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鈴木宣弘「日本でも餓死者が出る」(『維新と興亜』第12号、令和4年4月)

『維新と興亜』第12号に掲載した鈴木宣弘先生のインタビュー記事「日本でも餓死者が出る」の一部を紹介いたします。

ウクライナ危機の陰で日本に飢餓が発生する?

── ウクライナ危機が起こったことにより、食料価格の高騰が起こっています。
鈴木 ウクライナ紛争で浮き彫りになったのは、食べる物を自国で賄えるようにしておかないと、いざという時に我々は生きていけないということです。この基本を今一度確認すべきです。特にウクライナ紛争前から中国の爆買いがだんだん始まって、小麦もトウモロコシも大豆も値上がりして、しかも中国の方が高い値段で大量に買う力がありますので日本は買い負けるという状況が起こっています。穀物だけではなくて肉類や海産物に至るまで、日本はすでに「お金を出せば買えるから輸入先をちゃんと見つけておけばいい」などという議論は成り立たないんだということをわからなければいけません。そういう時代がすでにウクライナ紛争の前から生じてきていて、特に今回それが危機的状況になったという印象です。
さらに、生産資材に至ってはより危機的な状況です。例えば化学肥料の原料であるカリとリンは日本には鉱物資源が不足しているため100%輸入に頼っています。日本は中国からかなり買っていたんですが、中国が輸出を抑制し始めて値段が上がり始めていたところにウクライナ紛争が発生し、カリやリンはロシアとベラルーシが中国と並ぶ大生産国なので状況がさらに深刻化しております。今年の分は何とか確保できているけど来年はわからないという状況に陥ってしまっています。このままではまさに餓死者が出るような食料危機が発生しかねない状況です。

『維新と興亜』第12号

── そのような危機的な状況に対して政府はどのような対応を取っているのでしょうか。
鈴木 まさに現在起っているのは食料危機なんです。生産資材も入ってこない状況で我々が生きていくにはどうしたらいいのかという議論を始めなければいけません。
ところが政府にはその危機感がまったくありません。岸田総理の施政方針演説では、「経済安全保障」と言いながら「食料安全保障」という言葉は一度も出てきません。「食料自給率」という言葉すら出てきません。国会の議論でもそうした話はあがってきていません。この期に及んで「食料自給率」や「国内生産振興」という言葉すら出てこないということは異常な事態と言わざるをえません。政府はいまだに「どこか外国から買ってくればよい」という認識でいます。新たな調達先をどう確保するかという議論にしかなっていない状況です。さらにひどいことには「もっと貿易自由化を進めていけば、さらに買い先が増えるのではないか」と言い出す始末です。貿易自由化を進めすぎたことで国内の生産を犠牲にして、製造業の輸出は増えたかもしれないが農業は衰退しているという状況を招いているのに、それをさらに貿易自由化を進めればなんとかなるというような、全然本質的な議論ができていないのが現状だということです。
さらに財務省が、減反政策でコメを作らせない代わりに野菜を作ったり麦を作ったり大豆を作ったりといった転作を支援する活用交付金をカットすると言い始めた。いまこそ食料危機を乗り越えられるように頑張っていかなければならない状況だというのに交付金をカットするなど何を言っているんだ、と全国の農家も蜂の巣をつついたような騒ぎになっています。
財務省はこの期に及んで歳出削減したいということしか頭にありませんが、そこには「国民を守る」という国家戦略がかけらもありません。まさに「今だけカネだけ自分だけ」の人達です。そのバックにはアメリカの穀物商社や巨大企業の利益があって、それと結びついた政治、行政、マスコミ、研究者が国を危うくしているという恐るべき状況です。

安全保障としての農業保護を行え!

── このような危機的状況にどう対応していけばよいのでしょうか。
鈴木 飢餓などの不測の事態が起こらないよう、たとえどんなにコストがかかろうとも国内で農作物などを作るのを奨励することです。「国内で作るのはコストがかかるから輸入すればいい」というものではありません。有事のために備えるコストというのは莫大にかかってもしょうがないんです。そうでなければ国民は守れません。短期的にはコストがかかりますが、もし飢餓が発生してしまえば大変な社会的損失ですから、経済ベースで考えても普段からちゃんとお金をかけて命を守るための生産を維持しなければならないのです。その点では軍事的安全保障の考え方と一緒です。
化学肥料にしても、たしかに鉱石の生産国は外国で国内の自給は難しいですが、そもそも化学肥料を使うこと自体が問題なのではないかという議論もあります。江戸時代のわが国の農業はまさに完璧な循環型社会をつくっており、幕末頃の肥料学の世界的な第一人者であったリービッヒという人が、江戸時代の日本の農業は凄いと述べています。「日本の農業は土に自然資源を入れてそれをまた糞尿で出し、それをまた入れて全てを使うという循環農業の究極の姿だ」と絶賛しているのです。江戸時代と現在では時代状況がまったく違いますが、自然の摂理に従って生態系の力を最大限に発揮し、できるだけ自国の資源で全てを賄うということはやろうと思えばできるんです。早急にそちらに向けて舵を切る必要があります。高村光太郎が「食うものだけは自給したい。これなくして真の独立はない」と言っていますが、まさにその通りです。

GHQに食糧生産も自国の食文化も奪われた

── 日本がここまで食料自給を軽視するようになってしまった原因は何ですか。
鈴木 日本の農政は欧米の思惑で歪められ続けてきました。幕末には不平等条約を突き付けられ農産物の関税を決めることもできなくなりました。その不平等条約は表面上改正できはしましたが、現在でも本質的な力関係では何も変わっていません。今回も輸入小麦の価格高騰が大問題になっていますけれども、国産の小麦はダブついているんですよ。とにかくアメリカの小麦を使うというのが日本の基本的な構造として存在しています。
日本はアメリカの戦略で占領政策として給食等でアメリカ産食材を使用することの奨励などを行ってきました。学者が回し者に使われて、「米を食べると馬鹿になる」とか、「子どもたちだけはアメリカ産の小麦だけで賢くしてアメリカ人と対等に話ができるようにしてあげなければ示しがつかない」といった嘘の宣伝をさせられて、学校給食で無理やり食生活を変えてしまった。それで朝鮮戦争で余ったコッペパンと家畜も食べない脱脂粉乳が日本人に食べさせられたのです。そういった闇が大きくのしかかっています。
こんな短期間に伝統的な食生活を一変させた民族は日本人だけだと言われます。その後もアメリカで余っている大豆やトウモロコシを無理矢理日本で売ろうということで関税を実質撤廃させられて、日本の米以外の穀物生産はほとんど壊滅状態になってしまいました。
── なぜそのように農政がおかしくなってしまったのでしょうか。
鈴木 占領期から「アメリカから食料を輸入しろ」という圧力は加えられ続けており、それとともに食料自給率が下がってくるという傾向はありました。しかし牛肉とオレンジの問題が典型ですが、かつての農林水産省は国産品を守るべくそれなりに踏ん張っていた時代もありました。
しかし近年で特におかしくなったのが第二次安倍政権のときです。安倍政権では経済産業省が官邸で力を持ち、農林水産省とのパワーバランスが一気に崩れてしまった。完全に農林水産省が言うことを聞かされるだけの部署になって、食料を犠牲にするという構造が徹底的に強まったわけです。その結果TPPをはじめとした自由貿易協定が矢継ぎ早に締結されてしまいました。TPP参加自体は民主党政権時代に決まりましたが、その後第二次安倍政権になってから一気に進んだわけです。安倍さんは「農業を守る」とか「日本は瑞穂の国だ」とか言葉ばかり言うけれども、平気で嘘をついてごまかしを重ねて悪い方向へと持っていく政治が当たり前のようになってしまいました。
TPP交渉の際に作成された日米サイドレターという付属文書には、「アメリカがやってほしいことがある場合は規制改革会議等で検討しすぐに実行する」と書かれています。しかし、「TPPが頓挫した場合はこの日米サイドレターも無効になりますね」と野党から質問があった際に、当時の岸田文雄外務大臣は「これは日本が自主的に決めたことを書いているだけなので自主的に粛々と実行します」と答弁しているんです。日本の政治家が「自主的に」と言った時は「アメリカの言う通り」ということがわかります。
その他にも、オリックスの宮内義彦氏、パソナの竹中平蔵氏、サントリーの新浪剛史氏などの決まったメンバーが政府の諮問会議に参画して、自社の活動に有利になるよう働きかけているのではないかと疑いを持たれかねないような政策を実行させています。例えばオリックスの子会社であるオリックス農業は、兵庫県養父市の国家戦略特区で巨大農園を持っています。また、オリックスが千葉県銚子で洋上風力発電をやりたいから、地元の漁師から漁業権をオリックスに付け替えるというような法改正までやっています。「今だけカネだけ自分だけ」の政治で一次産業が壊されていっているのです。
── アメリカの圧力とそれに乗っかるレントシーカーたちによる「今だけカネだけ自分だけ」の行政施策が行われていることがよくわかりました。彼らの支配に対抗する長期的なビジョンはありますか。
鈴木 日本国内という点で考えることも重要ですが、国際的に共通性もあるアジアの国々が共同体的なネットワークを強化するということは、アメリカの従属国でなくなるために重要な流れではないかと思っています。アメリカからまさに独立できるかということが日本にとって重要なのであって、そのためには日本も彼らに対抗できるだけのネットワークを構築しなければなりません。日本人は仲間をしっかりと作らなければ必ず欧米にやられてしまいます。
こうした食料も含めた安全保障の議論をすると、必ず「いまの日本はアメリカに守ってもらっているからこれ以上言えないんだ」というような反応が返ってきてしまいます。しかしそれは思考停止ではないでしょうか。「アメリカが守ってくれる」という幻想から覚めたうえで考えていかなければダメだと思います。
(後略)

