいるときに、急に夕立が降るという宗教的な出来事があり、普段はあまり感情が波立たないのだが、わが国と自身のふがいなさにとても悔しい気持ちになり、めそめそしてしまった。

 安倍首相が来たから何だということもできるし実質的な政策が伴っていなければ何にもならないということはわかっているが、それでも今に始まったことではないものの外圧に屈したことは疑いなく、情けない気持ちでいっぱいである。

 傘もさしたくなく、ぬれたまま神保町までとぼとぼと歩いて帰った。

 英霊を真に顕彰できる日本にしなければならない。

経済的繁栄による頽廃

今日たまたま唐木順三の『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(ちくま学芸文庫)をぱらぱらとめくっていた時に、印象的な一節を見つけたのでご紹介したい。同書に所収されている「私の念願」という講演録からである。

私は、世間から、反近代の男だという区分けをされておりますが、実際、私は、反近代、つまり近代をこのまま発展させていっては、いよいよだめになるばかりで、どこかでストップをかけなければいけないと思う、そう言ったり書いたりしてきております。
この現下の、八方ふさがりということは、いちいち例をあげて申さなくても、皆さんが現実に実感されておられることと思いますが、たった一つの例をあげます。
松下電器という大きな会社があります。ここから「PHP」という小さな雑誌が出ていて、毎月私のところへも送ってきますが、このPHPに私は反対です。Pは平和で、Hは幸福、あとのPは繁栄(prosperity)という意味です。「反映を通じての平和と幸福」だそうです。企業会社のことですから繁栄にこしたことはないし、松下のテレビや洗濯機、その他いろいろなものが売れるほうがいいに決まっています。それを繁栄と言えば言える。繁栄という言葉を主として経済的繁栄の意味にとっているのが常識になっています。
高度成長時代、所得倍増時代、つまり昭和三十年代以降ですが、三種の神器とか言って、電気洗濯機と冷蔵庫と、もうひとつ何かです。そういうものを持つことが、繁栄の一つのシンボルとされてきました。それから五年か十年すると、車とクーラーとカラーテレビの三つのC、これが繁栄のシンボルだと言われてきました。今では、どこへいっても電気洗濯機やカラーテレビがあり、車も普及している。三種の神器でも珍しいものでもなくなってきたところに、経済的繁栄という事態があるわけです。しかし、果たしてそのような繁栄が、平和を、心のゆたかさや和らぎととってみて、そのような平和をもたらしたか。また、果たしてほんとうの幸福、仕合せをもたらしたかと言えば、私は、むしろ逆だと思います。
経済的繁栄によって、どのくらい人間が頽廃、あるいは好ましくないほうへ落ちてきたかとうことは、私がいまさら言うまでもないことです。皆さんのほうは、現実の社会生活をなさっておるだけに、実感として強く感じておられることと思います。そういう現在の行き詰まりと頽廃を、単に政治的問題、社会的な問題として受け取るだけでなく、人間自身の問題、自己の問題として考える、あるいは解こうと努力することが、教師の心のあり方、あるいは心のいちばん奥のほうにあってほしいことです。

戦後の頽廃をGHQの日本弱体化政策、3Sだとか、進歩的文化人の跳梁だとかいうのは、その通りだとは思うものの、どこか物足りないものを感じる。それに加えて、やはり資本主義という左翼思想を大衆から無条件に信じたことを付け加えないわけにはいかないのである。
経済的繁栄は故郷と伝統と共同性をことごとく破壊するだけに終わった。経済成長を妄信する態度はそろそろ改められるべきであろう。

蓑田胸喜の政治思想―国家は改造できない―

『論語』の有名な一節に「子曰く、学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや。朋遠方より来る有り、また楽しからずや。人知らずして恨みず、また君子ならずや」というものがある。学んだことが自らの血となり肉となることはなんて喜ばしいことか。人に知られていないからといって恨んだりしないのが君子ではないか、という最初と最後の一節はわかる。だが真ん中の説で友達が遠くから訪ねてくるのは楽しいですねとは当たり前すぎるのではないか、と言われる。遠方から来る「朋」とはいったい誰なのだろうか。
本を読んでいると著者の言葉によっていままでもやもやとしていた感性が、何かに導かれるように確固たるものになっていくことを感じることがある。そんなとき、著者が目の前に現れてきて、教えを受けているかのような気持ちになることがある。その師は、場所はおろか時代をも同じくしていなくとも、人は言葉で誰かとつながることができる。それこそが「朋」が遠方よりやってきた瞬間なのだろう。だとすれば、最後の、人が自分のことを知らないからと言って恨まないのが君子ではないかという章句にもまた違った解釈が生まれ得るのではないか。つまり今の自分が誰からの理解も得られず不遇だったとしても、自らの考えを言葉にさえ残しておけば、遠く離れた誰かが、百年先、千年先の誰かが自らの価値を拾い上げてくれるかもしれない。だから恨まないのである。その可能性だけを信じて世俗の栄達よりも己の言葉を残し続ける人間。それはまさしく「君子」ではないだろうか。
同じく『論語』に、「徳は孤ならず。必ず隣りあり」という言葉がある。徳を持つ者には必ず味方が現れるという意味だが、これも同じく、なぜ徳は孤立しないのか。遠い過去に、そして遠い未来に、この広い世界のどこかに、必ず自らの徳に共鳴する人物がいるからである。目先の私欲ではなく、百年前の人物から学び、百年先の同朋に語りかける。まさに君子のみがなしうる仕事ではないか。それを目標としたとき、必ず人間の在り方から議論を出発させなければならない。目先の制度など、はるか先にはどうなっているかわからないからだ。