堀茂「『唯一の被爆国』こそ核武装せよ! 『自主防衛』構築への『国家意志』明徴」(『維新と興亜』第12号、令和4年4月)

『維新と興亜』第12号に掲載した堀茂先生(国家基本問題研究所客員研究員)のインタビュー記事「『唯一の被爆国』こそ核武装せよ! 『自主防衛』構築への『国家意志』明徴」の一部を紹介いたします。

はじめに

これまで我が国における核に関する議論といふものは、理論や研究としては、勿論存在してゐた。特に核抑止力や核軍縮に関する論文は多いが、それが我が国の「核武装」といふことになると、議論すら憚られる〝禁忌〟となる暗黙の了解が厳然とあり、まして政治の世界でそれを語ることは失職すら覚悟すべきものであつた。これらは云ふまでもなく「平和憲法」に基づいた「非核三原則」が、我が「国是」である以上、議論の余地などあり得なかつたといふことである。
しかし、歴代内閣が秘密裡に「核武装」を検討してゐたことは、余り知られてゐない事実かもしれない。例へば一九九四年の核開発疑惑が高まつた北朝鮮に対してクリントン政権は、羽田内閣に対して核施設のピンポイント攻撃を打診したことがあつた。その時熊谷弘官房長官(当時)は、某「軍事関連企業」にどのくらいの期間があれば我が国が核兵器を所有出来るかを確認してゐた。その答えは「三か月」であつたといふ。それ以前にも岸内閣、佐藤内閣他で、非公式に議論されてゐたといふ経緯はあつたやうだ。
本来なら国民を巻き込んで広く議論すべきアジェンダが、極秘裏に行はねばならなかつたこと自体、「反核」で凝り固まる世論に対してオープンに訴へられるやうな〝空気〟は全くなかつたといふ証左でもある。それを語れば、政権が転覆されるくらゐのインパクトは確かにあつたのである。我が国が「核武装」を〝禁忌〟とせず、少なくとも議論の必要があると考へ始めたのは、北朝鮮が実際にミサイルを発射してからであらう。短距離、中距離から始まり、今や巡航ミサイルやICBMまで射程に収めるといふ運搬手段の多様化は、米国まで脅威に晒してゐる。だが、それ以前から中共、ロシアといふ核保有の独裁国家に囲撓されてゐながら議論すら出来てゐなかつたことも又事実である。
小論は、所謂「自主防衛」特に「核武装」といふことについて検討することが目的であるが、これまで我が国で冷静な議論が出来なかつた大きな理由は、「唯一の被爆国」といふ事実に自縄自縛されてゐたといふことに尽きる。この言葉自体が既に「国民主権」や「基本的人権」と同じく、絶対的価値を持つ〝不可侵〟の言葉と化してをり、我々を思考停止にさせて来た。
当然乍ら広島、長崎の惨禍は忘れてはならない言語を絶する地獄絵であつたことは史実であり、この悲劇を二度と繰り返さない為に我々が世界に語ることの重要性は云ふまでもない。だが、我々はそれを悲劇として伝へるだけではなく、米国の国際法無視の非人道性を訴へ、同時に国民に二度と核の惨禍に遭はせない為の方策も明確にしなければならないはずだ。それは無論、言葉や理念だけでは成就しえない。そのことをもつと認識せねばならなかつた。

『維新と興亜』第12号

一、「唯一の被爆国」といふ弱者の論理

長年懸案だつた核兵器の開発、保有そして使用を禁止する「核兵器禁止条約」が本年一月に発効した。それは我が国の悲願たる核廃絶を実現する一歩ではあるが、そこは単なる〝持たざる者〟の集まりである。この条約で肝心の既保有国が、それを手放すことはあり得ない。我が国はじめドイツ、オーストラリア等米国の同盟国は、参加を見送つてゐる。
かつてセオドア・ローズベルトが外交の要諦を〝speak softly and carry a big stick〟と云つたが、核といふ「棍棒」の無いもの同士が、〝我々だけでも持つことは止めよう〟と合意しても、「猫なで声」の論理を聞く「棍棒」の所有者はゐない。狂暴な大男が持つ「棍棒」の脅威から逃れる為には、自身でそれに代はるものを持たねばならない。
最近、安倍晋三元首相が「核シェアリング」といふ既にNATO加盟国の独、オランダ、ベルギーで運用されてゐるシステムについて、我が国においても「検討」する必要性に言及した。「核シェアリング」とは、自身では持たないものの有事の際には米国の戦術核を持ち込んで自軍で運用するといふものである。これを冷戦時代の〝遺物〟として批判的に見る識者もゐるが、一つの〝持たざる者〟の知恵であることは間違ひない。
比して、我が国の「非核三原則」のやうに〝持たず、作らず、持ち込ませず〟といふことを絶対とするなら、それは単なる思考停止と断言出来る。これだけ敵対的な核保有国に囲撓されてゐるのに、自らは丸腰でゐることを寧ろ誇り高く宣言してゐるといふナイーヴさである。それでゐて米国の「核の傘」には信倚するといふのは、どう考へても矛盾がある。
この「非核三原則」は、高度の政治的判断とか「被爆国」に由来する感情的な理屈であるかもしれないが、持たない選択を維持するといふことは、結局は弱者の論理に過ぎない。〝持てる者〟が強いのは当然である。少なくとも〝持ち込ませず〟といふこと無くして、如何に抑止力を維持するといふのか。
政治家や識者の一部は、常に米国への信頼を強調する。米国の「核の傘」は十全に機能してをり「非核三原則」でも問題ないと云ふ。だが、それは「非核三原則」を維持するための方便にしか聞えない。本当に「核の傘」が機能するどうかは、十分に検証されねばならない。「棍棒」を持たない我々が求める真の抑止力とは、敵国をして我が国に核攻撃を行つた場合、米国が必ず報復攻撃をすると強く思はしめることである。だが、抑それを他国に確実に担保させるものはあるのか。
(中略)