制度を論じるものは必ずスローガンで人を籠絡しようとする。だが、スローガンなんかでは人は変わらない。表面上動いたふりをするだけである。真の自覚がなく、制度だけ変更して何かをなし得たかのように満足しているようでは駄目なのである。
本当の問題は、制度や構造といった無機質なものにあるのではなく、人間そのものにある。人間の在り方を問うことなしに現代社会の問題を抉り出すことなどできない。制度の変更を主張すれば、それは「わかったつもり」になるかもしれないが、制度を変えるだけでは国家が真に健康を取り戻すことはない。

蓑田胸喜という人物がいた。人は彼を悪しざまに罵り、「狂人」と言った人もいた。だが、本当にそうだったのだろうか。「狂人」は極端な例としても、蓑田を煽情的な言論ばかり述べていたような人物であるとの評価は数多くなされてきた。なるほど蓑田の言葉はたしかに煽動的な言葉遣いが多かった。だが、それに囚われて蓑田の本当の思想になかなか気付けなかったのは、人々がいかに世俗の栄達、力関係に汲々とさせられているかを思い知らされる。
保田與重郎の自叙伝と言える『日本浪曼派の時代』のなかに蓑田胸喜について触れている箇所がある。
有名な慶大教授の蓑田胸喜氏は、東大で哲学を専攻した学者だが、ある時私に、我々は経済学を学ばなかつてよかつたねといつた。経済学をやるやうな人間は、みな人がらがいやしいと極言して嘆息された。そのころの東京大学経済学部の教授たちをながめて、この批評が当つてゐると、私は思つた。そののちの戦中戦後のその人々の世渡りぶりを見て、私の心は滅入つた。蓑田氏については私はよく知らないが、戦後にこの人を非難罵倒することによつて、自己弁護をしたやうな多数の進歩主義者の便乗家とはちがつて、私の印象では清潔な人物だつた。極めて頑迷固陋といはれたが、筋が通つてゐた。勿論日本浪曼派とは無関係な人である。ずゐ分困らされたといふ人がゐるときいたが、世間栄達に無関心なものなら、何も困る必要はない。世渡りの妥協を自他に顧ない人で、世間の世渡りの思惑を無視する人があるものだ。困らされる人が、本当の学者なら、困るといつてはならぬ。文士とか政治家とは、みなさういふ超世間的のものだ。しかし世間なみの公務員や会社員の職をおびやかすやうなことには、よほどの思慮がなくてはならぬが、文士同志学者同志では、さういふ世俗の思慮は無用でよい。教授の職より学を愛することの出来る人なら、蓑田氏を怖れる必要がなかつた筈だ。権力地位より正論に謹んだ人で蓑田氏を怖れた例を私は知らない。『保田與重郎全集』第三十六巻193頁。旧字体を新字体に改めた。
これほど蓑田を正面からまともに評した人は他にはいないだろう。蓑田は己の主張に一本筋が通った人で、ときに論証が至らぬままに早急に結論を出しすぎていると感じる部分もあるが、それは文章を書くものなら誰でも陥る可能性のある範囲内であり、決して狂人扱いされるものではなかった。
例えば立花隆は『天皇と東大』で蓑田を、狂信的に赤狩りを行ったといった類の評価しかしていないが(下巻55頁等)、蓑田胸喜の思想は全くそういうものではない。片山杜秀が「彼らには彼らなりの批判の論理が一応あったのであり、その思想排撃の論説の中には、今日もなお読み込むに値するものがある」から、「どうして「戦時中の一時期の悪夢としか言いようのないもの」とまとめて片づけてしまうことができようか」。と言い、蓑田の思想をその師三井甲之とともに「天皇の存在する日本は何もせずともそのままでよい国のはずで、どこが悪いからいじろうとか、体制を変革しようとか、余計なことを考える必要はないということである」と評して、彼らが左翼だけではなく北一輝や大川周明、権藤成卿も激しく批判していることに注目している(『近代日本の右翼思想』93~97頁)ように、蓑田は決して単に赤狩りをしていたわけではないし、東大への私怨によるものでもない(こともあろうに東大で反国体的教説がなされるとはけしからん、と思っていたことは確かだろうが)。
ちなみに片山は蓑田の思想を、天皇の存在する日本はこのままで良い国だから体制を変革する必要はない、という考えだと単純化して述べている。たしかに蓑田は左右に関わらず体制を変革する思想を攻撃し、「マルクス主義である」と決め付けたが(蓑田にとっての「マルクス主義」とはカール・マルクスの思想と言うよりは現行の秩序を乱す思想の象徴であっただろう)、現状にまったく問題がないと思っていたわけでもない。蓑田は反共的であったが、いわゆる資本主義的な発想を擁護したわけでもないし、資本主義の進展により貧者が生活難に陥っている事態をよしとしたわけでもない。蓑田は言う。「筆者がかくいふ(=国家社会主義批判の中で私有財産制度を廃止することの不可能性を説いた)のは、断じて『私有財産制度の神聖不可侵』を説かんとするものではない。かかる観念はことに日本の国法上には本来ないのである。帝国憲法第二十七条に曰く、『日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニヨル』」と。而して伊藤公『憲法義解』は右後に註していふ、『所有権ハ国権ニ服属シ法律ノ制限ヲ受ケサルヘカラス…無限ノ権ニ非サルナリ…各個人民ノ所有ハ各個ノ身体ト同ク国権ニ服属ノ義務ヲ負フ者ナルコトヲ認知スルニ足ル者ナリ』『公益ノ為ニ必要ナルトキハ各個人民ノ意向ニ反シテ其ノ資産ヲ収用シ以テ需要ニ応セシム此レ即チ全国統治ノ最高主権ニ根拠スル者ニシテ而シテ其ノ条則ノ制定ハ之ヲ法律ニ付シタリ』『普天之下莫非王土、率土之浜莫非王臣』―これ実に林氏らの希求せる『国家社会主義』の最高の理想的原理ではないか? 何を苦しんで西欧起源の『国家主義と社会主義の結合』といふ如きつぎはぎものを模索するの要あらん。われら日本国民は帝国憲法を遵守することによつて、資本主義または私有財産制度の弊害はこれを公然論議しまた合法的に改革し得るのである」(『蓑田胸喜全集 四巻』767~768頁)。蓑田のこの帝国憲法解釈は拡大解釈であろう。だがあえて帝国憲法に即して論じているところに蓑田の思想的特徴がよくあらわれているように思えてならない。

日本文化は、混淆の文化ともいわれる。岡倉天心が「シルクロードの終着駅」と呼んだように、アジアの様々な文化が日本で溶け合い、さらに、明治維新頃からは西洋の文化をも取り込んだ。これを雑種の文化と呼ぶ人もいる。だが、世界に於いて雑種ではない文化など存在しない。そして、雑種の中にも異文化を取りこむ芯がなければ、異文化に飲み込まれて、日本は今の姿を保てていなかっただろう。その芯とは何かを考え続けた人物の一人に、蓑田胸喜がいるのではないだろうか。
竹内洋は蓑田やその師三井甲之について、こう述べる。「明治の知識人にとって、西欧は外側にあるぶん和魂洋才がありえた。しかし、しだいに西欧は知識人の身体文化となった。西欧は知識だけでなく、風物にも食い込んだ。しかるに満州事変の勃発もあいまって、人々は民族のアイデンティティを求めざるを得ない。そうした時代に、本郷知識人のアウトサイダーであった蓑田や三井は、帝大教授の身体に洋魂洋才(「半西欧人」)の生ける凝縮つまり万悪の根源をみる」(「帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌」『日本主義的教養の時代』44頁)。
蓑田胸喜は親鸞や山鹿素行などを多く引用し、しかも非常に好意的に評価している。思うに蓑田は仏教という外来思想を日本化した親鸞を称揚し、儒教と言う外来思想を日本化した山鹿素行を称揚したのであろう。西洋思想は誰であろうか。蓑田は自分であるという自負があったかもしれない。すでに「原理日本」最初の号に書いた「高畠素之氏の「反訳思想」」においてこう述べているのである(ちなみに「反訳」とは「翻訳」のこと)。「東洋文明の摂取に当つてもその過程には単なる反訳模倣時代と人物とがあつたけれども、日本人はそれに止らず進んで創造的開展を与へたのであつた。儒教仏教によって代表される印度支那の東洋思想は先には聖徳太子によつて、後には親鸞素行によつて折伏摂取されてしまつたので、日本の仏教と儒教とは本来の意味での仏教儒教ではないもになつたのであつた。若しさうではなく日本が何処までもそれらの東洋思想に反訳模倣的態度で終始したであらうならば、日本もまた印度支那と同一の運命に陥つてをつた筈である。さうならなかつたところにこそ日本精神日本思想に「東洋一の美点」ともいふべきものが潜んでいるので、真の日本精神は「知識を世界に求め」つつ「大いに皇基を振起」し来つたのである。それが日本精神に独自のものであつた」(『蓑田胸喜全集 一巻』269頁)。長々と引用したが、ここには日本思想の優越が語られる一方、外来の排除とも無制限の需要とも違う、蓑田の外来思想に対する考えがよくあらわれている。

三井甲之は昭和二十年七月、「天壌無窮必勝の信念」と言っているだけではダメで、「億兆一心義勇奉公」を果たさなければ、という当時の意見を明確に否定した。何よりも「天壌無窮神州不滅」であることを確信することが先決であり、「億兆一心義勇奉公」はそれに伴う結果でしかなかった。それは「億兆一心義勇奉公」によって「天壌無窮神州不滅」を達成しようという平泉澄らの議論とは対立するものであったという(昆野信幸『近代日本の国体論〈皇国史観〉再考』7頁)。「観念右翼」の面目躍如と言ったところであろうか。
なるほどこういう議論を眺めていると、三井や蓑田は「天壌無窮」「神州不滅」をひたすら叫ぶだけの狂人として理解されかねないだろう。だが、彼らの議論が常に人間の在り方から出発していることを忘れてはならない。彼等は自らの思想の実効性など気にしているわけではない。百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけている。「億兆一心義勇奉公」を重んじたとき、それは「現実的」のようでいて、実はその目線が「今」にしか向いていない。時空を超えた長い目で見たとき、「天壌無窮」「神州不滅」と「億兆一心義勇奉公」のどちらが上位の概念化と言えば、「天壌無窮」「神州不滅」に決まっているのである。
三井や蓑田は親鸞の絶対他力の思想に傾倒していた。人為的に世の中の在り方を変えようなど自力救済の不遜極まる行為である。天皇のもとにある「あるがままの日本」を深く自覚し、それに身をゆだねることで一体となっていく。それこそ悠久の大義に沿う行為なのである。
三井や蓑田は百年前、千年前の先人から声を聴き、百年先、千年先の日本人に働きかけることを目指していたに違いない。それがなかなか理解されない時に、彼等はその苛立ちをもっとも煽情的な言葉で表現したのではないだろうか。