三、〝持たざる者〟の論理

北朝鮮が核を保有したいと思ふ気持ちは、主権国家としては当然である。ロシアと中共には所謂〝血の友誼〟があるとは言ひ条、彼らは依然として北朝鮮を「属国」扱ひしてゐるし、反米で同調するくらゐしか役に立たないと思つてゐる。北朝鮮の分断国家としての安全保障は、独自の軍事的抑止力と外交的交渉力を有することである。さう考へれば、核の保有は最もコストが掛からない、しかも最強の「抑止力」と「交渉力」となるのも自明である。少なくとも、対等に米国とも対峙出来ると考へることは、単なる指導者の自己満足ではない。国家生存への唯一無二の方法となる。
現実に「唯一の被爆国」故の「核廃絶」といふ我が国の主張とは関係なく、核の拡散は継続してゐる。一旦所有したものを、〝持てる者〟が放棄することはない。それが、より邪悪な指導者であれば尚更である。世界は善意で動いて来たわけではないし、これからも動かない。〝悪魔の兵器〟を抑止する為には、感情抜きのプラグマティックな議論をする必要がある。
例へば、〝持てる者〟がそれを放棄しないといふなら皆が保有したほうが、相互の抑止力は高まるといふ逆説的な議論もある。私もその考へには首肯する処が多い。何より他国が他の主権国家に対してその保有を阻止することは、如何にその保有が地域の脅威となるといふ理屈でも「内政干渉」であり「主権侵害」とならう。
まして一方の国は、既に保有してゐるわけであるから、後発の国を除外して先発の国だけで排他的なクラブを作ることは余りに独善的である。結局、それが今の国連といふ機関であるわけだが、これだけでも国連の欺瞞性と機能不全は設立当初から予見出来たのである。
第二次大戦後、集団安全保障は東西問はず国防の要諦となつたが、我々は核保有国が同盟国に対して提供する「核の傘」の信憑性を考へねばならなかつた。勿論、それは理論としてはあるが、核保有国が同盟国の為に報復攻撃を行ふといふことは、当然ながら今度は自身が核攻撃の脅威に晒されることにもなる。同盟国とは言ひ条、自国民の犠牲を覚悟してまで、他国の為に報復攻撃することなど果たして有り得るのか。
日米同盟の場合でもさうだが、それが唯一有り得るのは、日本国内にある米軍基地がその標的となつた場合であらう。その時、米国は必ず報復をする。つまり、自衛隊基地はじめ我が領土が核攻撃されただけでは、米国は動かない蓋然性もあるといふことだ。さういふ意味からすると米軍基地は我が国にとつて、「核の傘」を確実にする為の〝人質〟と位置付けられるだらう。
何故〝人質〟かと云ふと、米国とすれば同盟国は守らねばならないし、自国を脅かす長射程のミサイルにも断固反対だが、中距離くらいまでは自国に届かないので許容してもいいといふのが本音だからである。実際、トランプ政権は北朝鮮の短距離、中距離ミサイルは事実上容認してゐた。つまり米軍が我が国から撤退すれば、「核の傘」は確実に機能しないといふことである。

をはりに─「核武装」への「国家意志」

かつてド・ゴールが自前の核保有に固執したのは、その量の多寡の問題ではなく、仮令少数の戦術核であつても、保有すること自体が国家の自立性を高め、独自の軍事外交政策を遂行する最低限の要件と見てゐたからだ。抑彼は他国の「核の傘」の存在など信用してゐない。核保有は、フランスが常に「第一等の地位」にゐて「偉大なフランス」である為の必要条件であつたのである。
(後略)

荒谷卓「『守るべき日本』を浸食してきたアメリカと市場」(『維新と興亜』第12号、令和4年4月)

『維新と興亜』第12号(令和4年4月)に掲載した荒谷卓氏の「『守るべき日本』を浸食してきたアメリカと市場」の一部を紹介いたします。

わが国は主権国家ではない

── 一九五二年にサンフランシスコ講和条約が発効し、わが国が主権を回復してから七十年が経ちます。しかし、未だに日本はアメリカへの依存を続け、独立国としての気概を失ったままです。
荒谷 国民は「アメリカに依存する以外に日本の生存の道はない」と信じ込んでしまっているのです。第二次安倍政権で成立した「平和安保法制」には、「米国が攻撃されると日本の存立が脅かされる」とする「存立危機事態」という概念が書き込まれました。それほどまでに、「日本はアメリカなしには存立できない」という考え方が浸透してしまっているのです。
政府、経済界、メディア、御用学者たちは、中国や北朝鮮の脅威を取り出して、「日米同盟に頼る以外に道はない」と主張し、自主防衛の努力を怠ってきました。
しかし、現下の世界情勢は、まさに人類史における革命的大転換期にあります。もはや、日米関係のみに固執する時代ではありません。自立した思考と判断で日本の将来を創造しなくてはなりません。
アメリカに頼るしかないと信じ込んでしまっているため、日米関係を維持することが自己目的となっているのです。その結果、日本政府はアメリカ、正確にはアメリカのグローバリストの言いなりになっています。こうした状態は独立国とは言えません。日本政府がグローバリストの要求に屈して、日本の農業、林業、水資源までも売り渡そうとしているのも、主体的選択肢を自ら放棄しているが故に彼らの要求に逆らえないからです。
── 日米地位協定によって日本の主権は踏みにじられています。
荒谷 まさに治外法権を明文化しているのが、地位協定です。日本との講和交渉のために来日した国務省顧問ジョン・フォスター・ダレスは、一九五一年一月に「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか」と語っていました。このダレスの言葉に象徴されるように、アメリカは日本のどこにでも基地を置くことができるのです。
わが国は、ロシアとの間で北方領土問題を抱えていますが、日本政府は「北方領土には米軍基地を置かない」と約束することさえできないということです。これが、領土問題の解決を妨げている大きな理由です。つまり、日米地位協定によって、わが国の主体的な外交が阻害されています。わが国は主権国家ではないということです。

守るべきものは「日米安保体制を基軸とする戦後憲法体制」ではない

『維新と興亜』第12号

── 東西冷戦の終結、ソ連邦の崩壊は、日米安保条約を見直し、わが国が自主防衛に転換する好機でした。しかし、わが国はそれを活かすことができませんでした。
荒谷 世界各国は、冷戦終結とソ連邦崩壊を受けて、軍の任務を見直しました。例えば、ドイツでは五十二万人体制から三十七万人体制への兵員削減や徴兵制度見直しなどにより、 新世界秩序構築のための安定化任務に適合した少数精鋭のプロフェッショナルな軍隊へと転換を図りました。しかし、わが国は国際環境の変化に対応した戦略の見直しも行わず、自主防衛への転換の意志も示そうとはしませんでした。
冷戦終結によって、アメリカの対ソ封じ込め政策は終結し、日米同盟の存在意義も消滅したはずです。しかし、冷戦終結によって世界の構造がどう変化するのかをまともに議論しないまま、わが国は日米同盟にしがみついたということです。
冷戦終結によって、対ソ戦略上の日米同盟の存在意義がなくなったにもかかわらず、アメリカがその存続を望んだのは、日米地位協定をはじめとする日本における既得権を維持し、冷戦時代に稼がせた日本の資産をすべて収奪しようと考えたからでしょう。
一方、わが国は「日米同盟は永遠に不滅だ」「日米同盟がなくては日本の安全は保障できない」などという無思考・無作為に陥り、日米安保をそのまま存続させたのです。対米従属によって利益を享受してきた人たちの「既得権」が優先されたのかもしれません。
もともと、アメリカの初期対日占領政策は日本弱体化政策でしたが、東西冷戦の勃発に直面したアメリカは、グローバリストのシンクタンク外交問題評議会の刊行誌「フォーリン・アフェアーズ」に掲載したジョージ・ケナンの「X論文」の主張に沿ったかたちで、日本の経済復興、再軍備政策に転換しました。日本の再軍備の経緯を振り返ると、日本政府が自発的に軍事力を再構築しようという意図を持った形跡は全くありません。
一九五〇年六月の朝鮮戦争勃発を受け、日本はマッカーサー書簡によって、陸上自衛隊の前身となる警察予備隊の設置を告げられました。そして、ポツダム勅令を根拠に国会の議論も一切ないまま、再軍備が開始されたのです。戦前に駐米大使を務めた野村吉三郎はアメリカの意図をくんで、海上自衛隊の前身である海上警備隊の創設を日本政府に働きかけました。海上警備隊は米軍の一部として創設されたのです。サンフランシスコ講和条約後には、米軍の提案によって航空自衛隊ができました。
つまり、日本の再軍備・防衛体制は、すべてアメリカの要請によって進められてきたということです。日本占領は七年間で終わり、GHQは解体されましたが、彼らはワシントンに引っ越して日本占領を続けたということです。
日米安保は対ソ封じ込め戦略に基づくものでしたが、同時に日本を抑える意味もありました。例えば、一九九〇年に在沖縄アメリカ海兵隊司令官ヘンリー・スタックポール少将は、「アメリカ軍が日本から撤退すれば、既に強力な軍事力を日本はさらに増強するだろう。我々は 『瓶のふた』 のようなものだ」と発言しています。北大西洋条約機構(NATO)にも、対ソ封じ込めと同時にドイツを抑える意味がありました。
野村吉三郎が米海軍のプラット提督に宛てた書簡には、「新憲法は無血革命と言えるかもしれない」と書かれていました。日本人の中には、マッカーサーによる占領を有難がり、マッカーサーがアメリカに帰国することを非常に残念がった人もいました。彼らは、占領体制の継続を渇望していたのでしょう。こうした人たちが守りたいのは、伝統的な日本ではなく、マッカーサーの無血革命によって作られた社会なのです。つまり、彼らの言う「国防」とは、日米安保体制を基軸とする戦後憲法体制を守ることなのです。 続きを読む 荒谷卓「『守るべき日本』を浸食してきたアメリカと市場」(『維新と興亜』第12号、令和4年4月)

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《目 次》
【特集】亡国のSDGs=環境原理主義 中国の高笑いが聞こえる
 環境原理主義が日本を亡ぼす 「気候産業複合体」の利権構造(有馬純)
 【対談】EV化で自動車産業の覇権が中国に 脱炭素化の背後に巨大なESG利権(加藤康子×稲村公望)

■「国家の物語」を取り戻せ(北神圭朗)
■石原慎太郎 「死者との黙契」(今村洋史)
■ネトウヨ保守雑誌の読者に問う! 第三弾 尊皇心を失った保守派言論人たち(山崎行太郎×金子宗德×本誌編集部)

【巻頭言】「日本封じ込め」政策は今も続いている(坪内隆彦)
●時論 皇位継承は天皇陛下のご聖慮を拝すべし(折本龍則)
●時論 水道私物化を主導する野田由美子の正体(小野耕資)
「天皇」は縄文時代の定住共同生活と神々との共生から生まれた(西村眞悟)
【新連載】高風無窮(一)明眼の人(森田忠明)
愛郷心序説 ⑦ 我が高天原観(杉本延博)
私にとっての憂国忌五十年 ①(玉川博己)
「文化防衛論」と『占領憲法下の日本』(原 嘉陽)
生長の家の運動が持続していれば、大日本帝国憲法復元改正は実現していた(川瀬善業)
これからの課題と日本の将来(稲 貴夫)
危機に立つ日本の農業② 食糧生産とは安全保障である(小野耕資)
いにしへのうたびと 貧窮問答歌(玉川可奈子)
真正護憲論(新無効論)⑥(南出喜久治)
老病死の段階では「良かったさがし」(楽観論)が求められる(福山耕治)
竹下登論 ① 調整型社会の実現が必要だ(田口 仁)
【書評】副島隆彦『ディープ・ステイトとの血みどろの戦いを勝ち抜く中国』
活動報告
読者の声
編集後記

『維新と興亜』第11号

石原慎太郎 「死者との黙契」(今村洋史)(『維新と興亜』第11号)

 『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「石原慎太郎 『死者との黙契』(今村洋史)」の一部を紹介します。