平泉澄や崎門学などの考えでは日本の国体が無窮であるということは、皇室や国民のたゆまぬ努力によって支えられてきたのであって(「億兆一心義勇奉公」)、そのまま与えられたものではないという観点に立つ。それは確かに細かく見れば三井蓑田の世界観と対立するものであっただろう。だが一方で、大きく見れば三井蓑田も「億兆一心義勇奉公」を否定したわけではないという点で両者に大きな違いを認めることはできない。三井蓑田はまず「天壌無窮神州不滅」の深い確信を求めたのであって、それのない中での「億兆一心義勇奉公」の奨励はつまらぬ制度変革の議論に終始しかねない。それでは西洋思想に毒されたわが国の社会科学的知識を改めるには至らないどころか、むしろ悪化させることになりかねないのである。多文化を包摂した日本。それはアジアの各思想から、明治維新後は西洋思想にまで及んだ。しかしその中には一本貫く中心がある。その主体なしに外国の文化文明を取り込むことなどできようはずがない。その中心こそ「天壌無窮神州不滅」である。その中心への深い確信なくして如何なる議論も始まるはずがない。

細かい議論の際は置いておいて、戦前昭和の時代は人間の生死の問題や如何にして生きるのかという問題がそのまま政治的大義に直結する時代であった。ここでいう「政治」とは「政権」とか「政局」の意味ではなく、「政治思想」の意味である。例えば林房雄は『青年』で、次のように言うのである。
「人間のすべての社会的活動を、その努力を、その創造を否定するならば、人はただ、生まれ、食べ、交尾し、子供をうみ、そして死ぬてんとう虫と異なるところはない。だが、人間はてんとう虫ではない。人間を「万物の霊長」と称する古典的解釈は、けっしてまちがいではなかった。虫は自然の意志のままに生きそして死ぬ。人間は自然の意志に従うと同時にこれに逆らって、生き、死に、しかも、ついに大自然の意志を完成するのだ。
大義のために死し、わが名を青史に列ねようとする努力―これこそ人間として誇りうるただ一つの人間的努力である。自分はまちがっていなかった。迷う必要はない。」(『現代日本文学館28 林房雄・島木健作』112頁)

なお、三井や蓑田、あるいは平泉澄も含め戦前には天皇親政論者が多かったが、蓑田も含めた天皇親政論者が天皇の独裁を主張しているかのような誤解もいまだに多い。上杉愼吉は「国体に関する異説」で「仮令心に君主々義を持すると雖も、天皇を排し人民の団体を以て統治権の主体なりと為すは、我が帝国を以て民主国なりと為すものにして、事物の真を語るものに非ずと為すのみ」と言う(『近代日本思想体系33 大正思想集Ⅰ』6頁)。あるいは蓑田胸喜は「帝国憲法第十条に曰く『天皇ハ行政各部ノ官制及文武官の俸給ヲ定メ及文武官を任免ス』と。(中略)行政法を講ずるもの、その直接の第一依拠を本条に求めざるもの一人としてなきにも拘らず、美濃部氏を始め従来殆どすべての行政法学者は異口同音に『行政権の主体は本来国家である。』の語を以てその論理を進むるのである。これいふまでもなく憲法論上に於ける『国家主体・天皇機関説』の行政法論へのそのままの適用である。即ち、『統治権の主体』を以て国家となすの結果、その統治権の一成素たる『行政権の主体』も亦国家なりとするのである」(蓑田胸喜『行政法の天皇機関説』原文旧字、蓑田胸喜全集第六巻231頁)という。
両者がここでこだわっていることが『統治権の主体』という言葉であることに注目したい。「統治権の主体」即ち「主権」なのだが、現代風に言い換えれば、政治の正当性あるいは正統性の所以ということではないだろうか。なぜ政府は行政的命令を国民に発する権限があるのか、その由来は天皇ではないのか、単に国民としてしまってよいのか、と問うたのである。あるいは、行政官は天皇に任命されるが、それは天皇が大権を持っているからではないのか。大権を持っていないものがどうして任命できるのか、と問うたのである。
蓑田胸喜は「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」という。天照大御神も八百万の神の意向を確認し、孝徳天皇は臣下と共に治めたいと欲せられ、明治維新の際には万機公論に決すとされた。独裁は天皇みずから取られなかっただけではなく、国家機関(=政府)にも許さなかったことを強調した(「天皇親政と輔弼機関の分化重層」『蓑田胸喜全集』第六巻964~966頁)。蓑田は決して議会が存在することを否定していない。議会が政党に私物化され浅はかな民意が大手を振うことに嫌悪感を示したのである。天皇親政論は天皇独裁論ではない。