『維新と興亜』第11号

石原先生が逝かれた。2012―2014年、先生が再び国政へ挑んだ、その祖国への止まざる愛惜の所以と、そして率いた「日本維新の会」が短命に終わった経緯を当時付き従ったものとして後世の史家のために記しておこうと思う。
2011年の東北の大震災に際し、無能と国民に対する不誠実を曝け出していた民主党政権は2012年に至り既に死に体であった。国民は政治の刷新を望み、自民党の復権のみならず、石原先生の国政復帰待望論もそこかしこから叫ばれていた。石原先生は、かつてより平沼赳夫氏率いる「たちあがれ日本(以下、たち日)」に応援団長として関わっていたが、国政復帰を模索する中、2012年秋、「たち日」の会合へ出席された。その日、さほどの広さもない会場に2百人ほどが詰めかけていた。
平沼代表から「うちの若い人たちは優秀ですよ」と聞かされ、先生が闊達な議論を期待しているのが、その表情から窺えた。しかし、それは直ぐに失望に取って変っていった。挙手して発言する若手党員が、悉く近視眼的な政局観の披歴に終始し、まともな問答にならなかった。挙句に「石原先生、是非総理になってください。石原慎太郎総理、バンザーイ」などと言い出す者も出て、端で聞いている方が恥ずかしさに顔を伏せたくなる思いだった。我々が石原慎太郎の国政復帰に向けて全く頼りにならない、むしろ足手纏いでしかないことは明らかだった。
その後、「たち日」は「太陽の党」へ衣替えし、その党首として国政復帰を決意した石原先生は「日本維新の会」との合流へのめり込んでいた。それは、たち日系だけでは勝負にならないこともあるが、何よりも合流相手の維新の橋下徹代表の存在が大きかった。
「(自分が)権力の本質が金にしか集約されない論理と、利害感覚しか持ちえない世界に別の論理と情熱を持って飛び込んでいったドン・キホーテだったことを改めて覚らされたのだ」と、かつて諦念を以て国政と訣別した石原先生の目の前に現れた橋下氏は若き日の自分と同じドン・キホーテ的人物であった。稀代の論客である橋下氏と二人して国政へ切り込んでゆく、いわば任侠映画の道行きさながらの心情がなければ先生の国政復帰への決心もなかったと思う。
その橋下氏は「維新へは石原慎太郎しか迎えたくない」と言い放っていたが、最終的には互いに惚れあっていた仲の石原先生の言を入れ、お荷物の我々も合流と相成っていた。出来上がったのは烏合の衆とも言うべき新生「日本維新の会」だったが、石原慎太郎と橋下徹の二枚看板であれば、選挙後、過半数に届かぬ自公連立政権への参画という勝算も芽がないわけではなかった。合流相手の維新幹部などは閣僚へ送り込む名簿まで用意していたという。
石原先生は「橋下氏は義経、私は義経に惚れた弁慶だ」と乾坤一擲、衆院選に臨んだが、結果は下野した民主党にすら及ばぬ野党第二党に留まり、大勝した自公の政権と連立することは叶わなかった。この選挙では橋下氏の国政進出が見合わせられ、石原・橋下の両氏が国会で轡を並べることにならなかったが、それが一年半後に両氏の袂を分かつことにつながっていった。
「私は弁慶」と石原先生は言ったが、弁慶を必要としたのは実は自分自身であって、国政の場でタッグマッチを組める相棒を必要としていた。しかし、橋下氏は国会に不在であり、その国会で相棒の役割を果たせるのは亀井静香氏以外になかった。しかし、亀井氏との共闘はその剛腕ゆえ、たち日系からも大阪系からも強烈に拒絶されてしまっていた。
こうして事実上独りで国会へ臨むこととなった石原先生だったが、率いる議員団の結束はてんでばらばらで特に大阪系の議員たちは端から従うつもりもなく「国家とか民族とか、わからへん」と言って憚らなかった。また上程される法案についても党は是々非々と言いながら、場当たり的な一貫性にかける対応に終始し、混乱した間抜けな議員などは反対すべきところを間違って賛成へ立ち上がり、後ろから「座れ、バカ」と怒鳴られる始末だった。
通常国会の最中、心労によるものか石原先生は軽症とはいえ脳梗塞を患い、しばらく登院出来ず、一方の橋下氏は自身の慰安婦発言の火消しに追われていた。アベノミクスを掲げる安倍政権が勢いに乗る中、維新は国会で存在感を増すどころか、自民にも民主にも秋波を送る愚行を繰り返し、益々自らの立ち位置をあやふやなものにしていった。筆者が、たち日系の維新幹部に「本当に民主党の連中と組もうと思っているのですか」と問うと「民主党の右派と組んで二大政党を目指すのだよ」とあっさり言われ、過日の「たちあがれ日本」はアンチ民主党が出発点ではなかったかと唖然としたものだった。
2013年7月参院選が行われる頃には維新は国政進出時の勢いを失い、とても橋下出馬というカードを切れる状況ではなかった。石原先生はこの時も橋下氏の出馬を望む、という発言をしたが、そこに当初のような熱を感じなかったのは筆者だけだろうか。当然ながら参院選は惨敗し、維新の内部、特に大阪系からは何処かと手を握らなければという焦燥が一層強まっていた。
そうして2013年~2014年にかけて、維新内部の相克は変わらず、民主党やみんなの党との合併を画策する維新の一部勢力にとって、たち日系は如何にも目障りな存在になっていった。今でも年末になると政党交付金目当ての合従連衡が繰り広げられるが、当時の維新も例に洩れず、年末に向けた2013年10月には、他党との合従を急いだ連中による平沼降ろしのクーデター未遂の騒動が起こっていた。それは結局、扇動に失敗した東国原英夫氏が議員辞職するという、大山鳴動して鼠一匹という結末だったが。
内ゲバに終始する維新という政党に石原先生が留まり続けたのは、やはり橋下徹という傑物に対する思い入れが依然として強かったからに違いない。その道行きとまで惚れ込んだ橋下氏と訣別する直接的な契機は原発輸出の原子力協定の国会採決を巡ってだった。橋下氏はその原子力協定には反対だった。
最後の盟友だった亀井静香氏は原発を廃止するという意見で、その代替に太陽光発電を考え、自ら発電会社を立ち上げたほどだったが、石原先生との友誼は変わらぬものだった。故に橋下氏とエネルギー政策について意見が違っていたとしても、それが先生と氏が訣別する理由にはならない。

「国家の物語」を取り戻せ(北神圭朗)(『維新と興亜』第11号)

 『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「国家の物語」を取り戻せ(北神圭朗)」の一部を紹介します。

『維新と興亜』第11号

憲法に御誓文の五か条を入れ込むべきだ
── 北神議員は国難を乗り切るためには、「国家」を強化しなければならないと主張しています。
北神 戦後の日本では「国家」の重要性が忘れられてきました。「国家」を強調することは戦争につながるといった間違った考え方に縛られています。
「国民」が日本という「国家」を意識し、「国家」に愛情を持ち、「国家」の発展に強烈な責任を負わなければ、日本が現在直面している課題も乗り越えられません。そして、日本が大国として生き残っていくためには、「国家の物語」を回復する必要があります。歴史とは、その民族や国家が実際に体験してきた記録です。日本人が何を目指してきたのか。危機にどのように対応してきたのか。日本民族の「物語」を振り返り、それを理解することによって、日本人の理想の姿が浮かび上がってきます。
「国家の骨格」(象の森書房)にも書きましたが、わが国の歴史を俯瞰すると、わが国が横暴に振る舞う国家に対し、厳然たる独立を守り、対等な関係を求めてきたことがわかります。
例えば、わが国は国力だけでなく、文明の水準においてもはるか上だった隋の帝国に対して、対等外交を展開しました。聖徳太子は隋の煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」との国書を突きつけたのです。これが自主独立の原点であり、その姿勢は蒙古襲来の時も、明治維新の時も貫かれました。また、わが国は覇権的な文明に抵抗しつつ、独自の洗練された文化文明を育成継承してきたのです。
敗戦によって、「国家の物語」は断絶してしまったと考えがちです。しかし、物語は連続しているのです。それを示すのが、1946年正月に、昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」を発せられ、冒頭に明治元年の「五箇条御誓文」が掲げられたことです。御誓文という明治の初心、さらには神武天皇の建国の精神に立ち返ることによって、戦争に敗けても「国家の物語」が連続していることを国民とともに確認されたのです。その意味で御誓文はわが国の国是であり、憲法には三大基本原理に加えて、御誓文の五か条を入れ込むべきだと思います。
歴史を俯瞰して「国家の物語」を学ぶのと同時に、わが国の偉大な先人のことを学ぶことが極めて重要だと思います。
日本の立派な先人たちの生き様を、小学校から、熱をもって、わかりやすく教えるべきです。わが国には、偉大な先人がいたことを知ることによって、「自分もこうした先人のように立派な人間になりたい」という気持ちが起きます。その結果、愛国心を涵養することができるのです。第一次安倍政権時代に、私は野党議員として伊吹文明文科大臣に質問し、先人教育の必要性について訴えたところ、学習指導要領に入れてくれました。

日本人自身が望んだ経済優先路線
── 現在、日米は対等の関係とは言えません。アメリカと協調して台頭する中国を抑え込むことは必要だと思いますが、日本はアメリカに追随するばかりで、主体的な立場をとることができなくなっています。
北神 戦後の政治指導者の多くは、真の主権国家、自主独立を目指すことに熱意を示してきませんでした。東西冷戦構造の中で、基本的には安全保障をアメリカに委ね、自分たちは経済を優先して福利厚生を追求するという路線を歩んできたのです。こうした路線は国民が望んだ結果でもあります。国民が「経済を犠牲にしても、場合によっては命をかけてでも、己の足で立ちたい」と心から願ったならば、日本外交は違ったものとなっていたでしょう。
これに対して、中国はソ連に追随することもなく、アメリカに対抗して自主独立路線を歩んできました。いまや中国はアメリカとも横綱相撲をとるだけの力を持つに至りました。
それでも、自主独立を模索した総理がいなかったわけではありません。その一人が、安保改定によって日本の自立を目指した岸信介総理です。しかし、岸政権の後を継いだ池田勇人政権は「寛容と忍耐」というキャッチフレーズを掲げ、経済を優先しました。その後、中曽根政権、安倍政権などの例外はありますが、基本的には経済優先の流れが続いてきたのです。

【対談】EV化で自動車産業の覇権が中国に 脱炭素化の背後に巨大なESG利権(加藤康子×稲村公望)(『維新と興亜』第11号)

 『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「対談 EV化で自動車産業の覇権が中国に 脱炭素化の背後に巨大なESG利権(加藤康子×稲村公望)」の一部を紹介します。

『維新と興亜』第11号

日本の自動車産業の衰退を招くEV化
稲村 加藤さんは、脱炭素政策が日本の自動車産業に大きな打撃を与えることになると警告しています。
加藤 製造業は、日本のGDPの20%以上を占めています。日本の屋台骨を支えている製造業が弱くなれば国力は弱くなり、骨太になれば国は豊かになります。製造業を牽引している自動車産業は、日本経済の要だということです。
日本の輸出品のトップは自動車であり、全体の15・6%(2019年)を占めています。2位が半導体等電子部品、3位が自動車部品と続きます。自動車産業は国際競争力の高い唯一の産業であり、部品・素材、販売・整備、物流・交通、金融などわが国の戦略産業として経済社会に貢献しています。日本の自動車産業関連就業人口は550万人に上り、日本の就業人口の1割を占めています。
例えば、トヨタの工場がある大和町と観光都市である熱海市を比較してみると、大和町の人口は2万8788人、総生産は2815億円で、熱海市の人口は3万7576人、総生産は1427億円です。つまり、熱海の人口は大和町の1・3倍ですが、総生産は大和町の半分なのです。大和町の総生産の68・5%を占めているのが、製造業です。同様に、スバルの工場がある太田市と観光都市の那覇市を比較してみても、太田市の方が人口は10万人も少ないのですが、総生産はほぼ同じです。政府は「インバウンド」「観光」の重要性を強調していますが、実際には製造業が存在することによる地域経済に与えるインパクトが非常に大きいということです。
自動車産業、部品工場、それを支える素材工場が日本からなくなった後の日本経済は、見るに耐えない悲惨な状況に陥るでしょう。コロナで落ち込んだ日本経済が、コロナ後どのように回復するか、注目されていますが、自動車産業の国内生産の回復は経済に直結しています。日本の基幹産業であり、国力そのものです。
わが国のGDPは、すでに中国に抜かれて世界第3位となり、やがてインドにも抜かれると予想されています。このまま舵取りをあやまれば、日本は凋落の一途をたどり、インドネシア、ベトナム、韓国にも抜かれ、やがて世界7位、8位に転落してしまうのではないかと懸念されています。今こそ、政府が「国を富ませ、国民を豊かにする」という国家目標を前面に掲げなければならないのです。
ところが、昨今の政権では、「国を富ませ、国民を豊かにする」という国家目標より、選挙むけに耳障りのよい「脱炭素」や「分配」を掲げています。私はそれに強い危機感を覚えています。厳しい国際競争社会のなかで、私たちの国が未来に成長するためには、困難な問題を解決しなければなりません。私には、指導者たちが問題にがっつり向き合うよりも、国民を甘やかし、国富を切り崩す政策を選択しているように見えます。
菅前総理は2020年10月26日の所信表明演説で、国内の温室効果ガスの排出を2050年までに「実質ゼロ」とする方針を表明しました。この所信表明演説には、グリーンやデジタル、そして農業や観光は出てきても、日本の屋台骨を支えている製造業が出てきませんでした。農業や観光とデジタルだけで国民を養っていけるのでしょうか?
しかも、菅政権で環境大臣を務めた小泉進次郎氏は、カーボンニュートラルの目標達成のために、日本の基幹産業である自動車産業を脱炭素政策の目玉にあげ、ガソリン車の国内新車販売を事実上禁止する議論を展開したのです。ガソリン車がEV車に置き換われば、エンジンとトランスミッションが、電池とモーターに変わります。EV車においては、リチウムイオン電池がコストの4割を占めています。日本国内でリチウムイオン電池を製造できればいいのですが、電池の原料となるレアアースは中国が握っています。つまり、EV車に変われば、その心臓部を中国に握られてしまうということです。
中国は「中国製造2025」を掲げ、自動車強国を目指してきましたが、なかなか達成できませんでした。エンジンを製造するには非常に高い技術力が求められるからです。
自動車のエンジンを設計できる技術者がいるのは、日本とアメリカとドイツだけです。特に日本は世界一のエンジン技術を持っています。EV車になれば、こうした世界に誇る技術を生かせなくなり、100年以上も努力して築いてきた自動車メーカーのノウハウが産業構造の転換で失われてしまう危険性があります。
また中国がどれほどがんばったところで、中国ブランドの自動車は世界の市場ではなかなか売れません。しかしEVでは電池産業で世界市場のシェアを握る事ができます。
つまり、中国はEV車の心臓部である電池を握ることによって、自動車産業の覇権を握ろうとしているのです。メード・イン・チャイナの自動車を世界のマーケットに輸出することはできなくても、その心臓部を握ることによって自動車産業をコントロールすることができます。EV化によって中国が自動車産業の支配者になれば、日本の自動車産業は衰退していきます。その結果、多くの雇用が失われ国の基幹産業を失うことになるでしょう。
脱炭素政策は、舵取りを誤ると、日本の自動車産業だけではなく日本経済を自らの手で潰すものです。企業がつぶれても政治家は責任をとることはできません。

日本の製造業を苦しめる電力コスト
稲村 こうした危機感から『EV(電気自動車)推進の罠 「脱炭素」政策の嘘』(ワニブックス)を上梓されたのですね。
加藤 そうです。私は大学時代から産業史や企業城下町の研究をし、ある産業に依存している地域が、その産業がなくなったときに、急速に疲弊していくのを目の当たりにしました。地域の営みがなくなれば、コミュニティは一瞬にして崩壊していきます。営みのないところに豊かな暮らしは生まれませんし、営みがなくなれば若年層も流出していきます。
特に製造業は、国家の繁栄にとって極めて重要です。大英帝国も製造拠点を失ったときに凋落していきました。日本から製造業がなくなることは、日本の経済基盤そのものを揺るがすことになります。
稲村 中国はヨーロッパの自動車産業とも連携しているように見えます。
加藤 すでにヨーロッパの自動車メーカーの生産の大部分が、中国に移っています。ボルボは中国の浙江吉利控股集団の傘下になっています。また、トヨタと世界のトップシェアを争ってきたVWは、トヨタを標的にしているとの指摘もあります。
稲村 特にメルケル政権時代のドイツは中国との関係を強化していました。ドイツ人には中国に対する幻想があるのかもしれません。
加藤 政府は2030年度に温室効果ガスを2013年度から46%削減するという目標を掲げていますが、電力コストの上昇は国民生活を圧迫するだけではなく、日本企業の国際競争力を弱めることになります。
電力コストは、製品コストに直接跳ね返ります。日本の電力コストが上昇していけば、日本で製造してももうからなくなりますから、新しい設備投資をすることが難しくなり、製造業は海外に移らざるを得なくなります。その結果、多くの雇用が失われます。
現在でも日本の産業用電力は世界で一番高いのです。日本では、一つの自動車工場で毎月5億円の電力が、製鉄所では8億円の電力が使われています。日本の産業用電力は kWh(キロワットアワー)当たり18円で、ドイツの3倍です。中国、韓国も日本の半分以下の料金です。
中国では48基の原子力発電所が稼働しており、さらに45の新たな原発の建設を計画しています。また、中国は石炭火力発電所を次々に建設し、製造業のために安価な産業用電力確保に取り組んでいるのです。中国は世界のCO2排出量の3割を占めているにもかかわらず、製造業強化の手を緩めることはありません。
ドイツもまた、国内産業の競争力を維持するために、戦略的に重要な鉄鋼などの電力多消費産業の電気料金を減免して、安価な電気料金を実現しています。日本も戦略的に重要な製造業に対してこうした減免措置を講ずるべきです。
問題は電気料金だけではありません。日本は土地、税金、社会保障費などすべてにおいて高く、さらに日本には厳しい労働規制、環境規制があります。