蓑田胸喜を「全体主義者」「ファシスト」とレッテルを貼って片づけようとする議論も後を絶たない。だが先ほど蓑田が「天皇親政といふことほど西欧に所謂独裁政治と遠きものはない」と論じていたことを引用したように、当然と言えば当然だが、蓑田もまた独裁政治を厭う人間だったのである。そして戦前昭和では日独伊三国同盟を結んだ頃から、ナチスドイツやムッソリーニのファシズムに対する軽薄な共感を示すことも多かった。近衛文麿もヒトラーのコスプレをしたこともあった。しかし蓑田は、ヒトラーやムッソリーニに対し痛烈な批判を加えていたのである。
もっとも、蓑田は最初からヒトラー、ムッソリーニに批判的だったわけではない。ムッソリーニが出てきた当初は、蓑田はムッソリーニに「宗教的信念」と「道徳的感激」が政治の上に集中させられつつあると、祭政一致の大理想を見ていた(『学術維新原理日本』蓑田胸喜全集第三巻305~306頁)。ムッソリーニは「まことの人生宗教、祖国愛の熱烈なる求道者」であると絶賛している。
しかし『学術維新』においては「ナチス精神」は國體の相違から来る思想を除いてはわが国の武士道と通じるものがあると述べている(『学術維新』蓑田胸喜全集第四巻715頁)ものの、この時すでに『我が闘争』に見えるアーリア民族優越論と日本文化に対する蔑視的個所を指摘し、抗議していることは注目すべきことである(同724~725頁)。蓑田はそのうえでナチス追随の日本の言論の風潮を批判したのである。
ここでは蓑田がヒトラーやムッソリーニをどう評価していたかと言うよりも、彼らに対する評価基準に祭政一致ともいうべき道徳と政治の統一を望んでいたことの方が重要である。

蓑田胸喜は「日本」という概念を原理的に信仰した。蓑田は日本文化が支那文明もインド文明も包摂しうる強固な理念であると考えた。それらを熱烈に進行することに因って自ずから物事は展開していくのであって、人為的な力で変革しようなどという自力救済の思想を蓑田は認めなかった。
蓑田の思想を一言でいえば、「国家は改造できない」と言うことであろう。国家改造とは国家が機械的に改変できると考えているということであり、国家を唯物的に考えているということだ。制度が変われば、システムが変わればバラ色の未来が訪れる。そんな妄想を垂れ流せるのは国家がシステムによって運営されていると信じているからである。国家はシステムではない。国家は生命体であり、共同体である。したがって改変の方法は構成員一人一人が自覚し、覚醒していくことだ。

一読者として、政策の議論にはある特有のつまらなさがある。それは「仏作って魂入れず」になりはしないかという懸念である。政策を論じるならば、そこに込めた精神を論ずるべきであり、そうでなければ片手落ちになのである。
政策の議論をすれば「具体的」で精神の話をすれば「抽象的」で「口先だけなら何とでも言える」。そのような陳腐な心性に甘んじることはできない。何のために政治を論じるのか。それはわれわれが政権担当者となって甘い汁を吸うためではない。果たすべき大義を先人から預かっているからだ。それを果たすには通り一遍の政策の議論で済むはずがない。
蓑田が明治天皇御製をその著作に挟み込むのはつまらぬこけおどしでもなければ狂信的な精神でもない。そこに先人から受け継いだ大義が宿っているからだ。

バングラデシュのテロとアジア主義、維新

 バングラデシュで武装集団が外国人客らを人質に立てこもり、日本人も犠牲になる事件が発生した。実行犯は現地ではエリート層に属する青年であるとみられ、イスラム国との関連が取りざたされている。許しがたい事件ではある。
 しかし同時にわれわれの側にも見直すべきところはなかったのか。

 小泉内閣がイラク戦争に賛同し、戦争協力に踏み切ってからというもの、日本政府の態度は常にアメリカに寄り添うものであった。この間にわが国の総理大臣は何人も変わっているが、皆ほぼ一様に「テロとの戦い」等、アメリカ政府が述べる「戦争の大義」を繰り返したに過ぎなかった。そこには苦悩も感じられず、自らの言葉すらも失ってしまった姿がある。
 アメリカがイラク戦争でフセイン政権を倒したころから、イスラム世界には無秩序が一層広がり始めた。当時、ブッシュ政権は「フセイン政権を倒せばイスラム世界に民主化がドミノのように広がり始める」と薄甘い楽観論を述べていたが、ドミノのように広がったのは「民主化」ではなく「無秩序」や「憎しみ」の方であった。フセインを倒し、ビンラディンを倒し、カダフィを倒したが、中東から無秩序と憎しみの連鎖が断たれることはなかった。アルカイダの次はISILと、イスラム勢力は過激化する一方ではないか。アメリカは泥沼化した戦争に入り込んでしまったのである。グローバル資本に搾取された欧米のイスラム系移民の憎しみと、戦争により平穏な生活を失った中東・アフリカの憎しみが結びついて起きたのが一連のテロ行為である。
 日本はアメリカとともにイスラム世界に無秩序や憎しみをもたらした張本人であるということを忘れてはならない。しかも、さしたる使命感もなくただ保身のためだけにそのような選択をしたということを、胸に刻み付けるべきだ。