小泉環境大臣の脱炭素化は水野弘道氏の入れ知恵?
稲村 脱炭素政策は、日本の製造業を破壊し、国を亡ぼす政策です。なぜ、このような愚かな政策が推進されるようになったのか。
脱炭素政策に舵を切った菅前総理や小泉進次郎氏の背後には、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資で利益を得る人々がいるとも囁かれています。例えば、2020年9月に1100円程度であった再生エネルギー企業レノバの株価は、今年1月上旬に4000円前後まで上昇しました。このESG投資の仕掛け人が、イーロン・マスク氏が率いるアメリカのEV大手テスラの社外取締役を務める水野弘道氏だと言われています。彼は、小泉氏に取り入り、脱炭素化や温室効果ガス削減目標の策定などを入れ知恵してきたとも報じられています。世界最大の資産運用会社ブラック・ロックのラリー・フィンクCEOを菅前総理に紹介したのも水野氏だと言われています。
イギリスの投資ファンド出身の水野氏は、安倍政権時代に年金マネーを運用する「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」の最高投資責任者に抜擢されています。
加藤 なるほど。そして、テスラの社外取締役に就任し、経済産業省の参与になり、国連の気候変動特使にもなった。その影響は霞が関でも永田町でも絶大で、政府は急進的な脱炭素政策に舵をきったというわけですね。水野さんは「現在トヨタの時価総額は20兆円に対しテスラは40兆円、日本の自動車メーカー9社の時価を合わせてもテスラに及ばない」など、EV化への期待が株価に表れていることを強調されたようです。
こうした発言に呼応するように、小泉さんは「今後世界中で投資が継続的に増える分野は脱炭素の市場以外にはないと思います」(『中央公論』2021年3月号)などと語っていました。
そして、安倍政権との差別化を図りたい菅前総理に対して、水野氏は「日本が中国より10年早い目標を立てるのはまったく不可能ではなく、しかも表明した瞬間に国連や国際社会で菅総理の名前が知られることになる」と口説き落としたとも言われています。
稲村 脱炭素政策は、脱炭素に関わる企業の株価を上げるためだけにしか見えません。ESG投資では投資家や上場企業が利益を得ているだけではなく、コンサルティング企業が深く関わっています。マッキンゼーなどのコンサルティング会社は、ESGコンサルティングで利益を上げています。
加藤 ESGのSはSocialのSで人権も含んでいます。しかし、重視されているのは環境だけで、金融機関は人権をまったく重視していない。結果的に中国による人権侵害を容認する結果を招きかねません。例えば、太陽光パネルに不可欠な材料であるポリシリコンの約5割が新疆ウイグル自治区で生産されており、その生産には強制労働が利用されている疑いがあります。これについて質問を受けた小泉さんは、「情報収集をしっかりやりたい」と語るのみでした。
また、メディアは脱炭素礼賛報道を繰り返すばかりで、SDGs、ESGが利権の温床になっていることを報じようとしません。それどころか、メディアもESG投資の利権に組み込まれているようにさえ見えます。実際、日経新聞は特にひどい。新聞紙面を見ても脱炭素、ESG、SDGsがいくつ出てくるか。報じることによって企業の株価に影響を与え、株価をあげる。そして、日経BPコンサルティングはそれに絡めて企業のブランディングのコンサルティングまでしています。

環境原理主義が日本を亡ぼす 「気候産業複合体」の利権構造(有馬純)(『維新と興亜』第11号)

 『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「環境原理主義が日本を亡ぼす 「気候産業複合体」の利権構造(有馬純)」の一部を紹介します。

『維新と興亜』第11号

「グレタさんには、毎日の水の確保にも苦労している人の実態を見てもらいたい」
── 毎朝テレビをつけると、「SDGs」を連呼しています。しかし、SDGsには貧困、飢餓、健康と福祉、教育など17の目標があるにもかかわらず、取り上げられるテーマは気候変動ばかりです。
有馬 国連が世界50万人以上の人を対象に「17の目標のうち、自分にとって重要なものを5つまで挙げてください」というアンケート調査を行いました。結果は、世界全体で見ると、第1位が教育、第2位が保健・福祉、第3位が雇用で、気候変動は第9位でした。国別に見ると、スウェーデンでは気候変動が第1位でしたが、中国では第15位でした。
国際社会が抱えている課題は多種多様であり、温暖化問題はその一つに過ぎないということです。実際、温暖化で死んでいる人よりも、貧困や飢餓で死んでいる人の方がよほど多いのです。貧しい国であるほど、温暖化問題より貧困や飢餓の問題を優先するのが常識です。環境活動家グレタ・トゥーンベリさんに象徴されるように、「温暖化防止が全てに優先される課題である」という議論は、そうした常識から乖離しているように思います。
「衣食足りて礼節を知る」と言いますが、グレタさんの出身国であるスウェーデンをはじめ、欧州は一人当たりの所得が高い成熟社会であり、経済成長よりも環境価値に関心が高いのは当然です。
2019年9月の国連気候行動サミットで、グレタさんは「あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね」と語りましたが、私は豊かな国で生まれ育った人の傲慢だと感じました。グレタさんの発言を、日々の生活に苦しむ途上国の人たちが聞いたら、どう感じるでしょうか。実際、2020年のCOP25(気候変動枠組条約第25回締結国会議)に参加していたインド産業連盟の関係者は、「グレタさんには、毎日の水の確保にも苦労している人の実態を見てもらいたい」と言っていました。プーチン大統領がグレタさんについて「世界の複雑さや多様性がわかっていない」と述べたのも当然です。
各国の状況によって優先すべき課題が異なるという現実を見ないで、温暖化問題が最大の課題だという前提で議論したとしても、途上国には受け入れられません。「先進国だけで勝手にやってください」ということになりかねません。しかし、温室効果ガス増加の最大要因は、途上国のエネルギー需要によって生じる排出増であり、どんなに先進国が頑張っても、途上国の協力なしでは解決できません。
もちろん途上国でも、温暖化が原因で干ばつが起きたり、台風が激甚化したりするなどの異常気象によって被害を受けることがあります。途上国が温暖化問題を重視していないということではありません。しかし、それ以上に優先すべき課題があるということです。
私は、COPにも16回参加し、温暖化問題に取り組まなければならないと考えていますが、グレタさんのような環境原理主義によって、かえって課題の追求自体が腰折れしてしまうことを懸念しているのです。

道徳的高みに立って説教するヨーロッパ
── ヨーロッパで環境原理主義が台頭したのはなぜですか。
有馬 環境問題に特化した緑の党などの政治的影響力が強いのは、ヨーロッパ特有の現象です。アメリカは先住民を征服し、自然を切り開いて国を形成してきましたが、ヨーロッパは伝統的に自然との共生といった価値を重視します。ドイツ人のエコロジー志向は、18世紀のロマン主義にさかのぼるとも指摘されています。
ヨーロッパの環境運動は、キリスト教一神教文化の影響を受けているようにも思います。ヨーロッパの環境関係者の発言を聞いていると、「自分たちこそが地球環境のことを真剣に考えており、世界に範を示すとともに、他国を導かねばならない」という唯我独尊性を感じることがあります。ヨーロッパが道徳的高みに立ち、意識の低い国々を指導するという布教的な意識です。彼らは、意見の異なる人を「温暖化懐疑論者・否定論者」として糾弾します。かつて十字軍を派遣して異教を征服した宗教的熱意を彷彿とさせます。
ソ連が崩壊した1990年以降、マルクス主義の退潮と軌を一にして地球温暖化を中心とした環境原理主義が台頭しました。マルクス主義思想を信奉していた人たちの多くが、冷戦終結後に大挙して環境の世界に入ってきたからです。温室効果ガス削減のために、排出枠を割り当てるという発想も計画経済的です。もともと緑の党の創設メンバーには、ヘルベルト・マルクーゼらの新左翼の影響を受けた人たちが入っていました。緑の党のDNAには、反核、反原発があるのです。「環境活動家はスイカである」という「なぞかけ」があります。その心は「外側は緑だが、中は赤い」です。