 しかも日本をはじめとした国際資本は、現地民を低賃金で使い捨てる縫製工場を乱立させ、いわゆる「ファストファッション」はバングラデシュをはじめとした低賃金労働によって支えられている。現地民は一日十二時間以上働き、休みも月に一、二回しかないと言う。また、工場からの汚染水や農薬による深刻な健康被害、川や海などの汚染による漁業被害が現地では起こっているという。こうした代償を払いながらも、肥え太るのは巨大資本だけであり、現地民を搾取している巨大資本には、もちろんわが国の資本も含まれている。

 そうした対米追従の外交とグローバル資本による搾取が、テロの直接的原因ではないだろうが、遠因となっていることは否定できないだろう。

 歴史を近く見たときのアメリカニズム、長く見たときの西洋近代の価値観、そういったものを根源的に見直さなくてはならない。各国がそれぞれ培った伝統文化に回帰することが、それへの強力なアンチテーゼになるとわたしは考えている。そしてそれを主張した人達こそ、戦前のアジア主義者たちであった。

 アジア主義は確かに列強の植民地政策に対する反発と言う側面もあった。しかし彼らはそこからさらに一歩哲学的に踏み込んで、西洋近代の価値観の根本的な見直しにまで言及していた。『大亜細亜』の創刊の辞でも、「メッカ巡礼を二度敢行した興亜論者田中逸平は、「大亜細亜」の「大」とは領土の大きさでなく、道の尊大さを以て言うとし、大亜細亜主義の主眼は、単なる亜細亜諸国の政治的外交的軍事的連帯ではなく、大道を求め、亜細亜諸民族が培った古道(伝統的思想)の覚醒にあると喝破した。大道への自覚と研鑽、伝統の回復こそが大亜細亜の志なのである。國體の理想に基づき国内維新を達成し、亜細亜と道義を共有していくことが、我らが目指す道なのではなかろうか。それが「八紘為宇の使命」にほかならない。」と謳われている。

 わたしの個人的見解だが、例えばかつて民主党政権時に持ち上がったような「東アジア共同体」構想のようにアジア各国との単純な政治経済的連帯、EUの東アジア版を作るような構想ではダメで、そこに「国際資本の規制、撲滅(アジア域内であっても)」と「各国の伝統への回帰」がなければならない。そしてそれを実現させるためにはあらゆる政権を打倒しなければならないぐらいの困難な道が待っていることくらいは自覚しているつもりである。
 そのためにまず大アジア主義発祥の地日本で、維新が為されなければならない。維新とは単に政府転覆を意味するのではなく、しつこく述べるように、「国際資本の規制、撲滅」と「伝統への回帰」への国民の自覚と覚醒が目指されなくてはならないのである。単に政策の問題ではなく、「自覚と覚醒」が必要だというところが重要な要素なのだ。

大アジア研究会発行『大亜細亜』創刊

 わたしも参加している「大アジア研究会」の機関紙『大亜細亜』が創刊されました(リンク先ご参照)。

 わたしは「陸羯南のアジア認識―『国際論』を中心として」と、「時論 価値観外交の世界観から興亜の使命へ」の2本を書かせていただきました。

 ご参照いただけたら幸いです。

大亜細亜創刊号

左の画像からも『大亜細亜』の閲覧が可能です。是非ご覧ください。

良書紹介 11

 イギリスのEU離脱によって、グローバリズムが終焉を迎えるのではないかと言う甘い期待を述べたが、グローバリズムは意外に複雑だ。というのもグローバリズムは国際企業を中心とした市場秩序が国境や文化の壁を破壊していくというボーダレス・エコノミーの部分と、超大国(アメリカ)の国益に過ぎないものを「これがグローバルスタンダードです」とすべての国に押し付けていくという帝国主義の部分がないまぜになっているからだ。そのどちらもわが国にとって有害でしかないが、その事象を分析するときは両面を見なくてはならないだろう。今回のイギリスのEU離脱については、シティの金融市場の崩壊を見る一方、アメリカの国益の押し付けについては何も毀損されていない。少し自分も浮かれ過ぎていたかもしれないと思ったので記しておきたい。

 さて、久しぶりに良書紹介を行いたい。
井尻千男『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』
小川栄太郎『小林秀雄の後の二十一章』
中島岳志『下中弥三郎』

 井尻千男『歴史にとって美とは何か 宿命に殉じた者たち』は井尻の遺稿集である。特に「醍醐天皇とその時代」が素晴らしい。天皇親政―遣唐使廃止―古今和歌集編纂の三つの自称が織りなす当時の精神状況を鮮やかに描き出しており読む者に深い感動を与える。

 小川栄太郎『小林秀雄の後の二十一章』は力の入った書物であり読む者を引き込む力がある。著者が安倍総理礼賛であるため、なかなかその本を開くのが遅くなってしまったが、その著書は非常に素晴らしいものであった。

 中島岳志『下中弥三郎』は数々の思想遍歴のある下中の思想を、本人の発言、行動を丹念におさえることで描き出している。下中の人生を貫くユートピアへの思いを描いたことは大いに興味深いものとなっている。

 良書に触れることは脳のごちそうであり、食事が欠かせないのと同様に脳には読書が欠かせない。その中でも素晴らしい本に出合うことで自らの思想がより研鑽されれば良いと考えている。