「気候産業複合体」の利権構造
── ESG投資をめぐる環境利権が拡大し、それが各国の政策に影響を与えているとも指摘されています。
有馬 確かに、環境原理主義はいまや単なるイデオロギーではなく、巨大な利益共同体を形成しています。英国のジャーナリスト、ルパート・ダーウォール氏は『緑の専制』の中で、それを「気候産業複合体」と名付けています。
この気候産業複合体はいまや原子力ムラ以上に強固な利益共同体になっているのです。政治家、官僚、学者、環境活動家、再生エネルギー産業、ロビイスト、メディア、金融界がネットワークを組んで、各国政府の政策に影響を及ぼしています。その尖兵となっているのが、グリーンピースなどの環境NGOです。
彼らは、地球温暖化のリスクを煽り、温暖化対策のコストを過小評価しています。学界がそうした主張の論文を量産する中で、気候変動政府間パネル(IPCC)の報告書などにも、彼らの主張が引用されるようになり、偏った方向に進んでいくのです。
環境NGOなどに資金提供しているのは、再生可能エネルギーで利益を得るセクターばかりではありません。アメリカ西海岸のIT長者やヘッジファンドたちも資金提供しています。本来中立的であるべきメディアも、温暖化の恐怖を煽るようなセンセーショナルな報道をすることによって、視聴者や購読者を増やそうとします。
── 芸能人やセレブもSDGsの合唱に加わっています。
有馬 「地球温暖化防止」は「動物愛護」と同じように、スローガンとして非の打ちどころがありません。温暖化対策によってエネルギーコストが上がったところで、セレブたちは困りません。しかし、世界には電気料金が上がって困る人たちが大勢います。
福島原発事故の後、原発停止による電気料金上昇の懸念に対して、坂本龍一氏は「たかが電気のために」と言い放ちましたが、思い上がった発言と批判されても仕方がありません。
しかも、富裕層にとっては、環境問題への資金提供が自分たちの富への攻撃を避ける免罪符となっているのです。例えば、グレタさんが、すべての化石燃料関連投資の差し止めを求める公開書簡を発出したとき、賛同者として、レオナルド・ディカプリオ氏やラッセル・クロウ氏などが名を連ねていました。
ただ、現在環境原理主義が台頭し、気候産業複合体が強固になっていますが、これが長続きするとは限りません。2021年には、気候変動について野心的な目標が語られ、「気候変動に取り組まなければいけない」という空気が支配し、一種の「環境バブル」といった様相を呈していますが、それが幻想だとわかれば、あっと言う間にそれははじけるでしょう。
金融機関や投資家たちは、いまはESG投資に莫大な投資資金をつぎ込んでいますが、彼らは足の速い人達です。流れが変われば一気にESG投資から手を引いてしまうかもしれません。

【特集】亡国のSDGs=環境原理主義 中国の高笑いが聞こえる(『維新と興亜』第11号)

 『維新と興亜』第11号(令和4年2月28日発売)に掲載した「特集 亡国のSDGs=環境原理主義 中国の高笑いが聞こえる」のリードを紹介します。

 SDGs(持続可能な開発目標)の「大合唱」の中で、菅前政権は日本の製造業の衰退を招く脱炭素政策に舵を切った。その旗を振ったのが環境大臣を務めていた小泉進次郎氏だ。彼はガソリン車の国内新車販売を事実上禁止する議論を展開していたのだ。ガソリン車がEV車に置き換われば、その心臓部である電池を握る中国が自動車業界の覇者となる。
 では、なぜこのような愚かな政策が進められているのか。そこに浮かび上がってくるのが、「原子力ムラ」を凌ぐ巨大な「気候産業複合体」の存在だ。小泉氏に知恵を授けてきたのも、ESG(環境・社会・ガバナンス)投資の仕掛け人・水野弘道氏と言われている。
 国を亡ぼすSDGs=環境原理主義の正体に迫る。

『維新と興亜』第11号

「なぜいま『新論』なのか」(『日本再建は水戸学国体論から!─新論 国体篇』解題の一部)

会沢正志斎著・高須芳次郎訳・『維新と興亜』編『日本再建は水戸学国体論から!─新論 国体篇』解題の一部

なぜいま『新論』なのか
 『新論』の今日的意義を論じたいと思います。すなわち、なぜいま我々は『新論』を読む必要があるのか、という事です。その第一の理由は、冒頭で述べた様に、同書が「国体論」に基づいて国防を論じた稀有な書だからです。この「国体論」を確立しなければ、自称リアリストがいくら精緻な情勢分析をしても、その結論は浅薄な事大主義や大勢順応の言説に陥らざるを得ません。例えば、現在の我が国内外を取り巻く情勢を見ても、米中の激しい覇権争いの狭間で、我が国は人口的にも経済的にも国力が衰退しております。こうしたなかで自称リアリズムの情勢論に基づいて国防の策を立てようとすれば、それは戦後の宗主国であるアメリカにひたすら従属しシナに対抗するか、それともシナに鞍替えして臣従するといった安直な結論しか出てきません。よって、新論で説かれた様な、天祖以来の国体を論じ、日本の「守るべき価値」としての「国是」を明らかにすることによって、初めて独立国としての現実的な政策なり戦略が導き出されるのです。目下の政局を見ても、小手先の現状分析や政策論ばかりが横行し、我が国の国体に基づいた「守るべき価値」は何かという根本的議論がなされていません。これでは長期的な国家の存立はままなりません。あるいは別の言い方をすれば、対外的な守りを固めるためには、国体を明らかにして人心を統一し、国内の体制を整えることが先決だということでもあります。そしてその様な価値を対外に示すことによって、単なる狭隘な国益至上主義を超えた道義的国際秩序の構築が可能になるのです。それこそが世界無比の天皇を戴く我が国の道義的天命でありましょう。
 第二の理由は、『新論』が記されたのはいまから約二百年前のことですが、当時の時代情勢と今日の情勢は驚くほど酷似しております。『新論』が描いた武士の都市集住や商人資本の跋扈、農村社稷の荒廃といった時代状況は、人口の東京一極集中やグローバル資本主義の浸透、米価の下落と農村の衰退、貧富の格差の拡大、といった現状の写し絵の様です。さらに、そうしたなかで正志斎が『新論』のなかで提示した具体的政策の数々は、今日においても通用するものが多く存在します。例えば前述したような武士土着論に基づく兵農一致政策などは、今日における辺境防衛や農村振興、貧民救済、少子化対策においても重要な示唆を含む様に思われます。(『新論』の社会政策的意義は本書、小野氏論稿を参照の事)
 いまや我が国は衰退の一途を辿り、戦後の対米従属、冷戦以降のグローバル化の波に翻弄され、国際政治の大海なかを漂泊し沈没しつつあります。こうしたなかで我々は他国の猿真似をするのではなく、『新論』を読むことで日本の「守るべき価値」としての国体を正しく認識し、国際情勢の荒波を乗り越える不動の国是を確立するよすがとする必要があると思うのです。