グローバリズムの終焉―英国のEU離脱について―

 英国が国民投票によってEUから離脱することとなった。それによって今国際社会に大きな衝撃が走っている。短期的な目で見れば世界経済が混乱し、日本にとって不利益が起こる事態となるだろう。
 しかし長期的な目で見た場合、事態はまったく異なる。そもそも今回の国民投票では、事前の予測では残留派が多数を占めるだろうと言われていた。しかし地方部で離脱派が多く、その声に押し切られる形で離脱が決まることとなった。残留派であったキャメロン首相は辞任を強いられることとなった。

 EUは国境を無化させるグローバリズムの象徴でもあった。しかし、グローバリズムにより移民が押し寄せ賃金は上がらず、地方は荒廃し、格差が一段と開くこととなった。そして移民が多くなることに因って自らの国のよって立つ基盤が見えなくなってしまった。

 移民は二重の意味で社会を崩壊させる。一つは外国人が多く入り込むことでアイデンティティが揺らぐこと。もう一つは低賃金労働者が多く入り込むことで賃下げ圧力となり、格差が拡大することだ。多くの英国人が移民による失業や社会福祉のタダ乗りに反感を持っていた。英国民のこの決断は国際政治、国際経済を大きく動かすに違いない。端的に言ってグローバリズムの時代は終焉し、ナショナリズムの時代が幕を開けるということである。

 ところでアメリカのトランプがこの問題について、イギリスのEU離脱を好意的に見ていることは興味深い。トランプは記者団に「グレートなことだと思う。ファンタスティックなことだと思う」と述べ、さらに、英国民投票と米大統領選での自らの選挙戦について「実に類似している」と語り、「人々は自分の国を取り戻したいのだ。独立が欲しいのだ」と述べたという。もちろんこれはトランプの機を見るに敏な政治家の本能かも知れないが、しかしトランプが国際資本から縁遠い存在であるのかもしれないということも思わせるのである。内向きになる国際政治国際経済では、だましだまされる外交関係が求められる。卑近なたとえで言えば、本能寺の変の後、上杉、北条、徳川、豊臣の勢力争いを利用してうまく泳ぎ回った真田昌幸の態度が求められるのである。アメリカについていくだけの我が国の国際政治的態度や、自動車などの輸出産業に頼った経済政策も見直しも迫られるに違いない。

 もちろんイギリスはヨーロッパ大陸からドーバー海峡を隔てていることで、EUの中では「異端児」であった。今回の事態も大きな問題にならず収束してしまう可能性も考えられる。冷静に状況を見つめるべき必要があることは疑いない。しかし、一つだけ言えることはグローバリズムは早晩そっぽを向かれる日が来るということだ。思想もまた人間社会の原初に立ち返ることが求められている。

 今回の件はわが国にとって朗報であり悲報である。グローバリズムによる国際資本の跳梁、移民導入の機運、外国崇拝が終わりを告げるかもしれないという意味では朗報であるが、その後に訪れるナショナリズムの時代を、いまだに冷戦時代の外交、軍事構造から改められていないアメリカべったりのわが国が生き残っていけるだろうかと言う意味で悲報である。われわれは激変しつつある国際政治経済のうねりの中で自らの生存を達成しなければならないのだ。

 私はかつて以下のように書いたことがあった。手前味噌ではあるが再掲して本稿を終わりたい。

グローバル資本主義の問題点

 資本主義の進展により人がカネに動かされ、利益にならないものが軽んじられる傾向は、経済のグローバル化により一層拍車がかかった。世界経済はグローバル化と称してあてのない拡大を続け、それは輸出入の「自由化」から、人材の行き来、カネの出回りにいたるまであらゆる範囲に及んだ。だがそれらはほぼ惨憺たる失敗に終わっている。金融関係はリーマン・ショックで破綻し、人材の行き来はあらたな底辺層の登場と、中間層の消失、格差の拡大につながっている。通貨の統合は周辺弱小国の破綻となって跳ね返ってきた。それがなくとも統合により零細農家が続々と廃業しており、失業率は高止まりし、いずれはガタがくる仕組みであった。
 通信、交通技術の進歩により、市場は国境をはるかに超えて拡大している。だが、そうした中に生まれた「グローバル」な市場には歴史的積み上げがない。シルクロードの交易などと現在のグローバル経済は全く異質なものである。
 グローバル化は国境の観念を消失させようとする。それは制度面でも、意識面においてもそうである。自然発生した事物と人間とのかかわりなどは、むしろ人為的に制御することが必要になる。現在の資本主義市場はマネーゲームやあるいは赤の他人が集う職場で仕事をする形態から見ても、人為的な事物である。人為物の暴走は人為で止めるよりあるまい。ましてやグローバル化など、市場の拡大のために自然発生的に培われた国境の概念をも超えようとしているのだから、全く人為的な産物と言うべきだろう。
 いくら言い訳をつけても、自由競争の結果は経済の無政府状態にならざるを得ない。無政府状態という言葉がわかりにくければ、無秩序状態と言い換えてもよい。企業家は雇用や国際競争力を人質にして賃下げの容認を迫る。そのつけは政府が支払わざるを得ない。そうならないように政府は「自由貿易協定」という名の密室の交渉で、自国に有利になるように他国と条約を結ぼうとする。しかし、それが成功したとしても、やはりそのうまみは1%にしか入らず、99%は貧困化するのである。そうして経済の無秩序化は深刻になっていく。
 元来、資本主義は、「すべての価値を市場が決める」という前提で成り立っている。その市場がなぜ公正な判断を下せるのか、という疑問に対しては「神の見えざる手が働くから」というオカルト信仰でごまかしてきた。だが、市場は個人が生活できるほどの所得を本当に与えるかどうかはわからない。「グローバル化」によりますますそれは不確かなものになった。物価は先進国基準であっても、賃金は新興国と「競争」させられるのだとしたら、それは人が生きられない仕組みである。しかし、資本はその帰結に責任を負わない。それは、資本主義が国家や社会を軽んじる思想だからだ。
 そのような非道な仕組みは改めるべきだが、グローバル化を肯定する論者は、市場社会の中で「努力」して「自分の価値を上げること」、つまり「競争」で優位を築け、と言うのである。だがこれは実際の給与生活者、即ち国民の多くを占める会社員の生活に何ら立脚していない。
 生まれ持った風土や文化を離れて企業が存在できると言う考えそのものが「グローバル化」の空論とも言える。人々が「自然」に育んだ文化や歴史を無視した、のっぺりとした「各国画一的な市場」というものは存在しない。仮に資本が海を越えるようなことがあったとしても、それはその先で必ず現地の文化の研究に迫られることだろう。ローカル市場は思うほどやわではない。ただし、グローバル市場とは違った論理で動いているので、グローバル市場の論理を杓子定規に当てはめてしまうと、おかしなことになるのである。「自国でダメだったから他国で儲ける」式の理屈は通用しない。いくら「グローバル化」だの「民間にできることは民間に」と叫んでみたところで、有事になればむき出しの国家の論理に支配されるのが現実の社会である。
 言うまでもなく国に存在する「規制」の多くは、慣習からなっており、社会の安定や秩序を守り、弱者を救う「持ちつ持たれつ」の関係が明文化されていったものだ。それを破壊して経済成長がなしえるなど、狂気の沙汰である。「規制緩和により既得権が解消されることで、誰にでもチャンスが訪れる」などというのは笑えない錯覚である。概して規制を「不便」と感じるのは強者であり、要するに規制緩和とは強者が弱者からより多くむしり取るために足かせを外せと言っているに過ぎない。政治力学上から言っても、多額のカネを献金してくれそうな有力な企業が規制緩和を要望するから政治家も動くのであって、その逆はあり得ない。したがって、「規制緩和」は概して既存の秩序を破壊して、弱者を苦しませる結論になってしまうのである。社会秩序を破壊した果てに「成長」がある、という幻想。その幻想はたとえ成長がなかったとしても、「まだ破壊が足りない」ということで正当化される。それはまるで「革命」の結果が惨憺たるものであったとしても、「まだ革命が足りないからだ」と言う理屈で正当化しようとした思想を見るようだ。新自由主義と共産主義は、真逆にありながら同じ発想をする双子の兄弟である。
 グローバル企業は、平時にしか成り立たない幻想の世界で商売を行っているようなものだ。そもそも市場の形成に際しては、同じ通貨(もしくは交換比が明確な通貨)を使い、会話が通じ、安全であることが不可欠だ。これらすべて市場だけではなしえることではなく、あくまで政府の前提があってこそ成り立つものだ。要するにこの通貨、言語、安全の前提が成り立たなくなった時点で、「グローバル」と言う幻想の世界はいつの間にか消滅して、世界は相変わらず主権国家の論理で動きだすのである。政府は今やグローバル企業の稼ぐ外貨なしでは運営もままならず、それゆえ政策的にあれこれ「支援」して見せるのだが、それはもはや「幻想の世界」なくしては立ち行かない、哀しき政府の姿でもある。賃上げしたり、企業に社会負担を担わせようとすれば「国外に出ていく」と脅しをかけられ、負担から逃れようとされる。また、そうした企業がはびこれば、優遇措置をとることで企業を誘致しようとする政府も出てくる。それを実現するための負担は一般国民から取られていく。我が国の企業は内部留保を多く抱えており、供給力に比べて需要が弱いとされる。ならば需要側(=消費者、=一般労働者)に優遇措置をとり、供給側(=企業、≒富裕層)に負担を願うのが当然の措置というものだ。だが企業が圧力をかけるため、その措置は取れない。企業の側も株主等に配当責任を負っており、おいそれと認めるわけにはいかない。しかし認めなければ結局需要は尻すぼみに小さくなり、経済は回らなくなるのである。ここに「社会的ジレンマ(=わずかの不利益を甘受すればかえって良い結果が出るにもかかわらず、誰もが自分だけはこのわずかな不利益をも逃れようとするために、結果より悪い状況に陥ること)」が発生している。
ところで今、安倍内閣のもとで賃上げ要請が行われているが、それによる賃上げは物価高に比してごく小さいものにとどまっている。したがってその影響はほとんどないと言ってよい。
 原理的に考えてみれば、新自由主義は規制緩和を好み官僚主導を嫌い、グローバル化や市場による競争を好意的に見つめることなど、国家意識が希薄な思想である。だからこそ新自由主義者は政府の役割を「夜警国家」などとたとえて見せるのである。三島由紀夫が嫌った「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」(「果たし得ていない約束―私の中の二十五年」)とは資本主義を骨の髄まで沁み渡らせた国家のことである。それは新自由主義の跳梁によってますます進んでいくだろう。